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08.司祭

 響いた声に顔を上げ、床の軋む音に方向を正す。そうして遮られる窓の光に、その姿が想定よりも近かったことを知った。

 逆光になっていなければ眩しすぎて見えなかっただろう白いローブに施されている蒼装飾。普段は帽子で隠されている短髪は、鮮やかな茶色を晒したまま。刈り揃えられた後頭部まで隠されることなく。

 目尻の下がった目蓋から覗く赤褐色の瞳。穏やかな笑みは、数分前のシスターと同じように見えて……それよりも優しく感じたのは、かけられた声が柔らかかったからだ。

 光の具合で血の色にも見えるそれを恐ろしいと言うものもいたが、ディアンには焚き火を連想させる。柔らかく、暖かな。寒い夜に自分たちを照らす光であると。

 彼の役職から来るイメージも含まれていたのかもしれないが、街の女性たちのかっこいいという声を聞くかぎり間違ってはいないはず。

 レディなら見惚れていたところだが、声をかけられたのも微笑みかけられたのもディアンだ。

 慌てて本を閉じ、礼をする。そうする必要はないと言われることは予想ができたが、染みついた習慣は簡単に止めることはできない。


「失礼しております、司祭様」

「どうか楽にしてください。邪魔をしに来たつもりはないんです」


 少しだけ寄せられた眉が不快からきているのでないのは、かけられた言葉で分かる。困らせるつもりはなかったんだと、そう苦笑する表情を見るまでが様式美とすら言える。

 グラナート・オネスト。二十年前に魔物たちからこの世界を救った英雄であり、この中央教会での最高権力者。

 本来なら最年少で司祭になれるほどの実力を持ちながら辞退し続け、先代の司祭が退位されるまで見返りを求めぬままつくした聖人。

 そして……ディアンにとっては父親の、親友である。

 一つだけでも十分なのに、これだけの理由が揃えば頭を下げるのも当然だ。たとえ当の本人がいいと言っても、ディアン自身がそれを許せない。


「それで、今日はどの本を?」


 そんないつものやり取りを終えれば、聞き慣れた質問に手元を確かめる。無意識に読み進めていたとはいえ、求めていた情報が手に入りそうにない題目に、今度は眉を寄せたのはディアンの方。


「海の精霊についてです。大半が人間を嫌っていることは分かっているんですが……」


 精霊が全員、人間を好んでいるわけではない。中には動物や魔物相手に祝福を授ける精霊だって存在しているし、そんな相手が人間を花嫁に迎えるとは考えられない。

 分かっていたのに掴んでいた、分かっているけど読み進めている。言葉を濁せば真実は紛れ、都合良く解釈されるだろう。

 ディアンの場合はそれを狙っていたわけではなく、それ以上言葉が出なかっただけだが。


「確かに、可能性から考えれば低いでしょうね。でも決して無駄にはなりませんよ」


 どう捉えられたかはさておき、司祭がディアンを馬鹿にする様子はない。

 顔は柔らかく微笑んだまま、伝えられる言葉全てが温かく、自然と力が抜けていく。

 もしや、これこそが彼の授かった加護なのかと。そんな考えがよぎるほどには、少し疲れているのかもしれない。


「ペルデも、君を見習わないといけませんね」

「いいえ、彼から学ぶことこそ多くとも、そう言われるようなことはなにも……今日も先生の指摘にも答えられてましたし」


 故に、その名前が聞こえて身が強張る。ペルデ自身はなにも悪くないし、関係もない。ただ、今日の授業を思い出してしまっただけだ。

 緊張で震えながらも答えきった彼と、そもそも諦めて指名すらされない自分では比べようもない。内容だって、少し間違えていただけでほとんど正解だ。十分に胸を張れるだろう。

 他人の息子を褒め、自分の息子を下げるのはよくあることだ。司祭も一人の父である。そのあたりは変わらないのだろう。

 そう、お世辞と分かっている。分かっているのに、ここでも傷を抉られる気になるのは自分の未熟さ故。

 逃げるのは恥か。しかし、これ以上続けたいとも思えず、なにか話題はないかと視線を彷徨わせる。映るのは本の背表紙だけで、ディアンの味方になりそうなものはここにもない。

 いや、海の精霊について掘り下げれば彼もこれ以上追求しないはず。グラナートは司祭でもあるが、同時にディアンの精霊学の先生でもあるのだ。

 教え子の質問を無視することは、おそらくないだろう。


「ところで、怪我をしているとか」


 では、肝心のその内容はどうするか。

 聞きながら考えようと、合わせたはずの視線が再び逸れる。そうするべきではなかったと後悔しても手遅れ。

 シスターから聞いたのだろう。心配していた彼女がグラナートに報告しないはずがない。知られたくないというのはディアンの我が儘で、善意からの行為を咎めるのは筋が違う。

 忘れかけていた痛みが込み上げる。一度思い出せば、もう気になるのはそればかり。


「いえ、大した傷では。それより質問しても?」


 否定をすれば嘘だと気付かれる。怪我をしていることは認め、痛みはないと申告するのが最善だ。放っておいても問題はない。

 見せるほどの傷ではないし、それよりも勉強したいのだと。掘り下げられそうな記述を探そうとしたページが、本ごと消えた。


「もちろん。あなたの傷を見た後でいいなら、いくらでも」


 パタン、と。音を立てながら閉じたのはわざとだろう。そのまま棚に戻され、誤魔化す手段が封じられる。


「本当にただの打ち身で、見せるほどの怪我では……」

「本当になんでもないなら、私も治療まではしませんよ」


 でも見るだけなら問題はないでしょうと、光の具合で赤く見える瞳がディアンを見つめる。

 虚勢を張るならこの目から逸らしてはいけないが、最初に逃げた時点で分は悪い。そもそも、この人に口で勝てるわけがない。

 溜め息こそ出さなかったが、諦めるしかなく。服の裾を捲り、そこで初めてディアンも惨状を確認する。


「……うわっ」


 歪な円形を描く赤黒い痣。目立つ部分もそうだが、その周囲もひどく赤く、想像以上の範囲と色に出てしまった声を誤魔化せはしない。

 小さな溜め息は頭上から。見上げることはできずとも、その表情が良くないことは想像に容易く。


「……これで大した傷でないなら、大怪我の時はどう教えてくれるんでしょうね」

「み、ためは派手ですが、痛み自体は――っ」


 伸ばされた手が、おもむろに腹部に触れる。そう力は入れていないはずなのに、撫でられただけで広がる痛みに息が詰まり、言い訳が途切れてしまった。

 これのどこが痛くないのかと、咎められても返せる言葉はない。


「内臓まではいってないか……ああ、すみません。触りますよ」


 もう触っていると、反論できないのは触れられる痛みのせいだ。突き刺さるような鋭さに相まって、じわじわと広がる余韻がディアンを侵食していく。

 これ以上情けない声が出ないように歯を食いしばっても、荒くなる呼吸を整える術はない。

 大きく息を吸おうとして、ふと感じた温かさに瞬きを一つ。

 周囲を照らす僅かな光。その光源は、司祭の手の中から。優しい光に溢れ、温まっていく患部がみるみるうちに小さくなっていく。

 数秒もすれば光は落ち着き、痣も痛みも嘘のように消えていった。

 協会の者なら全員が習得している治癒魔法。それも、上位である司祭自らとなれば、こんなにも早く治るのか。

 数えきれないほど受けてきたが、その度に驚かされる。もしディアンに治癒魔法が使えたとしても、それこそ数十分はかかるだろう。


「王太子殿下ですね?」


 お礼が問いによって遮られる。いや、疑問符こそ付いているが、ほぼ確信しているだろう。

 もはや否定する気もなく、口を閉ざしたまま。沈黙こそが最大の肯定だが、そうだと断言したくもない。

 まるで拗ねた子どものようだ。そして、それを苦笑する司祭も、幼い子を見守る大人と同じ。


「お父様には言いませんよ」

「……いいえ、もう気付いています」


 父親に怒られることを心配してくれたのだろうが、試合で負けたことはすぐに耳に入るはずだ。

 どれだけディアンが隠そうとしても、周囲の者がそれを放ってはおかない。

 そして、その全てが善意からでないなら、なおのこと。


「いつもすみません、お礼もできずに」

「そう思うのなら隠そうとしないでください。それに、困っている方を助けるのは我々の務めですから」


 だから気にしなくていいと、笑う男の顔は演技ではない。本当に、心の底からそう思っているのだ。

 教会の重責など、その場凌ぎの忠誠心や信仰心でなれるものではない。だから、ディアンに向けられている優しさも本物だ。

 分かっている。分かっているのに、浮かぶのは暗く、重い感情ばかり。

 そう、教会は困っている者を助けてくれる。それは、教会が精霊の代弁者であり、人間がその精霊から加護を頂いているからだ。

 精霊についての一切の権限を掌握する代わりに援助する。それが各国と協会で結ばれた協定であり、この先も揺るぐことはない。

 そう、例外はない。できる範囲は限られているが、ほとんどの者がその救いを求める権利を与えられているのだ。

 加護さえ頂いていれば。加護さえ、もらっているのなら。


「……それは、加護のない者にもですか」

「――ディアン」


 口に出すつもりはなくとも、こぼれてしまったなら言い訳はできない。

 低く呼ばれた名に身を強張らせ、慌てて本棚に目を向ける。しまわれた本の位置を見つけられずに彷徨う目は滑稽に見えていることだろう。


「すいません、失言でした。それより、先ほどの質問なんですが」

「ディアン」


 肩が跳ね、指が滑る。鼓膜に響く声は強く、心臓が締め付けられる感覚に苦しむ。

 これから続く叱咤に構えたはずが、肩に触れられたことで緩んだ。そのまま震えた手を取られ、思わず見上げた顔に怒りはなく。


「司祭様――」

「……ここからは、君の父の友人として話そう」


 赤に覗かれ、しかし恐れはなく。

 分かるのは寄せられた眉の理由ではなく、そこに込めた感情が一言で表せられないことだけ。


「確かに君は、精霊から加護を頂けなかった。実際に洗礼を行ったのは先代の司祭で、私は傍観者でしかなく、原因を調べるには情報が少なすぎた」


 覚えている。覚えているとも。先代の司祭のことも、あの穏やかで年老いた彼の驚く声も、庇おうとしてくれたグラナートのことも、落胆する周囲の声も。

 ……父の、あの目だって。

 強張った手を握り返される。痛みはなく、魔法を使っていないはずなのに温かい。


「確かに、今まで加護を頂かなかった前例はない。だが、それは決して君が悪いわけではないんだ」

「ですが……」


 咄嗟に出た否定は、込められた力で出てこないまま。緩く振られる首を、ただじっと見上げたまま。


「周りは好きに言うだろう。だが、君には君にしかできないことがある。難しいかもしれないが卑下してはいけない。自分だけでもその努力を認めてあげるべきだ。……そうでなければ、きっと君は、潰れてしまう」


 もう一度、振り絞ろうとした声が音にならない。喉が狭まって、呼吸さえ苦しく思う。

 努力は、している。しているはずだ。自分ではそう思っている。だが、その結果がついてこないのなら、その評価で潰れてしまうのなら、自分はその程度の人間ではないのか。

 人並み以下の自分は、それこそ人一倍努力しなければならない。

 だから、この程度でくじけていてはいけない。潰れては、いけないのだ。


「君には君にしかできないことがある。それに、精霊についての知識は既に名簿士同等だ。それだけでも十分凄いことなんだよ」

「そんなことは、」

「では代々、与えられる加護が確定している家名は?」


 突然の出題に一瞬呆け、それから記憶を探る。確定している、となると……。


「……メーチ家、です」

「加護を与えている精霊の名と、その経緯」

「……剣、長剣の精霊クシフォス。創世記後半、魔物の討伐が安定していなかった頃、メーチ家の先祖との誓約により代々加護を与えるようになった。それは数百年経った今も継続され、生まれた子が女性でも例外ではない。故に、メーチ家は代々剣豪として知られている……」


 見上げた顔が頷き、間違っていなかったことについて安心する。

 だが、この程度は剣に携わる者なら多少なりとも知っている話だ。王太子殿下も間違いなく答えられるだろう。


「では、クシフォスと兄弟と呼ばれている精霊は?」

「マヒェリ、ツェクリ、ドリ。短剣と、斧と、槍の精霊です」


 そこまで答え、おや、と制止がかかる。


「トクソが抜けてるね」

「えっ……で、ですがトクソは弓の精霊で、確かに親戚ではありますがどちらかといえば従兄弟で――」


 違わないと、否定をした途端に和らぐ表情に、わざと指摘されたと気付いても遅い。思わず俯いてしまっても、彼の主張を否定することはもう難しい。


「確かに、それに携わる者なら関係する精霊の生い立ちや詳細を知っているのは普通のことだ。でも、彼らがどう関係しているのか、どのような加護を与えるのか、名前と種類を正確に覚えることは容易ではない。ちなみに、今のは名簿士の試験でも出た問題だよ」

「……ですが、学園の試験では……全く……」


 今は本番ではないし、ここは学園でもない。正解できたのは比較的落ち着いていたからだ。

 名簿士の問題であっても、きっと簡単な方で……成果を発揮できる場所で出せなければ周囲はその通りに評価する。


「試験の結果は指標の一つにすぎない。私が言える君の欠点は、緊張しすぎることと、自己評価の低さだろうね。剣も魔法も筋は悪くないんだ、いざという時はちゃんと対応できるはず」

「……司祭様は、剣を扱いに?」

「これでも英雄と呼ばれているぐらいだからね。腕っぷしには自身があるよ。……他の二人には、さすがに負けるけど」


 ほら、と捲られたローブの中。曲げた腕に乗り上げる逞しい筋肉。たしかに父親には敵わないが、相当鍛えているのは間違いない。

 鍛錬を続ければ同じぐらいにはなるだろうかと、比較しようとして止める。比べるのなら、あと十センチは身長が欲しいところだ。


「大事なのは自分がどうしたいかだよ。他人が必要ないと言っても学びたいなら学べばいいし、剣よりも魔法を極めたいならそうすればいい。そして……どちらも自分には苦痛だと思うのなら、止めてしまってもいいんだ」

「それは……」

「無理に選ぶ必要はないが、候補の一つとして考えておいてくれ。まだ若いんだ、選択肢はいくつあってもいい」


 軽く肩を叩かれ、そうして離れていく温度が冷たい。

 なにを指しているかは分かる。そして、それがいかに難しく、選べそうにないことも。

 示されている道は自分で選んだわけではない。不満を抱こうと、馬鹿にされようと、ディアンに選択肢はない。

 分かれ道はそれこそ数えきれないほど。だが、その終着点は……彼自身で、選ぶことは許されないのだ。


「さて、話が長くなってしまいました。そろそろ質問を聞きましょうか」


 口調が戻れば、雰囲気も戻る。いつもの穏やかな笑みに見つめられても、ディアンの心は重いまま。


「……いえ、今日はもう帰ります。長々とすみません」


 礼を一つ、それから横を通り過ぎ、早足で階段を駆け下りる。

 窓の外はまだ明るいが、時計はもうじき夕方を指し示す頃合い。これからの予定を考えると、急がなければ間に合わないだろう。

 そう、逃げているわけではない。逃げる理由はない。だって、全部、事実だから。


「ディアン」


 扉に手をかけたところで声が降ってくる。見上げた先、優しい光は穏やかなまま。


「本当に辛いと思ったら、遠慮なくここに来なさい」


 待っていますと、与えられた優しさに返事はできず。部屋を出る前にもう一度だけ礼をするのが、ディアンのできる精一杯だった。


閲覧ありがとうございます。

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