97.一人の朝食
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眩しい朝日が過ぎていっても、海は変わらず揺蕩っていた。
あちらこちらで翻る衣と煌めく鎧。昨日とは打って変わって賑やかな光景は、それでも普段の町の様子とは言えない。
破壊されたギルドの詰め所を確かめる者。町民に話をうかがう者。教会の状況を確認している者。ゲートから下に向かう一団は、ダガンたちが仕掛けた罠を処理しにいったのだろう。抱えているのは臨時の魔法具か、それ以外のなにかか。
どこを見ても人に溢れ、しかし異様な雰囲気ではある。女王陛下の直属部隊がこんな大軍でいるなんて王都では……否、この国のどこでだって、こんな光景は見られない。
確かにここは教会の指定地で、由緒ある場所には違いない。教会にとっても守らなければならない場所だ。
それでも、ここまで来るなんてエルドが予想できなかったのだって当然だ。それだけ重要であり、簡単に存在を確認できていい存在ではない。
精鋭の中の精鋭。女王陛下が棲まわれる神殿の警備全てを担う、ただの人間ではなれない。ただ優秀なだけではたどり着けない。
ほんの一握りの、選ばれた者だけがその鎧を纏うことを許されている。
聖国に従事する者は基本的に青を身に付けているが、その由来に関してはハッキリしていない。
聖国の兵士も騎士も、シスターも司祭も、それから精霊名簿士だって。認められているなら例外なく、その清らかな色はどこかにあるはずだ。
……そういえば、エルドは身に付けていない。
もし『中立者』に正式な礼服があるのなら、きっとそれはふんだんに使われているのだろう。なんて、考えるのは現実逃避の一種なのか。
右から、左へ。左から、右へ。繰り返す往復に飽きれば、視線は正面に固定される。
そもそも首は動かず、手は膝の上に乗ったまま。踵どころか膝まで揃え、姿勢を正し続けてもう何分経っただろう。
正直呼吸もしにくいが、それは実際に身体に不調を来しているのではなく、両側から与えられる圧迫感であって……つまり……。
……ディアンは現在、その彼女たちに両脇を固められているという。なんとも言えない状況に置かれている。
隊長と呼ばれた女性が立ち去り、エルドがご飯にしようと笑ったところまでは正確に覚えている。
さすがにこの雰囲気で朝食は……と思っていれば違う女性に呼ばれ、結局食事は取れずじまい。
自分がそばにいては仕事の邪魔になるだろうと断りを入れ、持たされていた残音機を返してから端にあったベンチに座ったのも記憶違いではないはず。
その後、隊長と呼ばれた彼女と目が合い。動揺する間もなく近くにいた部下に二言三言なにかを話して……気付いたら、こうなっていた。
右斜め前と、左斜め前。それぞれこちらに背を向ける姿は、その立ち方からでも相当鍛えていることが知れる。
覗く肩や足だって逞しく、されど女性らしいしなやかさも兼ね備えたそれは芸術品にも思えただろう。
異性の身体を凝視してはいけないと視線は再び前に戻るが、意識を逸らそうとしても威圧感が凄まじすぎて平常ではいられない。
こうなる直前に一言断りを入れられたことから、そこにいる理由が監視ではないことは分かる。そうなると今度は警備ということになるが、正直そこまでされる心当たりはない。
エルドの同行者。それだけでここまでするのだろうか。
ディアンの感性からいえば否定だが、教会には教会の考えがある。たとえディアンがそう考えていなくても、彼女たちは必要だからそうしているのだ。
そう、だからこの状況も仕方ない。……そう己を言い伏せられれば、少しは楽になれただろうに。
耐えられているのはゼニスがそばにいるからだ。そうでなければ、本当にどうすればいいかわからなくなっていた。
揃えた足の裏で休む姿はさながら忠犬。しかし、その表情は退屈といわんばかりに欠伸を一つ。
彼にとっては馴染み深い存在だろうが、ただの一般人であるディアンにはなにもかもが耐えがたい。
エルドが帰ってくるまで続くのだろう。胃が痛いのは空腹のせいか、圧のせいか。正直腹は空いているが、この状況で食べろというのも無理な話。
なにもできず、できる気もせず。固まり続けているうちに、いつしか配膳の準備まで整っていたようだ。
あの直属部隊が市民に対して配給まで行う。……あまりにも、考えられない光景すぎる。こんなの口で伝えたって誰も信じないだろう。
漂ってくる匂いがまた胃を刺激するが、食欲よりも勝るのはこの状況からの解放とエルドとの再会。
残念ながら求めた茶髪は視界のどこにも見当たらず、もはや無心で時が経つのを待つばかり。
「――ぁ、」
……だが、身体は正直だったらしい。
ぐぅと鳴る腹の音に顔が熱くなる。昨日の夜からなにも食べていないとはいえ、こんな状況ででも鳴るなんて。
いや、空気を腸へ送り込む際に鳴る生理現象だ。ディアンの意思でどうにかできるものではないし、止めようもない。
そう分かっても、なんとも情けない響きに思わず咳払いをし、誤魔化しにかかる気持ちも理解されたい。
「もう暫くお待ちください。すぐご用意いたしますので」
これがエルドの前ならなんともなかったのにと、フードを被るはずだった手は、それよりも先に声をかけられたことで強張る。
その身体付きと同じく凜々しい声だが、かけられた口調こそ柔らかい。
先ほどまで鋭く前を見ていたはずの瞳に微笑まれ、心臓が跳ねた理由は一つでは収まらず。
「や、あっ、い、いえ! じ、自分で取りに行きます……!」
聞き間違いでなければ、持ってくると彼女たちは言った。なぜか始まった警護だけでも畏れ多いのに、下働きの真似までさせるなんてあまりにも耐えがたい!
慌てて立ち上がれば、伸ばされた手に行く手を阻まれる。さりげなく視界を塞ぐ動きにだって隙はない。
「失礼を。御身を守るよう仰せつかっております」
「あ、あの。失礼ながら私はただの一般人で、エルっ……ちゅ、『中立者』様と行動を共にしていたのはご厚意に甘えていただけです。皆様の手を患わせるような立場では……」
だから離れてほしいと訴えるも、彼女たちが手を下ろすこともなければ足を引くこともなく。
強制力はないが、これを突破できるほどディアンの肝は据わっていない。
「こんな状況で襲ってくる者もいないでしょうし、ゼニスがそばにいますから」
こういうときこそ聡明な彼の力を頼るべきだと。振り返り呼んだ獣はディアンの期待通りにそばに付き添い、そうして腕を傷つけないように袖を噛む。
そのままぐいぐいと引っ張られ、話が違うと焦っても振り払うことはできず。
「御身をお守りするのは、女王陛下からのご命令です」
彼を咎めるか、説得するか。僅かな葛藤は、その一言で遮られる。
僅かな抵抗を止め、改めて見上げた先。見つめる瞳は柔らかく、されど強く。
「どうかご理解を、『候補者』様」
「え……うわっ!」
バランスを崩し、腰はベンチに逆戻り。そのまま白い毛皮が足の甲に乗り上げてしまえば、もう立ち上がることもままならない。
ゼニスを説得したい気持ちよりも、告げられた言葉に意識を取られ、固まったままの口は結局なにも言えず。
聞き覚えがあるのは当然。その単語は、昨晩教会に辿り着いたときに聞いたばかりだ。
最初はエルドの役名と思っていたそれは、既に違うと証明されている。そして、ディアンがそう呼ばれるのはこれで二度目。
なんの候補かは、それこそわからない。だが、間違いなく言えるのは勘違いされているということ。
『中立者』が供に連れ行く者をそう呼ぶのだとしても、わざわざ名称が与えられるだけの理由が存在しているはずだ。
ならば、ディアンは違う。彼はエルドに命を助けられただけの……ただの、一般人。
「お、恐れながら、私は……」
「失礼致します。朝食をお持ち致しました」
否定は新たな声によって遮られる。すぐ近くに来ていたことに気付かず、見上げた先にはトレーを持った女性が一人。その衣は、やはり他の者たちと同じく。
「あ、ありがとう、ございます。でも……」
二度目の否定は、トレーを渡すなり一礼されたため告げられず。覗き込んだ手元に映るのは、パンに染み込んでいくバターと、暖かな湯気が立ったスープが一杯。
口の中に唾液が溢れ、空腹感がより強くなっていく。そうして見ている間にも断面に消えていく黄金のなんと抗いがたいことか。
透明なスープに溶け込む繊維は玉ねぎだろう。冷え切った身体にさぞ沁みるそれは、数分もしないうちに温度を失ってしまう。
今度こそ腹に棲まう虫は誤魔化しきれないほどに鳴き、早くそれを喰らえと脳を直接揺さぶってくる。
鳴りを潜めていた食欲が込み上げ、それでも耐えるのは今の状況だからこそ。
「『中立者』様も、昨晩からなにも召されていません。僕よりも先にあの方へ、」
「その『中立者』様より、俺は大丈夫だから先に食べていろ。……と、言付けが」
声こそ美しい女性のもの。だが、脳内でなぞったのは間違いなくエルドの声。苦笑し、呆れ、呟く姿までしっかりと映り込む。
まだ時間がかかるのだろう。そして、それは十数分程度ではない。共に食事を取るのは、どうやら難しいようだ。
沈黙するディアンをどう思ったのか、重しになっているゼニスに膝を突かれ、トレーが揺れる。
零れないようにと慌ててスープを持ち上げれば、指先から伝わる温かさ。それはディアンの迷いを揺するには十分過ぎるほど。
「……食べるから、揺らさないで」
ここで意地を張る必要はそもそもないと、引き寄せた荷物からゼニスのための肉を漁る。それが手元に来る前に鞄ごと地面に落とされ、拾いたかったそれは彼の身体の下敷きに。
こんなこと、今までしてこなかったのに。
「ゼニス、返して。君のご飯を出したいだけだ」
「わふ」
「……ゼニス」
本当にどうしてしまったのだろう。気の抜けるような返事は明らかな拒絶だ。
しっかりと抱えてしまった荷物を取り返すのは難しく、だけど彼もまた食事を取っていないのは同じ。
なにが彼をここまでさせているのか。結局名前を呼ぶしかできず、それに対する返事もなく。
「彼のことは気になさらず。どうか冷めぬうちに」
見かねた彼女に催促され、肯定するように尾が大きく揺れる。この場においてディアンの味方はおらず、求めた薄紫はやはりどこにもなく。
諦め、そっと啜ったスープの塩気は、なんだか少し強いような気がした。
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