100.選択は未だ
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とうとう100話に差し掛かってしまいました……。
まだまだ物語は続きますので、完結までお付き合いいただければ幸いでございます……!
強く目を閉じた途端に襲う目眩は、振り払うべきだった迷いだったのか。
否。腕を掴む手が。その温度が。囁かれた声が、そうではないと示す。
「エルッ――!?」
見開いた瞳が映すのは一色だけ。抱きしめられ。彼の服しか映らず、見えず。強張る身体は肩を抱かれて動けない。
「なにをなさいますか!」
疑問はリヴィの口から。抗議のように吠える声はゼニスのもの。その両方に対する答えは、ディアンの頭上から。
「俺もこいつも、まだ聖国には行かない」
困惑が広がるが、誰よりも驚いたのはディアンだ。
固めたはずの決意が揺らぎ、呼吸が乱れる。離れようとしても抱き寄せる力は強く、押し出した腕は弱い。
エルド、と。呼ぶ名はリヴィの咎める声に掻き消され、そもそも音にすらならず。
「お待ちください! これ以上の猶予がないことは、貴方様も存じているはず!」
首を振ることも、突き放すこともできず。顔を見上げることだってできない。どれだけ否定したくとも、エルドの腕はそれを許してはくれないのだ。
引き留められた喜びよりも、彼が命令に背くという事実が恐ろしい。それをディアンは望んでいないのに。そうまでして、叶えてほしいとは思っていないのに。
このままではいけない。それなのに、声が出ない。
抱きしめる腕は強いのに優しく、伝わる温度はあまりにも温かく。拒まなければと思えば思うほどに、離れたくないと思ってしまう。
ダメだとわかっている。わかっているのに。……わかっている、はずなのに。
「『中立者』様! これは女王陛下からの厳命です! どうかお聞き入れを!」
「二度も言わせるな。これ以上の言葉は不要」
肩を抱き直され、足が前に進む。だが、それは行くためではなく逃げるためだ。それではいけないと足を踏ん張りたくても、込められる力強さにされるがまま。
止めなければならない。だけど、止めたくない。任務を果たさせなければならないのに。それを望んではいけないのに。
「なりません!」
リヴィが追い抜き、後ろからついてきていたゼニスが回り込む。彼に至っては牙を剥きだし唸るほどだ。ここまであからさまに敵意を示したのはこれが初めて。
それだけ猶予のない状況。なのに、肩を抱く力が緩むことは、やはりなく。
「『中立者』様、どうかご納得を!」
「これ以上は我々とて容赦できません!」
一斉に響く金属音。鞘から引き抜かれた剣身の反射に紫が揺らぐ。
実力ならエルドの方が上。だが、そうさせるという状況自体あってはならない。
教会同士で争うのは、女王陛下に刃向かうのと同じ。彼を敵対させてまで、ディアンはこんなことを望んでいないのに!
ダメだ。本当にこれ以上は、もう……!
「エルドッ……!」
ようやく叫んだ名は彼に届いたのだろうか。僅かに緩む腕。解放されないままの肩。見上げた顔は険しく、薄紫は冷たく。
それでも、言わなければならない。止めなければならない。彼のために。……違う、それは自分のために。
自分のせいで傷つく彼を、見ないために。
「っ……お、ねがい、します」
どうか聞き入れてくれと。どうか、諦めてくれと。
声は小さくても、目を逸らしてしまっても。込めた思いは、握り締める手の震えを誤魔化すように強く、強く。
「『中立者』様」
静かに促す声はディアンに続くものだ。わかるはずだと。そうするしかないのだと。それ以外は、選べないのだと。
もうディアンに紡げる声はなく。喉の震えは息ごと胸の奥へ。そうして、肩に込められた力が抜けるのを。その瞬間を覚悟する。
「……これは『中立者』としての言葉ではない」
――されど、それは訪れず。
上げようとしたはずの顔が部屋を満たす光に遮られ、薄暗かった空間が白に浸食される。
目の前はチカチカと点滅し、その合間に見える景色はない。ただただ、暴力的なまでの光に襲われている。
立っている、はずだ。まだ自分は立っている。なのにその感覚さえわからない。目眩にも似た感覚の中、その声は。彼の声だけは、ハッキリと。
「私は。私たちは。自らの意思、自らの足で聖国へ向かう。それを咎めることは、如何なる者も許されない」
淡々と告げられた声に込められた感情は荒々しく。矛盾する二つが、理解よりも先に通り抜けていく。
点滅が収まり、世界に色が戻っても残光は焼き付いたまま。その声は、ディアンの奥へ刻まれたまま。
「ゼニス」
動揺も、説得も。いつの間にか静寂に変わり。唯一聞こえていた唸り声も、その名一つでピタリと止まる。
「元より従う必要のない命令だ。異があるならばかの地へ戻り、報告するといい。もうここへ来る必要はない」
蒼が睨む。見定めるように、疑うように。それが答えかと、問うかのように。
映り込む薄紫はそれをどう捉えているのか。鼓動の激しさに翻弄されるディアンに、読み取る力はなく。
「命令であろうとお前の意思で決めたならば、どうするかもお前自身が決めろ。それを、かの御方も俺も咎めはしない」
視線は交差したまま。薄紫も、蒼も逸れず。
……永遠に続くと思われたそれは、ゼニスが一歩進んだことで終わりと知る。
そのままエルドの足元に辿り着いた獣が頭を下ろす。忠誠を誓うかのような仕草。答えは、それで十分だった。
「彼女には、予定通り向かうと伝えよ」
「……『中立者』でないならば、問いかける無礼をお許しいただきたい」
足が進む。もう扉を塞ぐ影も、突きつけられる剣もない。エルドたちを遮るものはなにもなく、されど引き留める声は後ろから。
振り返った先。ディアンを……否、エルドを睨む瞳に浮かぶのは明らかな怒りだ。
女王の命令に背く。それだけではないなにかが燻り、弾け、それでもなんとか押さえようとしている熱。ジリジリと焦がす光は、確かにエルドを貫き。そして、立ち止まらせる。
「本当に、彼を選ばれるのですか」
問いは単調に。それだけではディアンには意味がわからずとも、問われているのはエルド。そして、その意味は間違いなく彼へと届いた。
「もしも同情からくるのであれば。かつての後悔故の行動であれば……それはただの自己満足に過ぎません」
その瞳だけで人が殺せるのなら、間違いなくその切っ先は深くエルドに突き刺さった。
痛みに跳ねた指がディアンの肩に。緩んだ力が戻る気配はなく。されど、瞳は揺らぐことなく見下ろしたまま。見据えたまま。
「貴方がたに翻弄される我々の、その痛みに少しでも理を示すのであれば。彼を解放してください」
それは。……それは、命令ではなく。されど、願いでもない。
姿勢は変わらず、下げる頭もなく。視線は未だ鋭く貫き、抜けることもなく。
縋る手も、折る膝もなくても。それは……懇願と呼ぶべきもの。
沈黙は数秒か。それよりも長かったのか。
「……選ぶのは彼だ」
答えは、それだけ、落とされた音の温度を知る前に手を引かれ、足はなすがまま動く。
扉に遮られるまでの一瞬。振り向いたディアンの目に映ったそれは、静かな怒りを携えた光だった。
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