3、解かれし鎖、揺らぎし心
意識が朦朧とする中、ゆっくりと目を覚ました。目を開けると、そこは薄暗く湿った部屋だった。周囲には湿った匂いが漂い、息苦しさを覚えるほど空気が淀んでいた。目が慣れてくると、自分と同じように鎖に繋がれた動物の姿がぼんやりと浮かび上がった。彼らの吐息や声が静かな絶望を漂わせていた。
時折、小さな人間が扉を開けて入ってきた。人間の子供、それもまだ幼い女の子だった。少女はおどおどと怯えたように目を伏せながらも、黒竜の子の前に慎重に食べ物や水を置いていった。
「ご、ごめ……んね……」
少女が小さく呟くたびに、黒竜の子は人間に嫌悪感を抱いてるため人間を見る度たびに牙を剥き、喉の奥から低く唸った。鋭い眼光で少女を威嚇するが、体が鉛のように重く、思うように動かないことへの苛立ちが胸を搔きむしる。同じ人間。
また自分を騙そうとしてるに違いない。そんな疑念が頭の中で渦巻き、胸の奥底から湧き出る怒りと恐怖が混ざり合って苦しかった。
警戒しない理由などない。しかし、少女はその度に震えながらも目を逸らさず、震える指先で慎重に食べ物や水を差し出した。
その瞳には怯えと同時に、どこか申し訳なさそうな哀れみが滲んでいた。黒竜の子はその瞳を見るたびに混乱し、敵意の裏側にある少女の本当の気持ちが理解できずにただ苛立ちを募らせていた。
そんな日々が続くうちに、少女の瞳に浮かぶ迷いや恐怖は少しずつ変化を見せ始めていた。ある日のこと、いつものように怯えながら食べ物を運んできた少女は、黒竜の子の前に立ち止まり、拳をぎゅっと握りしめる。その小さな肩は微かに震えていたが、彼女の瞳には明確な決意が宿っていた。
少女は一度口を開こうとして、唇を嚙んだ。その場に立ち尽くし、再び目を伏せ、何度かため息のような浅い呼吸を繰り出した。その間、黒竜の子は鋭い眼差しで少女を睨み続けていた。人間に対する不信と怒りが喉元で渦巻き、低い唸り声が口から漏れる。少女が何と言おうとしてるのか分からず、苛立ちと不安がますます募った。
やがて少女は深呼吸をし、意を決したように顔を上げた。怯えを残しつつも、決然とした目で黒竜の子を見つめた。その瞳の奥には、はっきりとした悲しみと強い覚悟が宿っていた。
「ねえ、聞いて……わたし……、本当にごめんなさい。あなたを助けたい。でも、夜は見張りが厳しくて動けないの……。昼間なら、取引があるから少しだけ隙ができるの……」
少女の声は震えていた。言葉を続けるたびに瞳に涙が溜まり始め、小さな顎が微かに震えた。
「だから、明日のお昼まで待って……絶対に逃がすから。私にできることはこれしかないけど、本当に……本当にごめんなさい……」
少女の声は掠れて震え、涙が頬をすべり落ちた。その言葉を聞きいた黒竜の子はさらに混乱を深めた。なぜ俺だけ逃がそうとするのか。人間の中にも、こんな感情を抱く者がいるのか。彼女の涙の理由が理解できず、胸の奥で疑念と戸惑いが渦巻き、鋭い眼差しの奥が微かに揺れ動いた。
最後の言葉を絞り出すと、少女は再びうつむき、涙を隠すように素早く背を向けた。その小さな背中が部屋の外に消えるまで、黒竜の子は混乱と動揺を抱えながら見送った。
少女の姿が見えなくなった後、彼はかすれた声でポツリと呟いた。
「なぜだ……」
薄暗い部屋に再び静寂が戻ると、黒竜の子は深いため息を漏らし、重く鎖につながれた首をわずかに動かして周囲を見渡した。壁際には、自分と同じように鎖で繋がれ、傷つき衰弱した動物たちが力なく横たわっていた。その瞳に宿る絶望と諦めが、胸を締めつける。
なぜ自分だけなのか――少女の涙と震えた声が何度も頭の中で反響し、理解しようとするたびに苦しさが募った。少女の抱く感情が本物なのか、それともまた別の罠なのか。その答えは見えないまま、黒竜の子は再び疑念と怒り、戸惑いと僅かな希望の間で揺れ動きながら、心の奥で複雑に絡み合う感情を抱えていた。
黒竜の子はもう一度、自分の置かれた状況を整理しようと試みた。しかし、視界に映る他の囚われた者たちの苦痛に満ちた姿を見るたびに、胸が引き裂かれるような罪悪感が湧き上がった。自分だけが逃げられれば、それでいいのか――?
少女の示した優しさは本当なのか。人間への憎悪と信じたい気持ちが心の奥底で激しくぶつかり合い、鎖に繋がれた身体はただただ重く冷たかった。
それでも、約束の時間が近づいても黒竜の子の思考は曇ったままだった。希望など抱けなかった。ただ、外に出たい、帰りたい――その一心だけが胸に残り、ほかの感情は霧の中に沈んでいた。少女の言葉が本当かどうかなど考える余裕もない。今の自分にできるのは、ただ時間の流れに身を任せることだけだった。
恐怖が胸の奥を締めつけ、眠ることさえできなかった。意識が朦朧としながらも、頭の奥が鈍く痛む。どれほど時間が過ぎたのか分からない。体感では永遠にも思える時間が流れたが、周囲は徐々に静かになっていった。
檻の外――曲がった廊下の奥から、かすかに人の声が聞こえた。椅子のきしむ音、数人が談笑する声。その響きからして、夜の見張りだろう。昼間にはいなかったはずの監視たちの気配に、全神経が耳へ集中する。
だが、眠ることはできなかった。目を閉じても、瞼の裏で光景が揺れ、胸の高鳴りが収まらない。呼吸も荒く、体の奥で何かがすり減っていく感覚があった。時間の流れが曖昧になり、思考がまとまらず、世界がぼやけて見える。やがて、またいくらかの時間が過ぎた。
遠くから、活気あるざわめきが聞こえてくる。船の甲板か、それとも荷の積み下ろしか――それが昼の喧騒であることを、体が覚えていた。眩しさや光はないが、空気に漂うざらつきと音が、今が昼であることを告げている。
その時だった。かすかに、小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。瞼をうっすらと開けると、視界の端にぼやけた人影が映る。少女だ。その表情には焦りが浮かび、目は潤み、唇は固く結ばれていた。
(ほんとうに……こいつ、逃がす気か……?)
頭の中に疑問が渦巻く。なぜ自分なのか。なぜ、今なのか。混乱する思考の中で、少女は枷の留め具には手を出せなかったが、鎖の繋ぎ目を外すことに成功した。
黒竜の子は、本能のままに、混乱と焦燥と恐怖を抱えながら、翼を広げた。が、途端に激痛が走った。
「っぐ……!」
人間につけられた傷が痛む。だがその痛みも、一瞬だった。神経がそれに気づかないほど、意識はすでに“外”に向いていた。逃げる、それだけが目的だった。
力任せに跳躍し、天井近くにある小窓へと体をぶつける。鉄格子の隙間を割るように、光が差し込んだ。その眩しさに一瞬視界が白く染まり、翼が軋む。バランスを崩して傾きながらもなんとか空へ飛び出した。
振り返る暇はないはずだった。
……それでも、一瞬だけ視線を戻す。
飛び出した勢いのままに空を舞いながら、黒竜の子は鋭く揺れる視界の隅で、あの部屋の小窓をちらと見返した。そこに、小さな影があった。少女だ。揺れる髪、震える肩、握りしめた拳。その表情はくしゃくしゃに歪み、頬を涙が伝っている。それでも口元はかすかに笑っていた――いや、笑おうとしていた。声は届かない。けれど、その唇が何かを必死に伝えようとして動いているのが、はっきりと見えた。嬉しそうで、寂しそうで、痛ましいほどに切ない、泣き顔だった。
何を伝えようとしていたのか、その時は分からなかった。
それでも、あの表情だけは、忘れられなかった。
俺は羽ばたいた。翼はまだ重く、身体は傷だらけで、ひとつ動かすたびに痛みが走った。それでも――飛んだ。胸の奥で叫ぶような想いが、ひとつだけ鮮明にある。帰りたい。あの森へ。あの空へ。誰にも脅かされることのない、静かであたたかな場所へ。
かつて自分が羽ばたいた空。風がやさしかった日々。その記憶だけを頼りに、痛みも恐怖も振り切って、ただ必死に、空へと駆けた。涙に濡れた少女の顔が、何度も視界に滲んでは揺れた。それでも前を向くしかなかった。ただ生き延びるために――俺の居場所に戻るために。
もはや何も考えられない。ただその思いだけが全身を駆け巡り、朦朧とする意識の中、ひたすらに飛び続けた。
だが、少女のことが脳裏をかすめて離れない。あの泣き顔が、あの小さな背中が、焼き付いたようにまぶたの裏から離れない。逃げ延びることに必死だったはずの自分の心が、なぜか彼女を置いてきたことに、得体の知れない痛みを覚えていた。なぜ、あんなふうに泣いたのか。なぜ、自分のためにあそこまでしてくれたのか。理由も意味も分からない。ただ、胸の奥が焼けつくように苦しい。それでも飛び続けるしかなかった。
その時、不意に視界が揺れた。……いや、正確には、何かが視界に入り込んできたのを認識する前に、すでに衝撃は身体を打っていた。考え事に囚われすぎていた。少女の顔、あの言葉、飛び出す瞬間の感情が頭の中を何度も反芻され、目の前の現実すら見失っていた。耳に入る風の音も、空の色も、すべてが遠く、ぼやけていた。だから、誰かが目の前に現れたことにすら気づけなかった。鋭く重たい何かが、真正面からぶつかってきた瞬間、空気が爆ぜ、肺が圧し潰されるような衝撃が駆け抜けた。
「……ッガ……!」
「ヘギャッッッ……!!」
猫――黄金の毛並みを持つその存在は、衝突の衝撃に吹き飛ばされ、ぐるりと空中で一回転しながら時計塔の囲いに背中から激突した。金属の欄干が鈍く揺れ、ギリギリで踏みとどまる。その尻尾がふるふると揺れ、耳もぴくぴくと震えている。
「イ゛ッ……タァ……なになに、何事!?」
痛みに耐えるように、猫は小さく呻きながら背筋を丸めていた。尻尾はぴんと張り詰め、耳は震えるように伏せられている。それでも、ゆっくりと首を持ち上げると、金の瞳が黒竜の子を捉えた。視線には驚きと困惑、そしてわずかに滲む警戒と……好奇心。まるで「おやおや、これは一体?」とでも言いたげに、猫は瞳を細めてじっと見つめた。まるで初めて見る、不思議な来訪者を観察するかのように。
衝撃の余韻に身を震わせながら、ふるふると尻尾を揺らし、ぎこちない動作で体勢を立て直した。後ろ足を一歩引き、重心を整えながらゆっくりと姿勢を戻していく。体はまだ揺れていたが、その金色の瞳は一瞬の迷いもなく、真っ直ぐに黒竜の子を捉えていた。驚き、警戒、そして何よりも“確かめる”ような視線。その目は、まるで心の奥まで見通してくるかのようで、黒竜の子は思わず身をこわばらせた。猫のその存在感には、ただの獣ではない気配が確かに宿っていた。
金色の毛並み、金色の目。目に飛び込んできたその存在は、ただそこにいるだけで辺りを照らすかのように鮮烈で、まぶしい光の塊のようだった。身体が痛みで軋む中、その美しさに、一瞬だけ思考が止まる。――まるで神話の中から抜け出してきたような神々しさ。荒れた心の奥が、わずかに揺れた。
ただの猫ではないことは、すぐに分かった。
彼は俺の体に触れるでもなく、まるで空気の震えのようにやさしく魔力を伝え、焼けるように疼いていた傷を落ち着かせてくれた。鈍く重く全身を縛っていた苦痛が、ひと息ごとにすっと和らぎ、次第に呼吸がしやすくなっていくのを感じた。知らない術式だった。
だけど、怖くはなかった。黄金の瞳に見つめられるうちに、ふと、胸の奥の棘のような警戒心が解けていた。気づけば、鎖は静かに砕け、足元に落ちていた。そのすべてを成した相手の名も知らず、言葉も交わしていないのに、俺ははじめて“助けられた”という感覚に包まれていた。自然と、胸の奥からこみ上げてくるように、感謝の念が芽生えていた。
その時、不意に胸の奥で何かが波打った。まるで霧が少しずつ晴れていくように、思考がゆっくりと正常さを取り戻し始めるのを感じた。感覚が研ぎ澄まされるのと同時に、鮮烈に脳裏をよぎったのは、あの少女の姿だった。助けてくれた少女。泣きながら、それでも笑おうとしていたあの顔が、なぜか今、どうしてもぬぐえなかった。何かが胸の奥を突き刺すように疼き、静かな焦燥が全身を包んでいく。ただの記憶ではない、得体の知れない感情が心の中を満たしていった。
俺は、この猫に向かって、助けを求めた。
――次は、俺が、あの子を助ける番だと。




