09.妹
「……あ」
部屋を出て、早めようとした足が響く声で止まる。
出口までの直線、その半ばを遮る姿は数時間前にも見たのと同じ。
父親よりも薄い茶色、自分よりもやや高い身長。そして、一瞬合わさってすぐに逸らされた、ヘーゼルナッツ色の瞳。
グラナート司祭の息子であり、ディアンの幼なじみ……だったペルデが、言葉を発することはない。
そう、幼なじみだった。いや、正確には今もそうだろう。
同じ英雄の息子。王太子殿下に比べれば立場は近いと言えるが、言葉を交わした記憶はこの教会内でも数えられる程度。学園内など、それこそ一度あるかないか。
関わりたくない理由は考えずとも。それを責めるつもりもないし、咎めるつもりもない。
むしろ、こんな落ちこぼれと仲良くするよう司祭に言われている彼に同情すら抱く。
仮にも教会関係者だ。表だって言えずとも、人であるかぎり嫌悪を抱くことは避けられない。
「……また、来てたの」
吐き出される声も小さく、されど迷惑であるというのがありありと伝わってくる。
ペルデにとってはここが家だ。そんな場所に避けている相手が無神経に来ていれば、不快に思わないわけがない。
それも、ほぼ毎日となれば……よくここまで耐えていると思う。
彼の気持ちは察するが、ディアンにもしなければならないことがある。
訪問は止められないが、少なくともこの場から去ることはできるだろう。
「もう帰る」
「そ、そう」
殿下相手と違い、不要な会話はいらない。手短に伝えた後は自分が去るだけでいい。
むしろ殿下もその対応を望んでいるかもしれないが、実際にそうすれば余計に怒らせてしまう可能性もある。
無難なのは近づかないことだが……と、そこまで考えて、ここに来る前の一連を思い出す。
伝えるべきか否か。僅かな葛藤の末、再び足を止めたのは気まぐれから。
「そういえば」
「っ、なに」
まだ話があるとは思わなかったのだろう。明らかに動揺し、拒絶する声色に苦笑すら浮かばない。
それでも目を合わせるのは礼儀だと、向き直った茶色はなんとも言えぬ表情でディアンを見つめていた。
睨んでいる……いや、どちらかといえば警戒しているほうが強いか。
「確定ではないが、近々姫から招待が届くかもしれない」
「姫様から? ……ど、どうして」
「妹に会いたいついでに集まりたいようだ。実際どうなるかはわからないが……一応、伝えておく」
あの様子だと、実行される可能性は半分。殿下が抑えきるのが半分。
しかし、妹……メリアに対して甘い彼なら、お茶会自体は止めはしないだろう。問題は、その招待者だ。
「き、きみも、来るの」
気にしているのはディアンだけでなく、目の前の青年もらしい。
よほど同席したくないのだろう。彼の立場を考えれば思っていても隠すべきだが、ディアン以外にはちゃんとしているはずだ。
つまり、隠す必要もないほどに嫌われているとも言える。
彼に対して害を与えた記憶はないが、好意的に思われることもしていない。そして、それはペルデも同じだろう。
特に理由は必要ない。嫌われているなら近づかない、互いに必要なのはそれだけ。
「……来いと言われれば行くし、来るなと言われれば行かない。僕はそれに従うだけだ」
素直に答えれば、眉間の皺が深くなる。煮え切らない返事が不満だろうが、それが全てだ。
言われたとおり従うだけ。そこにディアンの意思は関係ない。
そもそも、本当に開かれるかわからない召集についてこれ以上話すのも無意味だ。
話は終わったと、今度こそ足を進める。
ようやく開いた扉から差し込む光は、とてもディアンの不安を払うには足りなかった。
◇ ◇ ◇
家の前に着く頃には、景色は茜色に染まっていた。
屋敷の壁も、屋根も、全てが赤一色。普段よりも遅い帰宅だが、日が落ちきる前に戻って来られたことに安堵はできない。
心臓が早鐘を打つ理由は、早足で帰ってきただけではない。滲む手汗をズボンで拭い、一つ、大きく息を吐く。
まだ父親は戻っていないだろう。そして……妹は、いつもと同じように過ごしているはず。
今日こそはと意気込み、捻った扉の先。見慣れたエントランスこそ広く、明るくとも人影はない。
出迎える人間がいないのはいつものことだ。あと少し遅ければ誰かが立っていたが、その口から歓迎の言葉がかけられるとは思えない。
現に、目の前を通りかかったメイドもディアンを一瞥しただけでお辞儀すらしないのだから。
「……メリアは部屋にいますか」
メイド、といってもこの屋敷に仕えているのではない。
彼女、ないし彼らが敬う相手はこの屋敷の主人と奥方。そして、その娘だ。
同じ家族の枠ではあっても、ディアンはその対象に含まれない。最低限の敬意こそあれど、同レベルを期待するだけ無駄だろう。
通り過ぎようとする一人に問えば、冷たい視線に貫かれる。動じる事はない。これだって、もう慣れたこと。
「ご自分でお確かめになっては?」
「……そうします」
鼻で笑われる気配に怒りを抱くことはない。
ディアンが彼らになにかをしたわけではないが、彼らがディアンを嫌うだけの条件は十分揃っている。
出来損ない。加護無し。英雄の、面汚し。
上げるだけキリがないと早々に階段を上がり、分かれ道を右へ。廊下へ繋がる扉を開け、足を進める度に鼓動が強くなっていく。
向かって正面、自分の部屋には戻らないまま、左を向いて真っ直ぐ。屋敷の最も奥に二つの影。近づくにつれて鮮明になる姿は、見て確かめるまでもなく。
照明に反射するのは王家の象徴である白い鎧に赤の装飾。
一人は扉の前に、もう一人は廊下を遮るように。傍らに剣を携え、無心に見つめているのはそれぞれ違えど、果たすべき役目は同じ。
止められるのではないかと不安になるのも、視線すら向けられることなく許容されるのも何度目か。
仕事とはいえ、変わらない景色を見続けるのも苦痛だろう。外なら多少なりとも気を紛らわせるだろうが、その分寒さや暑さに苦しめられることになる。
廊下を見つめ続けるのと壁に飾ってある絵画を見つめるのとではどちらがマシか。答えは出ないまま、いよいよ近づいた扉から聞こえる声に息を一つ。
無言のまま横に逸れた騎士に会釈し、伸ばした手で刻むリズムは三つ。
「誰?」
「……僕だ、入るよ」
一瞬静かになり、それから聞き慣れた声が響く。数秒待ち、断られないことを確認してから捻ったノブは軽いはずなのにやたらと重く、鈍く。
やっとのことで開いた先、見慣れた光景はすぐそこにあった。
一人で寝るには広すぎる天蓋付きのベッド。あちらこちらに飾られた色とりどりの花。大きな窓から差し込む眩しい夕日。そして、中央に集まった三つの影。
二人のメイドに囲まれているのは、まるで絵画から出てきた可憐な少女であった。
まるでシルクのように美しいプラチナブロンドに煌めく薄い桃色は、精霊からの強い加護を頂いたなによりの証拠。
大きく開いた瞳は、同じ色の宝石を並べても劣るほどの透き通った緑。
小さな唇は薄く色付き、それらを縁取る肌は陶磁器と見間違うほど。
カップにかけられた指はあまりに細く、覗く手首は今にも折れてしまうそうなほど。身に着けているドレスの装飾は多く、柔らかいというより膨らんでいるという印象を抱かせるので余計にそう見えるのか。
誰が見ても可愛らしく、美しいと称する少女。そして、その姿を見たなら誰もが疑うはずもない。
彼女こそが精霊に選ばれた『花嫁』。英雄の娘だと。
そして、誰もが信じないだろう。目の前にいる少女こそが、ディアンの……実の妹であるということを。
メイドとお茶をしていたらしい。テーブルの上に並ぶ焼き菓子からメリアに視線を戻せば、すかさず新緑に睨みつけられる。
ついでに言うなら、冷ややかな視線が二人分くわわっているが、何人増えようと関係はない。こうなることは入る前から分かっていたこと。
「ただいま、メリア」
それでも帰ってきた報告をするのは礼儀だと名を呼べば、盛大な溜め息が響く。不快であると隠そうともしないのも、今に始まったことではない。
「おかえりなさい、お兄様。……帰ってこなくてもよかったのに」
せっかく楽しく過ごしていたのにと、顔を背ける姿さえ他者には可愛らしく見えるのだろう。
ディアンにとって実の妹だ。可愛くないわけではないが、無条件にそう思えるほど盲目ではない。
「勉強したくないだけだろう。……出かける前に渡した本は?」
「あれなら捨てたわ」
カップを傾け、淡々と告げられる内容に頭痛を覚える。予想しなかったわけではないが、まさか本当に捨てられるとは。
「興味がないからといって捨てるのは止めなさい。本だって無償じゃないんだ」
「あんなの読んでもつまらないわ! そんな物を渡すお兄様の方が悪いんじゃない!」
内容など関係ないのは、今までの経緯からも分かっている。どれだけ分かりやすくまとめられていようと、彼女の興味から外れれば捨てられることだって。
何度も注意したし、咎めてきたことだ。そして、その度に怒鳴り返されることも毎回のこと。
小鳥の歌とも比喩される声も、こう叫ばれては台無しだ。そうさせているのはディアンだが、だからといって譲るわけにはいかない。
控えるメイドは口こそ出さないものの、向ける視線は更に強く、冷たく。
立場から咎めることはできないとはいえ、ここまで分かりやすく敵対されることも……もはや、日常の一部。
ディアンの妹、メリアは基本的にこの部屋から出ることはない。禁止されてはいないし望むなら外にも出られるが、そのほとんどを屋敷の中で過ごしている。
出かけるとしても常に騎士に守られ、傍にはメイドが常に控えている。貴族でもない、ただの庶民であるはずの彼女がここまで保護されているのは、それだけ彼女の立場が特殊だからだ。
……『精霊の花嫁』
文字通り、精霊に嫁ぐ者を一律にそう呼んでいる。
選ばれた者は成人を迎えたその日に人の輪廻を外れ、精霊と同じ存在となって人々を見守ることになる。
通例であれば洗礼を受けた者の中で、精霊に見初められた者のみがなれる名誉。それがいつになるのか、そして誰になるのかも、その瞬間まで知ることはできない。
英雄……つまりはディアンの父が魔物を一掃するために授かった剣の見返りとして求められたのが他でもない彼女なのだ。
生まれる前から誓約により嫁入りが定められているメリアは、特例中の特例。そして、絶対に守らなければならない存在なのだ。
今年で十六歳。本来なら学園に通っている年齢だが、本人の希望からこの屋敷に残ったまま。そのほとんどをこの部屋で過ごしているのだ。
安全面から考え、学園に通わないのはまだいい。
……問題は、その本人が全く勉強をしないことだ。
読み書きこそは覚えたが、読むものといえば大衆向けに面白おかしく書かれた娯楽小説がほとんど。学術書など渡せば、捨てるか破られているか。
教師を呼ぶこともなく、家族の誰かが教えるわけでもない。ただ毎日お茶をし、散歩をして、時々母親と共に観劇へ。つまり、自分がしたいことだけを、したいだけしているのだ。
それを悪いとは言わない。彼女が嫁ぎ、この世界を離れるまで残り二年。人として過ごすにはあまりにも短い期間を、本人の好きなように過ごさせたいという意見は両親とも一致している。
しかし、それは最低限の知識を備えた上での話のはずだ。
魔術の知識がないのはいいとしよう。他国について知見が浅いのも仕方がない。
だが……精霊についても学びたくないとなれば、話は別だ。
学園に入らないのは安全を確保するためとしても、家庭教師をつけることはできたはずだ。
王家から派遣してもらえれば身元も確か。『精霊の花嫁』なら当然の待遇のはず。この屋敷にいるメイドも騎士も国から直々に命じられてここにいるのだ。
教師だけを呼ばない正当な理由はない。ただ、本人が必要ないと言ったから、いないだけだ。
父も母も、そして陛下もそれを認めている。否定しているのはディアンただ一人。
「精霊の王子様のお嫁になるんだから、あんなの必要ないわ」
「……ひとつ、今日渡したのはその王子様のお父様、つまりは精霊王についての基本的な内容だ。名前ぐらいは覚えているだろう」
学園に行く前に渡したのは、学術書とも呼べぬ……ほとんど絵本と変わりないものだ。
飽きさせぬよう挿絵も多く、そして難解な言い回しのない可愛らしいそれは、就学前の子どもでも頑張れば読めただろう。十六を迎えるメリアなら苦もないはず。
背けられたままの顔を見つめ、溜め息を堪える。反論がないのは無視か、それとも名前すら覚えていないのか。どうか前者であれと、願うディアンの祈りを誰が聞き入れたのか。
「ふたつ、そもそも王子とはオルフェン……精霊王も仰っていない。息子というのは比喩であり、自分の分身のいずれかということだ。『聖霊の花嫁』ではあっても、王子様の花嫁ではない」
これも説明するのは何度目だろう。その度に機嫌を損ね、ディアンの話を聞き流すのでろくに覚えていない可能性は十分ある。
王の息子、というので王子であると直結しているだろうし、浮かべているのはラインハルト殿下のような美麗な男性だろうから余計認めたがらないのだ。
中には老人や少年、そもそも人の姿を持たぬ精霊もいるが……そこまで説明したところで聞き入られないのも、もはや数えるまでもなく。
「みっつ。嫁入りするからこそ相手に対する知識は必要だ。人間同士の結婚とそれは変わらない。そして、種族が違うのならばなおさらだ。婚姻は結果ではなく過程であり、その先苦労するのは自分なんだぞ」
平民同士が結婚するのでも、相手について理解は必要だ。仕事や習慣、守るべきしきたり。
貴族同士ならなおのこと。そして、精霊相手ならば考えるまでもない。
まだ今はいいだろう。知らずとも生きていけるし、それを許されている。だが、実際に嫁いだ後も精霊側が許すとは限らない。
ディアンの父が結んだ誓約があるかぎり、婚礼自体がなくなるとは思わないが……それで辛い思いをするのは彼女だ。
その時に婿となる精霊が味方になればいいが、それさえも不確定。全員が人間に対して好意的ではない。
あからさまに敵意を向けることもないだろうが、命令によってむりやり結ばされた婚姻になるならば……やはり、その先はいいとは思えない。
ただの気鬱で済めばいい。だが、精霊の名も、その加護も、そもそも精霊界についても知り得る情報はあまりにも少なく、不確定だ。
だからこそ分かっている範囲だけでも学び、備えておく必要がある。
「いらないって言ってるじゃない!」
……だが、当の花嫁はそうは考えない。
彼女の中にあるのは、楽しい時間を邪魔された不満と、同じ説教を繰り返す兄への怒りだ。
こうなると分かっていた。それでもディアンが止めることはないし、止めてはならない。彼女のことを思うのであれば、なおのこと。
「メリア、聞きなさい。お前が思っている以上に大事なことなんだ。『精霊の花嫁』になるということは――」
「ああもうっ! 聞きたくない!」
音を立てて机が揺れる。咄嗟にメイドが支え、椅子が倒れることは防げても、紅茶がこぼれるのまでは止められず。
「どうしてお兄様はいつもひどいことばかり言うの!」
乱暴な動作よりも、吐き出されたその文句に眉間が狭まる。メリアの口癖だ。お兄様はひどい、お兄様は意地悪、お兄様が悪い。
彼女にとって、興味もなく面倒なことばかり言っている自覚はある。中には耳に痛いこともあるだろう。
だが、それは本当にひどいと称せることだろうか。
この場に味方はおらず、判断する者もいない。
「なにをしている」
――だが、反論を遮る者は、一人。
滲みながら睨みつける緑の目でも、後ろで冷ややかな視線を向けている四つの目でもない。
低く唸るような声は背後から。
確かに味方はおらず、判断する者もいなかったのだ。この瞬間までは……ディアンの息が止まる、この時までは。
「お父様!」
涙に濡れたメリアの瞳が見開かれ、その名を呼ぶ。聞かずとも声の主は分かっている。
何もかもが最悪で、最低のタイミング。それでも振り向かないことは許されず、強張った身体は徐々に扉の方向へ。
ディアンの背を遥かに超える身長。大男とまでは称せずとも、そこらにいる冒険者など比較にもならない体格。
簡易な鎧では隠しきれない筋肉は丸太のように太く、いかなる障害も打ち砕くであろう強靱な肉体。
短く切られた髪は目元を遮ることなく、黄金の光は容赦なくディアンに突き刺さる。家族の誰とも重ならぬその瞳もまた、精霊からの特別な加護を頂いた者の証。
心臓が跳ねる。その理由は恐怖か、それとも他の感情であったのか。
扉を塞ぐように立つその姿を見間違うことはない。
ヴァン・エヴァンズ。自らの娘を『精霊の花嫁』に差し出すと誓約した男。この国の冒険者をまとめ上げるギルド長。二十年前でこの国を救った英雄。
……そして、落ちこぼれと呼ばれるディアンの、父親だった。
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