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不思議な宿泊施設、ロレタドゥナ=フベーストゥトを後にした私達は前日同様に樹々の枝葉に覆われた森の中を進んでいた。
「まあっ、何故逃げずに立ち尽くしているのでしょうね」
私は馬の脚を止め、やぶの先を指し示した。
「うわぁ、ちっちゃな鹿さんだぁ」
後方を進んでいた甘ったるい声がその存在を碧色の瞳で捉えた。しかし警戒心が強い筈の野生動物は私達の前から立ち去る素振りすら見せない。
「ふふっ、あなたの出番ですよ。脚を御覧頂けますか」
私は笑みを零しながら再び前方を指し示す。
「あーっ、たいへーん。怪我しちゃってるぅ。置いてきぼりにしたら狼さんに食べられちゃうよぉ」
甘ったるい声は後ろ脚のひとつが不自然に捻じ曲がっているのを見つけ、早速馬から跳ねるように降り立ち、軽やかな足取りで小さな鹿へ近づく。
「パヤサナクリム」
甘ったるい声が取り出した香草を患部へ擦り込みながら呟いた。するとどうだろう、小さな鹿の脚は瞬く間に元の状態へ戻った。そして小さな鹿は完治した脚を確認する様に何度か地面を蹴った後、徐に前方へ歩み始めた。
「ねぇねぇ、パパとママが見当たらないよぉ。誰も護ってくれないのかなぁ」
甘ったるい声はその頼りない後ろ姿に不安を覚えたようだ。
「ふふっ、あなた。たまには頭がしっかり働いてくれるのですね。それなら無事親御さんに再会するまで私達が見守るべきですわ」
私は微笑み甘ったるい声に賛同し小さな鹿の後を追う様に馬を進めた。
「えーっ、たまにじゃなぁーい。でも、置いてきぼりはだめぇ」
甘ったるい声は等閑にされまいと急ぎ馬へ跨った。
その後小さな鹿は頻繁に立ち止まり、下草や草木の葉を食べる。
「もうっ、何ぐずぐすしてるのよっ。食事ばっかりしちゃって」
私はその光景を眺める度に苛立ちを隠せなかった
天空の陽が高くなった頃小さな鹿と私達は森を抜け砂浜の先に大海原が広がる地へ至った。
「まあっ、何故あの鹿はこの場所へ来たのでしょうか」
私はその風景に戸惑い疑問を呈する。
「ねぇねぇ、きっとここにペガサスさんが飛んで来るんだよぉ」
そこへ大海原をぼんやり眺めていた甘ったるい声が突然妄想染みた仮説を披露する。
「えーっと、助けてくれたお礼にあなたの望みを叶えてくれるという展開なのですね。それなら私も嬉しいですけど、そんな御伽話のように都合よく運ばないわ」
私は指摘を零さずにはいられなかった。
「えーっ、じゃあ、何で海さんへ来ちゃったのぉ。それしか考えられなぁい」
甘ったるい声が不満そうにフードの奥から口を尖らせる。
「もうっ、それなら勝手に想像していれば結構ですよ」
私は甘ったるい声から視線を逸らし大海原を見入った。
「ねぇねぇ、あっちから何かがこっちへ向かって来ちゃってるぅ。あーっ、きっとペガサスさんだぁ」
そこへ懲りない甘ったるい声が大海原の彼方を指し示す。
「ふふっ、あなた、間違いないわよ。これでこの旅も終わりに出来ますね」
私はどう見ても鷲の類にしか見えない飛行体を翡翠色の瞳で捉え笑みを零した。
その遣り取りを楽しむように私達の傍で暫し立ち止まっていた小さな鹿だったが、大海原から踵を返し再び樹々が繁る森の中へ入る。
「まあっ、戻るなんて。海へわざわざ寄ったのは、気まぐれだったのかしら」
私は不思議に感じながらも小さな鹿の後を追った。
「えーっ、ペガサスさんを待たないのぉ。でも、置いてきぼりはだめぇ」
甘ったるい声は暫し悩むも結局私を追って来た。
天空に座する陽が傾きかけた頃、前を進む小さな鹿が突然大きな鳴き声を発した。そこへ前方から同じような鳴き声が返ってきた。
小さな鹿は返って来た鳴き声の方向へ一目散に駆け、現れた一頭の大きな鹿の脚元へ擦り寄う。そして小さな鹿は私達へ向けて鳴き声を上げ、暫し見つめる。しかし大きな鹿が私達から背を向け、それに倣った小さな鹿は樹々が繁る先へ消え去った。
「 ねぇねぇ、じゃあ、海さんへ戻ってペガサスさん見ようよぉ」
だが甘ったるい声は感慨耽る暇を私に与えてくれなかった。
「ふふっ、おそらくロレタドゥナ=フベーストゥトまで戻る頃には夜が明けてしまいますし、海を眺めながらの野宿も楽しそうですね」
私は今夜こそ甘ったるい声の夢の中に伝説の馬が現れるのを期待しながら微笑んだ。