106.お話
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弱々しく煮える音の合間から、薪の爆ぜる音が聞こえる。
夕食の煮える待ち遠しい光景を間に挟み、向かい合う二人の表情は互いに硬いままだ。
一つは姿勢を崩し、一つは正したまま。片方は貫き、片方は受け止める。一人は息を吐き、一人は……やはり、変わらぬまま。
どう切り出せば良いか悩むディアンとは違い、エルドはおおよそ想像できているのだろう。
なにを聞かれ、それに対してどう誤魔化すか。伝えていい情報と、そうしてはいけないことも。
ディアンでは、どうしたって口では敵わない。それはエルドだけではなく、今までの傾向から理解していることだ。
口答えが許されなかった環境とも言えるが、話術に関して敵う相手でないのは明らか。こうして聞く権利を得たところで、知りたいことの半分も教えてはくれないだろう。
知恵を絞ったって時間は無駄に過ぎるだけ。故に、絞るべきはディアン自身の勇気。
「……噂程度でしか聞いていなかったので、結びつくのに時間がかかりました」
順序立てて話すつもりはない。否、そこまでの余裕がないと言うべきか。
本来関わってはならなかったその話に踏み込むのはおそろしいことだ。知る事で己を守ることも確かにある。だが、逆に知らないからこそ守られることだって。
関わらずにいようとするのは楽だ。流されるまま、流れるまま。悩むことも考えることもなく、求められた時にだけ対応すればいい。
それが自分より明らかに強者で、巨大であればなおのこと。
だが、もうディアンは知ってしまった。自分が関わっているのだと。自分の意思に限らず、その事実はいつかやってくるのだと。
ならば知らなければならない。知る必要がある。どれだけエルドが隠そうとしても……ディアンは、それを知らなければならない。
全てがわからずとも、ほんの一部だけであったとしても。知らぬままでいる選択なんて、ディアンには取れないのだ。
「単刀直入に言います」
光はエルドを貫く。そして、薄紫もまたディアンを見つめる。
互いが互いの感情を映し、反射し……そして、混ざり合う。
「あなたは、精霊と人の間に生まれた存在なのですね」
「……はー」
表情が崩れたのはエルドだ。
眉を寄せ、苦笑し、ただでさえ整っていなかった姿勢がより崩れていく。
「まさか真っ先に人外認定されるとは……確かにちょっと人より魔法は使えるかもしれんが――」
「アプリストス」
音が止まる。閉じた瞳は再び開き、見やった光に感情はない。薄い色彩の中、映り込むディアンの姿に変化はない。
驚きも、大袈裟な演技に騙され怯むこともなく。そう至る根拠があるのだと、突きつける唇に淀みはない。
「リヴィ様、でしたね。二回ともその精霊の名を紡ぎ、娘だと名乗った。彼もあまり有名な精霊ではないし、名簿士の試験範囲にも入っていませんが、精霊史では何度もその名が出てきています」
グラナート司祭からも教わっていない。教会の書庫、そのいくつかの本で名を見かけただけだ。
あまり有名でないのは、単に加護を授けていないからだ。否、わざわざそうする必要がないとも言える。
個々に特別な恩恵を授かることは稀にあるだろう。だが、それは最初から全ての生き物に備わっている。
誇張ではない。何一つ例外なく、全ての生き物に。その司る力と同じく、なにか一つになど。
「アプリストスの力は強欲。身の丈以上の欲求も含まれますが、三大欲求も彼の加護に関係しています。生き物が生きていく上で必要となる行動。その衝動を担うのもまた、彼の加護の恩恵とも言える。有名ではないからといって、必要ではないとは言いきれない典型的な精霊です」
食欲も、睡眠欲も。そして、性欲だって。どれも生き物が生きていくのに必要な欲望だ。過剰が過ぎれば毒になるが、排除しきることはできない。
それは生きていく上で当然のこと。求めるべくして求めるようになったこと。それを全ての生物に授けるのは、まさしく『強欲』と呼ぶにふさわしい。
「彼と契りを交わした精霊がいるという話は聞いていません。僕が知らないだけかもしれませんが、少なくとも人を迎えたという記述は見かけなかった。……ですが、彼女は確かに娘と名乗った」
あの口上は、日頃から教会幹部へ行われているものだろう。
全てがそう名乗るかはわからないが、自分の存在を明らかにする必要がある際に、それは紡がれてきたのだろう。
今までずっと。彼女が……彼女たちがそうなった時から、おそらく。
「女王陛下の棲まわれる神殿。そこに仕える者は皆、選りすぐりの精鋭だと聞きました。それこそ、普通の人間では小間使いにすらなれないほどに洗練されているのだとか」
一国の王に仕えるのでも、相当の教育が必要とされる。それが精霊と同等の存在である女王陛下なら、その敷居が高いのも当然のこと。
ただの人ではその資格さえも得られない。そう、ただの『人間』なら。『人間』である限りは。
「噂では直属部隊も女王陛下に仕える者も、精霊と人間の間に生まれた者のみで構成されている。それが本当なら、女王陛下より直々に役目を賜ったあなたも、そうである可能性が高い」
「……あくまでも噂だろう?」
「えぇ、噂です。……貴方を恩人と呼んだ彼女の話を聞かなければ、僕も確証は持てませんでした」
これだけでは、ディアンだって可能性の一つで留めた。そうして考えすぎだと、現実的ではないと切り捨て、答えは出ないままだっただろう。
「二度目の洗礼を受けて間もなく、ご主人の故郷であるあの町に駆け落ちしたそうです。……あなたに助けてもらったのもその時だと、丁寧に教えてくださいましたよ」
薄紫は動かない。ディアンの視線も、揺るがない。
単純な計算だ。彼女が今何歳であれ、十八歳ともなればもう何十年も前の話だ。これが若い頃と一括りにされていればまだしも、洗礼なんて人生の節目を勘違いするはずがない。
少なく見積もっても五十年前。対してエルドは、外見で言えば多く見ても四十代。同じ人間なら、まだ産まれてすらいない。
それも、一目見ただけでその時の相手だとわかったのだ。外見もほとんど変わっていないと考えれば……もう、そうとしか考えられない。
膨大な魔力。豊富すぎる知識。そして、女王陛下に対しての数々の不敬も許される立場。
ただの人間ではあり得ない。ただの人間であれば……本当に、人であったのなら。
「人間と精霊の均衡を保つなんて責務、ただの『人間』にはできないことです。精霊でもあり、そして人間でもある存在でもなければ為しえない。……それは、まさしく人ではない貴方にしかできないこと」
薄紫が燃える。そう、今でこそ見慣れてしまったその色を、その祝福をようやく理解する。
精霊と血を分けるなんて、まさしく特別な加護だ。それをエルドが望んだかはともかく、確かにそれは何よりも特別な力。何よりも勝る恩恵。
魅入られるのは当然だ。この世のものでないと、そう考えたのだって自然なこと。
それはまさしく――人の世に、存在しないものなのだから。
「……違いますか、エルド」
震えず、迷わず。確信を持って呟いた声は、爆ぜる音と共にエルドの耳を揺らす。
眉は寄せられず、姿勢は緩まず。膝に腕を乗せたまま、見据える顔は変わらない。
数秒の沈黙が永遠に思え、鼓動は指先にまで響く。
それでも、間違いないと。間違っていても、何かは掠っているはずだと。
そう信じる紫が歪む唇を捉え、耳は喉奥から絞り出した声を確かに聞いた。
「……さて、どうだろうな?」
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