110.『精霊の花嫁』様
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頭の中でなにかが弾けた。その音がどう響いたのか。なにが割れてしまったかもわからない。
例えるのなら薄いゴムに突き刺さる棘のように、限界まで膨らんでいたそこに深々と食い込み開いた穴から不快な感覚が溢れてくる。
したたり落ちた先、広がる波紋は確かな違和感。気付いてしまえば止められない。知らぬふりはできない。
鼓動と共に増し、吐き気にも似たなにかに襲われる。実際に胃から込み上げる酸味こそなく、乱れたのは呼吸だけ。
「……って言えば、やっとわかるか?」
やれやれと、吐かれた息は先ほどよりは軽い。
だが、今のディアンにはそれだって重々しく、あまりに深く。食い込んだ爪は、なおも穴を広げようとしている。
「本来、精霊によって選ばれた者はその時点で聖国に保護されることになっている。それは善意悪意にかかわらず、その者をあらゆる事象から守るためだ。そもそも、どこの誰が選ばれたなんて、家族以外で必要以上に知っている奴がいる時点でおかしいんだよ」
「つ、通例ではそうでしょうが……今回は父と精霊王との盟約によって成り立っているのですから、それは……」
そう、そもそもオルフェン王が要求しなければ、この婚約は成り立たなかった。それを隠し通せなんてのは無理な話だ。
ヴァンたちの功績を思えば知られていて当然。どうやったって世界中に知られてしまう。
「だからこそ余計にだ。精霊に見初められたってだけで邪な考えを抱く連中はいくらでもいる。恩恵を賜りたいと邪念を吹き込むならまだしも、最悪は命を落とす可能性だってあるんだぞ?」
エルドの言うことには心当たりがある。
幼い頃より頻度は減ったものの、産まれた時は貢ぎ物なんかも凄まじかったし、今も定期的に招待状も届いている。
すぐに王家が関与し、ある程度の制限は設けられたが……それでもあの量なら、実際はどれだけ届いているのか。
『精霊の花嫁』が見たというだけで劇は大盛況だし、食べ物なら飛ぶように売れる。本だって、お気に入りの本だと謳い出せばどの書店でも完売だ。
同じ物を共有することで、いつか加護を得られると思っているのか。あるいは、彼女の夫となる精霊からのおこぼれを期待しているのか。
そんなことをしても無意味だと、子どもながらに思いながら口に出さなかったのは、それこそ無意味と理解していたから。
良くも悪くも『精霊の花嫁』は影響を与える。逆にそれを煩わしく思う者だっていないとは限らない。
ダガンのように極端ではなくとも、精霊の怒りを畏れぬ者だって少なくはない。
命までは取らないが、危害をくわえるぐらいなんとも思わない者だって。絶対にいないとは言いきれない。
「成人を迎える日まで陛下と同等に扱われるべき存在。その肌に傷一つ付けさせてはならず、何一つ憂い無く過ごしていただかなければならないというのに、なぜあんな場所で暮らし続けている?」
実家をあんな場所、と称されるのは少しだけ複雑な思いもあるが、言われていることは尤もすぎる。
比較的中心地から離れているが、それでも王都の中だ。ギルド長の自宅で、王族直轄の騎士だって常駐している。
いついかなるときもメリアのそばにいたし、部屋だって厳重に守られていた。実際、彼女が生まれてから十数年、ディアンが知っている範囲で妹が襲われたことは一度もない。
それでも、聖国の神殿と我が家。どちらがより安全であるか比べるまでもなく。
わかっていながらあの場に居続けた理由を問われれば、それは……。
「……わ、かりま、せん」
わからない。わかるはずがない。ディアンはなにも教えられなかった。
お前は関係ないのだと、妹のことよりも己のことを考えろと。騎士になるための努力を積み、その役目を果たせと。
疑問をもってもねじ伏せられ、いつしか考えることさえ止めてしまった。その事実すら忘れてしまっていた。
繰り返されてきた拒絶。幾度となく妹を咎め、その度に父に怒られ。その過程で生じた違和感が今になって蘇ってくる。
なぜ。……そんなの、ディアンが知りたい。違う、知りたかった。ずっとずっと、知りたかったことだ。
なぜ、警備の厳重な王城に棲まわせないのか。
なぜ、守らなければならない相手だというのに気軽に街へと出かけさせるのか。
なぜそれを……教会も、許していたのか。
「迎えはこなかったのか」
「……迎え?」
「一度目の洗礼を終えた後、聖国へお連れするための馬車なり使者なり来たんじゃないのか」
もう十数年も前。それも、まだ幼い時のことだ。当時どうだったか思い出すのは難しい……はずなのに、蘇る光景はひどく鮮明なもの。
応接室に通される見知らぬ姿。翻る蒼。部屋に戻るよう言いつける声。そう……ディアンはそれを、見たことがある。
「……来ていた、記憶があります。いつの頃か来なくなりましたが、それまでは何度か……でも……」
「でも?」
頭の中で景色が流れていく。応接室に入っていく母と妹。二階の吹き抜けからそれを見ていた自分。聞こえた悲鳴と怒鳴り声。
ああ、そうだ。彼女があの家に留まったのは、それこそ、
「――メリアが、嫌がったから」
嫌だと叫んだ声が響く。喚き、離れたくないと。知らない場所になんて行きたくないと。その姿こそ見ていないが、父にしがみ付き母に縋り、そうして全身で拒絶を示したはずだ。
まだ当時妹は六歳。自分の感情を優先させるのは普通のことで、どうすれば最善かなんて押しつけるのは酷なこと。
だから、異常だと思ったのは。今だからこそ、違うと思えるのは……それを宥め、『精霊の花嫁』としての在り方を説かなければならなかった、父の声。
「それで教会が素直に引き下がったのか?」
「いえ。だから何度も尋ねてきて……その度に、父と……その……話し合いを」
聞く耳を持たず一方的に威圧し、追い返そうとするのは一般的にはそう呼ばない。
怒鳴り、威嚇し、娘の意思を優先させようとする姿は、とても『精霊の花嫁』の父としての姿ではなく。
「最終的には、王城から専属の護衛を付けることで納得したと聞いて……そ、それこそ、あなたのほうが僕より詳しいのでは」
「国王も知っていながらそれを認めたってことか?」
それこそ、エルドの方が当事者だ。
実際に関わっていなくても報告ぐらいは聞いているはず。それなのに、なぜ聞かれているのは自分で、まるで知らないように問いかけてくるのか。
そう突いたはずなのに、最後の言葉など聞いていないと言わんばかりに質問は続く。
「エルド。本当に僕が知っていることなんて、ほとんど……」
「どうなんだ」
それでもと食い下がろうとすれば遮られ、視線は縋るように足元へ落ちる。見上げる蒼は、残念ながらディアンではなくエルドの味方のようだ。
一度、息を吐く。エルドに対してではない。自分自身が落ち着くために。
彼は言った。ディアンがなにも知らないことを既に知っていると。そのうえで問いかけ、答えさせようとするのは、その出来事自体が知りたいからではない。
わかっていないと理解した上で問いかけなければ得られないなにか。
ただの時間つぶしではない。わざわざディアンに説明させなければならない、確かな目的と理由が存在する。
では、それはなんなのか。
……あるとするなら、それはディアンでしか示せないもの。
――ディアンが、どこまでこの事態を認識しているかだ。
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