Although me is a ghost
その日は、よく晴れていた。新春の陽気が心地良い。まだ肌寒いともとれる気温の中で、ミシェルはツナギの上半分をはだけさせて腰に巻き、下のシャツの袖もまくって、作業に熱中していた。
「ええ、大丈夫です、そのまま……」
ミシェルの周りには、何人かの日雇いの仕事人がいた。体力自慢の彼らとともに、ミシェルは大きな柱と格闘する。
「よし!」
公園に、蔓草が巻かれた屋根ができる。二平方メートルほどの大きさの屋根は網目状になっていて、そこに蔓草がしっかりと巻き付いている。
「ありがとうございます。これで、完成です」
ミシェルがそう言うと、日雇いたちは歓声を上げ喜んだ。ミシェルの手から、その日の分の給料が手渡され順次、解散していく。半日ほどの仕事だったが、力仕事を頼むということで、ミシェルはそれなりに給料をはずんでいた。
「さて、と。これからさらに手入れに入らなくちゃな」
ミシェルは巻き付けていたツナギに挟んでおいたタオルで額を拭い、作業の続きをしようと意気込んだ。
「ミシェルさーん、何してるのー?」
遠くの方から、ミネが声をかけてくる。まだ寒い気候をミネの母が心配したのか、手編みのマフラーが首に巻かれていた。毛糸の下から、ミネは可愛らしい声を出す。
「わぁ。ミシェルさんあつそう!」
「あはは、大丈夫だよ、これくらい」
「ねね、これなーに?」
「これか? これはね、『藤棚』っていうんだよ」
「フジダナ?」
「そう。ジパニアの文化で、この藤っていう蔓草を垂らす屋根を藤棚っていうんだ。もう少ししたら、綺麗な薄紫色の花が垂れるように咲くよ」
「ほんとう!?」
「ああ。それまでに完成させようと思って、頑張ってたんだよ」
「そうなんだぁ」
ミネは改めて、藤棚をしげしげと眺める。そこに咲く見たことのない花を想像して楽しんでいるのだろう、ミネの瞳は輝いている。
「さ、これから俺は仕事だ。ミネも何か用事があるんじゃないのか?」
ミシェルは、ミネの持つパイン製のかごを見て言う。中には一切れ、メモ紙が入っている。
「あっそうだった! ルガイユに使うソーセージを買いにいくの」
「そっか、いい子だな。……そうだ」
ミシェルが右ポケットの中を探ると、手に何枚か硬貨が当たった。その中から銅貨を選び出し、ミネに手渡す。
「ほら、お駄賃だ。キャンディでも買いな」
「わぁ、ありがとうミシェルさん!」
それを受け取ると、ミネは元気に店が立ち並ぶ方――ミシェルの店もある、商店街の方――へ向かい、走っていった。
それを見届けてから、ミシェルは強く巻いたり、針金で固定するなどしていた藤の蔓を解く作業に入る。二時間ほど作業をしただろうか。日が幾分か陰り、午後の日差しになった頃、昼食を摂った。
からぁん――……
遠くの方で午後一時を告げる鐘が鳴る。それと同時に、大きな樹を積んだ荷馬車が公園の中に入ってきた。
「よう、ミシェル。この樹だったよな」
「ああ。いつもありがとう、ゴーン」
「いいってことよ。さ、やっちまおうぜ」
ゴーンは、ミシェルの良い仕事仲間のひとりだった。普段は大工の棟梁を務めているが、仕事が比較的暇になる冬の頃は、反対に大掛かりになることが多いミシェルの仕事の手伝いをする。
今日は、柳の樹を運びそれを植える作業をする手はずになっている。二人の手にかかると、あっという間に立派な柳の樹は縦になり、土に植えられた。
「はぁ。一仕事終えたな」
「そうだな。ミシェル、これから一杯どうだ?」
「お、いい提案じゃないか。グラティチュードにでも行こう」
「いいねぇ。こういう寒い日はユリナ姉さんの飯が美味い」
「そう決まったら、残りの仕事も片付けてしまおう。えーと、次はその袋の肥料を……」
そのまま二人は、樹を植える他に藤棚の手入れまで、全てを終わらせ、ユリナの店、グラティチュードに向かった。
その日の夜。ミシェルは、家に帰るまでの道のりを、炭酸水の小瓶を片手に辿る。途中、自分の仕事内容を確認しようかと考え、グラティチュードから公園まで足を延ばし、遠回りをして帰ることにした。
「ああ、美味かった。でも、ゴーンの奴は本当によく喰うな」
食べ物を詰め込んだ胃を落ち着けるように、ミシェルはゆっくりと歩く。公園に着くと、柳の樹の下に立った。
「うん。良いな」
仕事に間違いがないことを確認し、ミシェルはひとつ頷く。
ふと、柳の樹の下が気になった。夜の闇の中、誰かが立っているような気がしたのだ。じっと見続けていると、街灯の無い暗がりの中、白いワンピースを纏った女性が立っているとわかった。
「こんばんは、お嬢さん」
寒空の下、ずいぶんと薄着をしているようだと考えたミシェルは、上着を貸そうかと考えて声を掛けた。女性は振り返る。顔は呆として、どこか感情がこもっていない感じがした。
「寒い中、いかがなされましたか」
「ええ、と……何……そうね……」
煮え切らない女性の言葉は、空中を彷徨い、夜闇に消える。ミシェルが女性の言葉を待っていると、女性はミシェルの持っている炭酸水の小瓶を指さして言った。
「それ、くださらないかしら。とても喉が渇いているの」
「良いですよ。飲みかけで申し訳ない」
ミシェルは、ハンカチを取り出して軽く飲み口を拭ってから瓶を渡す。女性は瓶に口をつけ、美味しそうに炭酸水を喉に流し込んだ。
「あのね、ここで、誰かを待っていた気がするの」
「ここですか? お嬢さん、この公園は昔からありますが、この柳は今日、植えたばかりですよ」
「そうね……でも、不思議なの。この樹の下なら『逢える』と思って」
それを聞いて、ミシェルは辺りを見回す。公園の中にはシンボルの銅像や、それ以外の彫刻品、さらに街灯もいくつか立ち並び、待ち合わせをするのであればこの樹の下よりも、明るい場所にあるそれらの傍のほうが都合がいいのではないか。そう思った。
「お嬢さん、それなら」
向こうの方が良い、と言おうとして振り返ると――そこに、女性はいなかった。
「あれ……」
地面には、空になった炭酸水の小瓶が転がっていた。。
そんな話をニコラに聞かせると、怪談の苦手なニコラは飛び上がって怖がった。
「ミシェル! ミシェル、何でそんな話をするんだ!」
「何でって。俺だって怖かったさ。振り返ったら誰もいないんだぜ」
「まぁまぁ、いいじゃないのぉ。アタシ、そういうの嫌いじゃないわぁ」
「リュシオルは黙ってて。いいかい、ミシェル。戒律にも書いてあるだろう。『故人たちに教えられよ、恐怖は生きる人の心に宿る』って。だからそんな怖い話をしちゃいけない、死んだ人はみな、『神の御許』へ行くんだ、幽霊なんて、幽霊なんて!」
「いないって言うのはかんたんよねぇ」
「そうだな」
「うわぁああああああん!! 不安がらせるなぁあああああああ!!」
三人は昼時に、リュシオルとニコラが偶然行き会ったのをきっかけにミシェルの店で簡単な茶会をしていた。シナモンの香りがする素朴なスペキュロスと甘い紅茶だけの、実に簡易なものだ。
「すみません、いいかな」
ニコラの叫びはおさまらなかったが、その向こう、【Michele-rose】の店先から客が呼ぶ声が聞こえた。
「はい、今すぐ。ニコラ、とりあえず落ち着いてろ」
ニコラを置いてきぼりにして、ミシェルは客に向かう。
「ご注文ですか」
「いえいえ、あの公園に柳を植えてくれたのがミシェルさんだとお聞きして。少しばかりもお礼をと思って、こちらを」
老齢の男性が手に持っていたのは、隣町にある有名な菓子店の包み紙だ。
「マドレーヌです。お口に合うかどうか」
「これはありがたい。嬉しいです」
「こちらこそ。ああ、柳も藤棚も懐かしい。ジパニアに居た頃を思い出します」
「いつか、ジパニアに?」
「はい。若い頃に住んでいました。ジパニアとのハーフなんです。ついこの間に、この街に越してきました」
「どうりで、お見掛けしない方だと思いました。俺はミシェル。ミシェル=アンダーグラウンド。この【Michele-rose】の店主です。
「この花屋さんの店主でしたか。それなら、あの立派な柳が良く手入れされているのもわかります」
そう言って、男性はにっこりと笑う。しわが刻まれているその顔は、常に笑顔が湛えられていた人生を語るようだ。
「本当は、もっと早くアルティザンに戻ってきたかったのですがね」
「というと、理由があって帰国が遅くなったのですか?」
「そうなんです。戦争が理由で、渡航が制限されていて。やっと戻ってこれたときにはこの年齢ですよ。ここに戻る前に、家内も亡くしました。はは、恥ずかしい。こんな話をしてしまって」
「いえ、いいんです。大変な人生でしたね」
「いやいや! まだまだですよ。――ああ、そういえば」
「何でしょう」
「亡くなった家内は、あの柳の下に立っていてくれないかなと思いまして」
「柳の下に?」
「そうです。ジパニアには『幽霊は柳の下に出る』っていう言い伝えがありましてね。幽霊でも良いから、会いたいものです」
「は、はぁ……」
ミシェルの表情が、ひきつった。遠くで聞いていたニコラとリュシオルも、戦慄の表情を浮かべる。
「うん? みなさん、いかがなされた?」
また会うことができる。
ミシェルは、真夜中の街路を歩きながら、そう確信していた。
彼女は、何かを待っていた。誰かを、待っていた。未練があるのであればこの世界にとどまることもあるだろう。『神の御許』にたどり着けていない理由たるものだ。
水の入った水筒を携えて、柳のもとを訪れる。
ぼんやりと、柳の下に薄明るく浮かび上がるものがあった。あの日と同じ、白いワンピース姿の女性だ。相変わらずワンピース一枚だけを纏っていて、それでも全く寒そうにしていない。初春のこのころには似合わない服装だ。それなのに、寒そうな素振りは見せない。
女性はミシェルの存在に気が付いたのか、半透明の足元を優雅に動かし、ターンする。
「あら……ええ、と……」
ミシェルの方を向いたものの、向いたこと自体に困った風に、女性は右手を右頬に当ててぼんやりとした表情を浮かべる。
ぐ、と恐怖を押し込めて、ミシェルは意を決して女性に話しかけた。
「お嬢さん。貴女に逢いたがっている人がいます」
女性はぼんやりとした表情のまま、ミシェルのことを見ている。何を言っているのか理解していないと思える。まるで魚に話しかけているようだ、とミシェルは思った。
ミシェルはすぐに次の一手を打つ。ジャケットの胸元に入れておいた一通の手紙を取り出した。
件の、男性から受け取ったものだ。
その表書きを見て、女性の顔に初めて表情が浮かんだ。
「ああ……それは、あの人の……」
そっと、女性は手を伸ばす。ミシェルは女性が手紙を取り落とさないよう、手紙とともに女性の両手を包むようにして渡した。
女性の手には温度が無い。冷たいともぬるいともあたたかいとも違う、〈無い〉という感覚。その不思議な感覚に驚きながらも、ミシェルは女性の行動の末を見守った。
「これ……そう……ええ……」
女性は男性の署名を何度も指でなぞり、愛おしそうにしている。しばらくして裏返し、書いてある言葉を目で追って――その目を見開いた。
『あなたを忘れない』
その一文と共に、アスターの押し花が添えてあった。
「まあ……そう、ね……そうだわ……いか、なくちゃ」
女性は、ゆっくりと顔を上げた。ここがどこなのか定かでない、というように辺りを見回す。
「ここはシカトリスです。貴女の、生まれ故郷の街」
ミシェルはそっと、女性の眼差しに告げる。
「……そう、だわ……あの人と、暮らした街……」
この公園は、旧い。過去から変わっていないシンボルも多くあるだろう。どうやらミシェルのその予想は当たっていたようで、女性の眼差しは揺らめく不安定なものから実直なものへと変わった。
「ありがとう、あなたのおかげで、自分を取り戻せた……」
「いいえ。お嬢さんのお力になれたなら何よりです」
「あの人に、遺言を伝えたいの」
「ええ、何と?」
「『待っています』と」
その言葉に、ミシェルは頷いて答えた。
「わかりました。伝えましょう。ああ、そうだ」
思い出したかのように、ミシェルは腰のベルトに括りつけてあった水筒に手を伸ばす。
「喉は、渇いていませんか?」
「ああ、嬉しいわ。干からびてしまうかと思っていたの」
水筒を女性に手渡すと、女性はそっと口を突けて、実に美味しそうに、透き通った身体に水を流し込んでいった。
そして――満足、したのだろう。もともと薄らとしか存在していなかった女性の身体が、いよいよもって消えていく。
消える最中、女性は最後に、
「ごめんなさい」
と、言った。
ある昼下がり。葬送の鐘が鳴る。
ジパニアから来たという、男性の葬儀だ。
その棺には、ラベンダーの花束が。
『あなたを待っています』と伝える花が、入れられた。
【私が幽霊だったとしても――fin.】