運び屋シェリー
#1
雨が降っていた。
渦巻くどす黒い雨雲から、アメ玉ほどもありそうな水滴が吹き出してくる。
でも、空は明るい。
渦の中心に雲はなく、その裂け目からは眩い陽光が差し込んでいる。光を降りしきる雨粒が乱反射し、雲に覆われた空にまで輝きを運んでいた。
黒雲の闇を背景に舞う、不規則な煌めき。
時に七色のリボンをはためかせ、あるいは電子の槍を迸らせる光景は、さながら暗黒に立ち向かう天使達。もしくは昏い未来に突き進む、人類の英知とやらか。
それは狂った自然の生んだ、破滅的な芸術。
幻想的で、儚くも美しい。
「自然が狂うことはない。そう感じるのは、感じる側が狂っているから、か……」
フロントの風防越しに遠くの空を仰ぎながら、最近読んだ記事を思い返した。自然科学の読み物雑誌だったか。前世紀と現代の気象/気候を比較した、一般向けレポートのまとめの一節だった。
昔は天候予測の精度も高く、天気予報というサービスがあったという。高精度の観測と、安定した気象の賜物だったのだろう。とても今では考えられない。
だが、そういうものがあったと知ってしまうと、無意味なひがみと思いつつも羨ましく思ってしまう。
「気象コントロールとまでは言わないけど、予報くらいはなんとか復活させてくれないかなぁ……」
つぶやいて、視線を落とす。古くさいアナログ・メーターが、九〇マイルと一〇〇マイルの間で震えている。その横にあるタンクの残量計は、ぴったりエンプティ・ラインと重なっていた。
「……とまりたいよぅ……」
だが、とまるにとまれない。とまるどころか、減速もできない。あたしの乗っている車は、オープン・トップの2シーターなのだった。
ガソリンエンジンの、オールド・ポルシェ。
とばしている限り、フロントの風防とそれが生み出す気流で、ほとんど雨に濡れることはない。
「……時間もないしぃ……」
左手の時計は、一二一一と時刻を表示している。約束の時間は一二三〇。これに間に合わないと、今度の仕事はパーになる。
残り時間に余裕はあるが、問題は雨だった。到着しても、濡れてしまっては元も子もない。多少の湿りなら大丈夫かもしれないが、びしょ濡れずぶ濡れは絶対に避けなければならなかった。
右手でルーム・ミラーの角度を変えてみた。すこし上目遣いに覗き込むと、また髪形が変わり、色も少し変わってきている。
少し前までは地毛とほとんど変わらないブロンドで、肩にかからない程度のオールバックだった。それが青みがかった銀髪になり、前はほとんど変わらないが、後ろ髪は巻き貝のように纏められ、下ろせば背中まで届きそうな長さになっていた。
「……凄いもんだわ」
最新鋭のヘア・アート。
まるで違和感を感じさせることなく、自然に変化していくヘア・スタイルとヘア・カラー。ナノ・アートは次々に、思いもよらないジャンルに食い込んでくる。
あたしの請け負った仕事は、このナノテク・アートの運搬だった。本来はモデルをショーに間に合わせるためだったのだが、肝心のモデルの髪がナノ変容中であることが判明し、急遽モデルを兼ねることになった。
普通なら、断るところだ。
容姿に自信がないわけでも、目立つのが嫌いなわけでもない。モデル系と言うよりはグラビア・ガール系だが、容姿もスタイルもかなりのものだし、人前に出ること、目立つことは、嫌がるどころか楽しいくらいだ。でも、人のアートの土台になるなんていうのは、正直言って趣味ではない。あくまで主格は、自分に欲しい。
とはいえ、友人に懇願されては、無下にはできなかった。
アーティスト・チームに参加しているヘア・デザイナーのマルティナは、学生時代からの友人であり、当時のルームメイトであり、その頃からずっとヘアメイクを任せてきた相手だったのだ。今回の仕事も、そもそもマルティナの人選で回ってきていたのである。
友人が、チームの一員とはいえメジャーになるチャンスだった。これをあっさり見捨てられたら、それこそ友とは言えないだろう。
個人的趣味よりも、優先させるべきはやはり友情。その影には、ほんの少しだけ、モデル料込みで跳ね上がったギャラ、と言うのもあったのだが。
そんなわけでこのナノは、友情と報酬をかけた大切な品だった。なんとしても無事、届けなければならない。
だが、雨。
なのに、雨。
あくまで整髪剤として作り上げられているこのナノは、水に弱い。簡単に洗い流せるというのも、売りの一つだからだ。
こんな土砂降りではひとたまりもない。シャワーを浴びるようなものだ。
濡れるわけにはいかない。
そして、市街の環状ハイウェイ・クルージングは、三周目に突入した。
ようやく雲の切れ間が、心なしか広がってきているように思えてきた。周回約一五分。その間に止んでくれれば、なんとか間に合う。
陽の光が強まり、輝き舞う天使達を包んでいく。まだどす黒い天幕は開ききっていないが、これなら時間の問題だろう。
「OK、いい感じ。神様はまだあたしを愛してくれてるわね」
偉大なる神は、その大いなる愛を分け隔てすることなく全ての子供達に注いでいる、らしい。街角で激しく喧伝している救世十字軍のビラに、そんなことが書いてあった。まあ、神もホトケもよくわからないが、ただ運がいいと思うよりは、なんとなくありがたい。
雨が少し、勢いを増した。
最期のあがきだろうか。陽光はオーロラのようなカーテンを広げながら、確実に勢力を増している。
表示板に十五番街までの距離が現れた。その下に、サーヴィス・エリアまで一マイル、なんて文字も見える。
残り、およそ三分の一周。あと五分……
残量計の針はエンプティ・ラインを割り込んでいる。経験上、これだとギリギリだろう。
一瞬、迷った。
たぶん、時間的にはなんとかなる。途中でとまりさえしなければ。タイムロスよりガス欠の可能性の方が、何倍も恐ろしい。
決断し、アクセルを緩めた。ウィンカーをあげ、右の路線に寄せる。
雨粒が少し、顔を打った。とんでもないことに気がついた。雨はまだ、やんでいない。
迂闊だった。減速したら、スタンドの屋根にたどり着くまでに濡れネズミ確定である。あわててアクセルを踏み込んで、速度を取り戻す。迷う余地なんかなかったのだ。選択肢は、初めから一つだった。
「ちぇ」
残量計の針が、また少し下がったように見えた。こうなると、この程度の加減速でもガスのロスが気になってくる。気を取り直して先を睨む……と、とんでもなかった。
ウソ! 思わず目を疑ったけど、間違いじゃなかった。
子供だ。
サーヴィス・エリアの出口から、女の子が走り出てきていた。
距離は五〇メートルもない。ブレーキは間に合わない。ステアリングでかわさなきゃ……なんて、冷静には考えていなかったろう。
気がつけば、ハンドルを切っていた。反射だった。考えナシに、手が動いていた。
しまったと、思ったときにはもう遅かった。高速。雨。急ハンドル。滑るための三要素が、もれなくここに集まっていた。エアカーや最新型ならまだしも、自動制御なんてインジェクションとギア・シフトぐらいという時代の車には、もはや抗う術もない。
鼻先が左に流れたのは、ハンドルをそちらに切ったせいだろう。一応カウンターを試みるが、急激に暴れ出すお尻を抑えられそうもない。ポルシェがこだわり続けたリア置きエンジンの、長所にして弊害。よもやこんな形で味わおうとは、思っても見なかった。
情けないほど完璧なスピン。
だが逆に、こうなってしまえば開き直りがきく。かえって冷静に、コントロールを失った車のコントロールという、実に難しくも面白い状況を受け止めることができる。
流れる視界に、立ちつくす少女が見えた。竦んで動けないようだ。好都合だった。動かないのなら、パイロンと同じだった。
スリップ・コントロールは、とてもデリケートな操作を必要とする。滑る路面を巧みに捉え、少しでもグリップを取り戻したら、それを最大限に利用する。カウンター・ステア、アクセルワークとクラッチワーク、ブレーキワークのタイミング。適正なシフトの選択。
普通のドライバーでも、手足が三本ずつあれば、かなり楽になるだろう。ある程度の腕があるのならば、二本ずつでもなんとかなるはずだ。そして一流の技量の持ち主なら、それで十分と思うのだ。
一流を自負するあたしだが、そのときのあたしは一流よりも少し落ちる技量だった。避ける自信はあったが、避けながら立て直す自信はなかった。立て直すためには、どうしてもパイロンをはね飛ばす必要がある。
即座に、立て直すことはあきらめた。人とポルシェを秤にかけたら、当然ポルシェの方が一トン近く重い。だが、法的には罰金では済まないほど、人身事故の方が重大なのだった。
覚悟が決まれば、コントロールは楽だった。数秒後には右前側面と足回りへの重軽傷を代償に、ポルシェは少女にかすることもなく停車していた。路面にスリップ・マークは残らなかったが、代わりにガードレールが酷い目にあっていた。
「……ふう」
いつの間にか詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。音と色が同時に甦ってきたような錯覚に襲われ、あたしは自分が相当緊張していたことを知った。
甦った音の中に、男の声が混じっていた。頭を巡らすと、立ちつくしたまま固まっている少女に、スーツ姿の男が二人、駆け寄っていた。声はそのうちの一人が呼びかける、お嬢様、という言葉だった。
少女は男達の言葉に反応し、慌てて逃げようとしたようだったが、すぐに捕まってしまった。少女のあきらめ方と男達の取り押さえ方には、物騒な雰囲気はなかった。むしろ男達は気を遣っているようで、少女の方にも遠慮が見えた。犯罪の気配は、感じられなかった。
男達は少女を促して、サーヴィス・エリアへと戻ろうとした。彼らが保護者なら、文句の一つも言ってやろうと思ったら、途中で男の一人が向きを変え、小走りにこちらへ駆け寄ってきた。
勢いで怒鳴りつけるには、少し間があきすぎていた。さてどうしてやろうかと思っていたら、あっさり先手を取られてしまった。
「誠に申し訳ありません。お怪我はございませんか」
丁寧な物言いが、板に付いていた。慇懃ではあるが、嫌味ではない。歳は三十代半ば過ぎ、といったところだろうか。無個性の個性とも言うべき無難な顔立ちと髪形。雨に濡れていなければぱりっとしているのだろう、仕立ての良さそうなダークグレイのスーツ。典型的な企業人のようだった。
「どうってことはないわ。ぶつけようと思ってぶつけたんだもの」シートベルトを外しながら、あたしは答えた。「これでも腕には自信があるのよ。こんなヘマ、滅多にしないんだけどね」
男は安心したような笑顔を見せた。意外なことに、好感の持てる笑顔だった。
「そうですか。いや、しかしよかった。その美しいお顔に傷でもついていたらと思うと、ぞっとしますよ」
続いた言葉も、意外なことに嫌味ではなかった。たいていは見え透いたように響く言葉なのに、不思議と悪印象はない。人柄がしのばれる、というのは、こういうことを言うのかも知れない。
車を降り、フロント回りをチェックする。右前側面と思っていたが、ほぼ右側面は全滅だった。予想以上に上手くコントロールしていたらしい。そのおかげか、足回りの損傷はそれほどでもなく、とりあえず自力で走れそうなのはありがたかった。
「当然ですが、修理費等はこちらで負担させていただきます」
意外な会話は終わり、意外でもなんでもないお金の話になった。そもそもそのために近づいてきたのだろうから、当然だった。
彼は懐から、一枚のカードを取り出した。限度額指定の支払保証済みクレジットカードだった。
「無記名ですが、一千万の上限まで保証されています」
「豪勢ね」
実用価値より骨董価値の方が高そうな我がポルシェでも、同程度のものが二台は買える額面だった。この程度の損傷なら、七台は修理できるかもしれない。
「お釣りはいるのかしら?」
彼は苦笑して、肩を竦めた。
「残念ながら、連絡先を教えられませんので」
つまらない答えだった。六台分の修理代は、教えない分の支払いということだった。
まあ、当然かな。
あたしは納得して、カードを受け取った。貰えるなら貰っておかないと、ただ損するだけになってしまう。とはいえ、やはり好奇心は抑えがたい。知りたいという欲求、知的好奇心は、人間が動物と袂を分かつという最悪の禍根の種だったが、文化的進歩の原動力でもあったのだ。
「このまま見送って、後で困ったことにならないかしら?」
「そうしていただかないと、かえってお困りになりますよ」
どちらとも取れる返事だった。余計なことを聞いてしまったかもしれない。
「足らない、ということになりそうなんですか?」
案の定だった。最低の言葉を吐かせてしまった。足元を見たつもりもないのに。ゆすりでもたかりでもないのに。知的好奇心の発露は、もっと純粋なものなのに。
もっとも、純粋な物理理論から原子爆弾だって生まれるのだし、純粋な欲望のせいでレイプ事件は後を絶たない。純粋な酒呑みは純粋に酔っぱらい、純粋な気持ちでトラブルを起こす。ドラッグをキメている者ならなおさら純粋に、ドラッグが純粋な分だけ素晴らしい純粋さを発揮して、無自覚の犯罪を犯す。洒落にもならない。純粋とクリーンはイコールでは繋がらない。わかりきったことだった。
「つまらないことを言ったわね。ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ、勝手なことを申していますから」
情けない気分になった。雨に打たれると、ろくなことがない。なにもかも洗い流し、清々しい気分をもたらすような雨は、この街には降った試しがない。いつだって大切なものだけを流してしまう、ろくでもない雨ばかりだ。
でも、その雨もそろそろあがる。
気分を切り替えるためにも、とびきりの微笑を意識してつくってみた。なるべく晴れやかに、爽やかに。マルティナが言うには、あたしのつくった微笑みは性欲過多のティーンエイジャーをいたずらに刺激するものらしい。失礼な話だ。ロリコンにしか喜ばれないそばかす娘には言われたくない。
うまく笑えただろうか。
よくはわからなかったが、少なくとも男も微笑を返してきた。作り笑いには見えなかった。
別れ際の言葉はなかった。商談は成立したのだ。それ以上言うこともないし、成立した時点で、挨拶を交わして別れるほど親密な関係はなくなる。
シートに溜まった水を払い、ふたたびポルシェに乗り込んで、イグニッション・キーを捻った。乾いた音を立て、セル・モーターが唸る。エンストに拗ねたらしく、火が入るのに三回も回さなければならなかった。
エンジンが息を吹き返し、心地よい振動がシートを通して伝わってくる。ヘッドレストに頭を預け、目を閉じて振動に抱かれた。顔に暖かさを感じる。まぶたを透して伝わる、赤い光。雨はあがり、代わって陽光が降り始めていた。
上品に響くエンジン音が聞こえてきた。片目を開けてみると、色もスタイルも上品な最新型のエア・リムジンが、サーヴィス・エリアから走り出てくるところだった。パールホワイトのボディにマッチした、反射を抑えたミラーシェードでウィンドウが保護され、誰が乗っているのか確認はできなかった。上品どころか、高貴なお方が乗っていそうな雰囲気があった。
こちらを気にとめる様子もなく、リムジンは走り去った。あたしはリムジンが見えなくなってから、ゆっくりとポルシェをスタートさせた。
少々不安定だった。スタビライザーが傷んでいるようだ。だがまあ、無茶をしなければ大丈夫だろう。あのリムジンを追いかけようなんて気を、起こさなければ。
ラジオのスイッチを入れると、軽薄そうなパーソナリティが嬉しそうな声で再臨した太陽をありがたがっていた。砂漠化の酷いアリゾナだったら、磔にされているに違いない。確かにあたしにとっても、路肩低速走行を余儀なくされている身としてはありがたかったが。
見たくはなかったが、それでも念のため、ルーム・ミラーの角度を変えてみた。だがやはり、見るまでもなかった。あたしの頭は、見るも無惨な有様だった。
時計を見れば、約束の時間をすでに五分もオーバーしていた。
ミラーの端に、わりと露骨に追走してくるリムジンが見えたが、なんだかどうでもよく思えた。上品な方の上品な尾行なら、きっと目的も上品なのだろう。こっちはそれどころではないのだ。
経済的な損失はないだろう。収支は確実にプラスになる。でも、友情が赤字になるのはちょっとこたえる。
どうやってあやまろう。
足どりの重いポルシェの中で、あたしの心もやけに重くなっていた。
#2
目的地に着いたとたん、ポルシェのエンジンは空腹の極みに陥り、ダウンした。
イベントの開始はモデルの到着を待ってすでに十五分遅れており、到着によってさらに三十分の遅れが追加オーダーされた。
会場使用時間の関係で正味二十分に短縮されたイベントでは、肝心のヘア・スタイルの変化が一度しか起こらず、色の変化に至っては運悪く発現しなかった。改良の余地を感じさせたが、それよりも急な再セッティングで雑な仕上げになってしまったことの方が問題だったようだ。
待ちくたびれたプレスはしらけきり、ピリピリしたスタッフは無闇に声を張り上げて早口にアピールを続けたが、正直言って噛み合わないムードが会場を包み込んでいた。
どの記者も、いかに掲載スペースを確保するかより、予定枠をどう埋めるかに考えが向いているように思えた。
その間あたしにできたことと言えば、平謝りに謝り、おとなしくスタッフの指示に従い、ステージでは微笑を絶やさず、マルティナの冷たい視線に耐え続けることだけだった。
なんて素晴らしい。
かくして、画期的なヘア・アートは世間に公開された。それ以上でもそれ以下でもなく、とにかく公開された。もはやフォローのしようもなかった。
マルティナは、「事故なら仕方ないけど」と言った。けど、の後が気になったが、訊ねる勇気はとても絞り出せなかった。
スタッフの人たちも、「なんとかなったから」と言ってくれた。なんとかするしかなかったのだが、終わってから責めるほど無意味なことはないと、知っていたようだ。彼らは立派なオトナで、紳士だった。責められ、非難された方が救われることもある、なんて、忘れてしまうほどに。
打ち上げには、ポルシェの負傷を理由に参加しなかった。アルコールの力を借りれば、少しは彼らの本音と触れあえ、嫌味や罵声で心を和ませられたかもしれない。罪悪感を薄めるには、ちょうどいい贖罪だ。だが、マルティナが深酒しそうな雰囲気があったので、そうなると話は別だった。悪酔いしたマルティナとは、たとえ贖罪の儀式であっても同席したくない。同席どころか、ほぼ間違いなく同衾を迫られるのだから。あたしには、そんな趣味はない。
ほとんど無理矢理渡された仕事料をマルティナのバッグにこっそり滑り込ませ、再会を約して彼らと別れた。近いうちに会いたいと思ったが、それまでは絶対に会いたくなかった。わりと複雑な心境なのだ。
会場を出ると、ポルシェの側に二グループの制服が集まっていた。一つは電話で呼んだ、馴染みのガレージのオレンジのツナギ。もう一つは、シティ交通管理局の巡回員で、青い制服だった。
どうやら巡回員に、事故車の路上放置と見なされたらしい。摘発スコアをのばすには、確かにちょうどいい標的だった。たとえ後から来た業者が正当でも、おいそれとは譲りたくないのもうなずける。
あたしは間に割って入り、事情を説明し、予定より多めの出費を強いられる羽目になった。ハイスコアで得られるボーナスよりも多い臨時収入なら、巡回員の不満も解消できるのだ。
青い制服が去った後、オレンジのツナギにポルシェのキーを渡した。来てくれた人は顔見知りだったので、面倒なことはなかった。修理に二週間はかかると見てくれ、と言われた。思ったよりは早くすみそうだ。ありがたい。
愛車を彼らに委ね、あたしはストリートでキャブを拾った。行き先を告げると、運転手は露骨にいやそうな顔をした。シティ中央のキャブは、さすがにナイーブだ。まあ、好き好んでジャンクに入りたがる堅気は、そうそういないだろうけど。
「近くまででいいわよ」
精算機にクレジットカードを滑り込ませ、引き落としながら走って貰うことを示した。
「コードも確認したいですな」
ジャンクの住人は、ことさらに信用がないのだ。厳密に言えば、あたしはジャンクの住人じゃないが、出入りしていれば同類に見られるのもやむをえなかった。
カードスリットの脇からピンを引っぱり出して、リストのジャックに接続した。ダミーコードを流してやろうかとも思ったが、カードは正直に自前を使ってしまっていた。一致しないんじゃ間抜けすぎる。
「お手数おかけしました」
丁寧に、だが言葉とは反対の響きで運転手は詫び、キャブをスタートさせた。コードに不審な点が見つからなかったのだろう。乗車拒否の材料が潰え、さぞかし無念に違いなかった。
市街地を二十分ほど走ると、中心近くに立ち並ぶ手入れの行き届いたぴかぴか光を反射するビル群も、やがてくすんだ灰色の古ぼけたそれに変わり、さらに前世紀の墓標のような、朽ちかけたビルの並びへと移っていく。
いまだ使われているビルもあるのだろうが、建物の生き死には、傍目にわかるものではなかった。
伸びゆく道路の先に、最初は道を閉ざしていたのだろう、フェンスの残骸が見えてきた。ここがシティ保安管理区域、通称『企業エリア』の最外縁部だった。
建てられた日の晩には打ち壊されてしまったという元フェンスのほかに、明確な表示は道路標識しかない。が、ここから先は非認定市街域、俗称『ジャンク・ストリート』なのだ。ここから先にのびる道路は、たとえ今でもつながっていて、通行があっても、公式には『かつて道路であった場所』であり、廃ビルや家屋があっても、正式な地図には『荒野』として記載されている。
非公認。未認定。不許可。
ジャンクは存在そのものが違法であり、それ故に企業法も国際法も及ばない――正しくは適用されない――事実上の無法地帯なのだ。
キャブはジャンクに入る直前で停まり、運転手はメーターを下げた。わかりやすい意志表示だった。
「すいませんねぇ。ウチらが来れるのはここまでなんですよ。……でもまぁ、話によっちゃもう少し、走ってもいいんですがね」
「ここでいいわ」
スリットからカードを引き抜き、あたしはキャブを降りた。
「ジャンクは危ないよ、お嬢さん。少しはずんでくれりゃあ安全に……」
運転手はくどかった。あたしはにっこり微笑んで、ポーチを開けた。あらためてカードを出したのかとほころびかけた運転手の顔が、一瞬呆けたように変わる。あたしの右手には鮮やかに赤いリップ・スティック。その赤がサイド・ウィンドゥに、ちょっと口に出すのがはばかられるような下品な言葉を刻み込んだ。
「な、なにしやがるっ!」
「黙んな、親父。不正料金請求で訴えてやろうか?」
凄みついでに、ドアの横っ腹をけりつけてやると、情けない音を立ててへこんだ。
「くそっ、やっぱりジャンク女かよっ!」
「ははん、バーカ。調べてみれば?」
コードは本物だ。調べればすぐにわかるだろう。あたしは相当に腹を立てていたらしく、あまり分別がついていなかった。
「はね飛ばすぞ、馬鹿アマ!」
「ここで? やればぁ? ジャンクまで飛ばせるのならねぇ」
ボンネットに右足を乗せ、けらけらと笑ってやる。そこにも『ママとすごく仲がいい』と言う意味の下品な言葉を、でかでかとマーキングした。
運転手の怒りは、次第におさまっていったようだ。相手にしていたのが、まっとうでない人間らしいことが、ようやく思い出されたのだろう。頃合いと見て、懐から拳銃を取り出した。小さなプラスティックのオモチャのようだが、立派な禁制品だった。
大きく軸線をそらし、右のサイドミラー辺りを狙った。照準はほぼ正確だったが、少しだけ中に入り込んでしまった。ピラーの一部を道連れにして、サイドミラーはぐずぐずに崩れ、消え失せた。
スプレータイプのニードルガン。
短針銃というヤツだ。ミクロン以下のファイバー針を、高圧ガスで無数に吹き出す。かなり硬い金属でも崩せる代わり、射程は五メートルもない。だがその範囲でならほぼ無敵の、違法武器だった。
運転手は単純でバカだったが、判断力は残っていた。そそくさと逃げるようにUターンしていった。
なんとなく、すっとした。
八つ当たりは、やはりストレス解消にいいようだ。
少しだけ持ち直した気分で、あたしはジャンクに足を踏み入れた。
#3
上の二階分が崩れ落ちた、元四階建てのファッションビル。赤煉瓦のような外壁をしているが、崩れた部分は剥き出しの鉄筋コンクリートだった。本当の煉瓦を使っているのは、ショウウィンドゥの下にある植え込みの周りだけだろう。ここの一角も崩れているが、コンクリートは見えなかった。
一階の壁面のほとんどを占めるショウウィンドゥは、今は全面に黒いフィルムが貼られ、その役割を果たしていない。代わりに落書きのように白いペンキで『B&W』と大書され、看板として機能していた。
ウィンドゥの中央に、大きな木製のドアがあった。取って付けたような印象があったが、昔はガラスの自動ドアがあったところに無理矢理付けているので、そう感じて当たり前だった。
ビルの周りに何人か、ジャンクの住人が座り込んでいた。視線が集まってきたが、あまり意味はないようだった。どの目も虚ろで、目線は向いても焦点が合っていない。アルコールか、ドラッグ・チップか、あるいは本物のドラッグをきめているのか。いずれにしてもこの手のジャンク者は、昼間はほとんど害がない。夜になると、アルコールかドラッグ・チップか、あるいは本物のドラッグを手に入れるための行動を起こすのだ。それが直接ブツを手に入れるためなのか、買うための金を稼ぐのか、合法的なのか非合法的なのかはわからない。関わりがない間は、知りたいとも思わない。特に合法/非合法なんていうのは、ジャンクでは考えるのも無意味なことだ。
あたしは特になんの感想も抱かず、『B&W』のドアを開け、中に入った。中はファッションビルだった頃の面影は少しもない、薄暗くて雑多な雰囲気のバーだった。左手にカウンター。右手にテーブル席。右奥にはクラシカルなアップライト・ピアノの乗ったステージがあり、先祖はギニアから連れてこられたというマスターが、楽しげに鍵盤を叩いていた。
客の入りは、全体で見て四分というところだった。ほとんどはテーブルでカード遊びに興じていて、潰れているのが二人、ピアノに聞き入っているのが一人、カウンターで、元をたどるとフランス移民だったというママと談笑しているのが三人いた。
来店したあたしに真っ先に気づいたのは、カウンターにいた客の一人だった。珍しく知らない顔だ。相手もあたしを知らないようだったが、あたしに興味を抱いたようだった。ラフな格好はしているが、ジャンクの匂いはあまりしない男だった。ここらはジャンクでもシティ寄りだから、企業の人間が入り込むことも珍しくない。たぶん、七対三くらいでそっちだろうと思われた。とはいえあたしは彼に、それ以上の興味を覚えなかった。
男の視線に気づき、ママもあたしに気がついた。あたしがカウンター端のストゥールに座ると、先客達に二言三言かけてから、ママはあたしの前にやってきた。
「あらあら、早かったわね」
「まあね。マスター、あとどれくらいかかる?」
「さっき始めたばかりだからねぇ。あと四、五曲はやるんじゃないかしら」
心地よく響く、ジャズ・ピアノ。趣味というには上手すぎる腕前だが、ママに言わせるとヘタの横好き、ピアノキチガイの発作ってことになるらしい。マスターは多趣味な人で、ジャズやバスケットボールのようなプレイするものからパイプやトレーディングカードのようなコレクションするものまで、どれにも同じようにのめり込んでいる。
あたしの用件も、そうしたマスターの趣味の一つにあった。彼はあたしと同好の士でもあるのだった。しかしその用件も、しばらくはすませられそうもない。演奏を中断させられると、マスターは子供のように拗ねてしまうのだ。
「でもちょうどよかったわ。あなたにお客さんが来てるのよ」
「あたしに、客?」
「ええ。しかも、珍しいタイプ」
特に人と会う約束はなかった。あたしはこの店の常連だったが、毎日顔を出すというほど入り浸っているわけでもなかった。
「誰?」
「上で待って貰ってるわ。もっと遅いと思ったからね」
二階にはあまり使われない個室と、マスター達の居室があった。個室はいわゆる談話室だが、男と女で使うようなたぐいではなかった。ここはそんな、健全な店ではないのだ。
「仕事の依頼?」
「たぶん、ね」
ママは笑って言った。意味深な含み笑いだった。こういう曖昧な態度が好きで、得意な女性なのだった。
「クラブよ。あとでコーヒー、煎れて行くわ」
言葉と目に促され、あたしは二階に上がった。個室は奥の階段を上がって真っ直ぐのびる廊下に並んでいた。突き当たりはマスター達の居室だった。その手前に、右に二枚、左に三枚、たがいちがいに扉がある。全部で五部屋だが、居室に一番近い左の奥の部屋はマスターの物置に使われていて、実質四部屋だった。
扉には、トランプのスートをレリーフしたプレートが掛けられていた。これが部屋の呼び名にもなっていて、クラブは右の奥だった。
扉の前に立ち、二回ノックをしたが、返事はなかった。もう二回ノックしたが、同じだった。念のためもう三回、力を入れてノックをした。プレートがかたかたいうほど叩いたから、聞こえないとは思えなかった。しかしやはり、返事はなかった。
いやな感じだった。
このまま帰りたくなった。
なのにあたしの手はノブを握り、慎重に、慎重に回し始めた。全身を緊張させて気配を探り、扉を数センチ引き開ける。
そのまま数秒待ったが、なんの反応もなく、なんの気配もなかった。いや、待て。微かになにか聞こえる。小さな呼吸音。寝息のようだった。
思い切って扉を開けた。室内は狭く、中央に六人掛けほどのテーブルがあり、ドア側を除く三方にソファ・シートが、壁に沿ってぐるりと設えられている。寝息の主は、入って右側のソファに寝そべっていた。大人が横たわるには少々短すぎる幅のソファだったが、そこに悠々と横たわれるサイズだった。
パールのようにやわらかい光沢を放つ白いサテンのブラウスに、ビロードのような紺のスカート。髪はウェーブがかった栗毛のセミロングを、大きめの赤いリボンで纏めている。
眠っているので瞳の色はわからない。が、目を覚ませば何色にせよ、愛らしく大きな瞳に違いない。
小柄な大人ではなかった。間違いなく、小さな子供だった。しかも困ったことに、見覚えのある女の子だった。
背後に気配がして、開けたままのドアが軽くノックされた。振り返ると、コーヒーとホットミルクの乗ったトレイを掲げたママだった。
「あら、寝ちゃってたのね」
「……この、子?」
「そうよ。あなたのお客にしては、珍しいタイプでしょ」
全く。その通りだった。
#4
少女が目を覚ましたのは、一時間ほどもたった頃だった。コーヒーは空になり、ミルクはすでにホットとは言い難くなっていた。
「……ふわぁ、綺麗なお姉さん……」
目を覚まし、あたしをみとめての彼女の第一声は、感嘆の言葉だった。あたしのことは、覚えていないようだった。
少女の瞳は、琥珀色だった。あたしのようなブルーとは捉える色調が違うと言うが、どう違うんだろう。なんとなく、そんなことを考えた。
「名前は?」
「ええと、あなたがシェリーさんですか?」
「名前を聞いてるのよ」
彼女の問いには答えず、繰り返した。少女の顔にとまどいの色が浮かんだ。
「……ヘレンです。あの、あなたが……」
「シェリーに用があるのね?」
ヘレンはうなずいて、肯定した。
「どんな用かしら」
「……あの、シェリーさんは……」
ヘレンはあからさまに警戒の色を濃くしていた。初めて檻に入れられた野兎のように、次に来るなにかに怯えていた。
「それに、できればフル・ネームも知りたいわね」
ヘレンは答えなかった。子供らしい意固地な目であたしを睨み付け、そんなこと教えたら連れ戻されちゃうじゃない、と、全身で主張していた。
「シェリーは忙しい人でね、子供の家出の手伝いなんかしてられないのよ」
「家出じゃないもん!」
ヘレンは驚くほど大きな声で反論した。実際あたしは驚いて、ちょっと目を丸くしてしまった。
「なら、ファミリー・ネームも言えるでしょ」
ヘレンはそっぽを向いて、ふたたび口を閉ざした。子供というのは厄介だ。扱いにくくていけない。
「なにも話せないんじゃ、仕方ないわね。シティ・ポリスに来てもらいましょうか」
ヘレンの顔色が変わった。
「警察はダメっ!」
「助けて欲しいなら、警察が一番よ。確実だし、なにより安上がりだしね」
「ダメなの。シェリーさんでなきゃ……」
圧力をかけすぎたか、ヘレンの目が潤んできた。よくない傾向だった。誰か助けてくれないものか。そう思っていると、ノックの音が聞こえた。マスターだった。手招きであたしを呼び、廊下でこそこそと耳打ちした。
「あのお嬢ちゃんに迎えが来たんだが……」
ありがたい話だった。ほっともした。だが、芳しくない部分もあった。迎えの者も、その身分を明かしていないというのだった。
「どうしたものかな」
決めかねているような言い方で、マスターはあたしに下駄を預けた。子供の来店者。法は関係ないところだが、モラルという意味では難しいところだ。見て見ぬふり、というのも、後味が悪くなるかもしれない。
少しだけ考えて、とりあえず見てみることに決めた。上手く話せば、事情が見えてくるかもしれない。あるいは知った顔という可能性も、ないわけではない。なによりヘレンと会わせれば、双方の関係は一目でわかるはずだった。
ヘレンにはなにも告げずに、バーへ行かせようとした。すっかりへそを曲げてしまったヘレンは強情に渋ったが、マスターが顔を見せるとようやく安心した顔を見せた。マスターは善良な女と子供にはとても優しい。そうでない者に見せる顔とは、マリアとサタンほどに違うのだ。ヘレンはマリアの慈愛は知っていても、サタンの非情を知らないのだろう。そしてもちろん、それでかまわないのだ。
階下に降りると、スーツ姿の紳士が二人、カウンターの前に立ったままママと談笑していた。人払いでもされたのか、ほかの客はいなくなっていたが、いやなムードは少しもなかった。一人のスーツはダークグレイで、案の定、知った顔だった。もう一人は知らない顔だったが、それほど重要ではないだろう。ヘレンはやはり、ハイウェイで出会った少女だった。
階段口でスーツをみとめたヘレンは、慌ててマスターの陰に隠れた。いたずらを見咎められ、叱られそうな子供らしい仕草だった。身を脅かされる危険から逃れようとするのとは、明らかに違っていた。
ダークグレイがあたしに気づき、少し驚いた顔を見せてから会釈した。表情を変えるあたりに、なぜか好感が持てた。動揺を見せないプロフェッショナルの素晴らしさもあるが、それではつきあいにくいからかもしれない。
マスターが、少し力を込めてヘレンを前に出した。ヘレンは不安そうにマスターとあたしを交互に見上げ、やがて諦めたように前を向いた。ダークグレイは安堵の息を吐き、表情が和らいだように見えた。もう一人は見た目、なんの変化も現れなかった。やはりつきあいやすそうなのは、ダークグレイの方だ。
「あなた達が、この子の保護者?」
「はい。代理、ですが」
ダークグレイが、かしこまって答えた。
「そうなの?」
ヘレンに問うと、小さくうなずいて答えた。変に緊張している気配もなく、意に添わぬ嘘をついてはいないようだった。よし、これならなんの問題もない。お嬢様の我が儘に振り回されるなんて最悪の事態は、これで回避されるだろう。
渋々歩み寄るヘレンに、ダークグレイは屈み込み、目線を合わせながら手を取った。
「困りますよ、お嬢様」
「ごめんなさい、ウィルスン」
二人の関係が明らかになった。お嬢様と執事、爺や、あるいはボディ・ガード。肩書きは違うかもしれないが、つまりそういうことなのだ。
ヘレンはウィルスンにしがみつき、しゃくり上げ始めた。見知らぬ顔の中にあって、やはり緊張していたのだろう。実に子供らしい姿だった。
「ごめんなさい……どうしてもお兄ちゃんに会いたかったの……」
抱きしめられ、頭を撫でられながら、ヘレンはとうとう声を上げて泣き出した。
ヘレンが泣く間、ウィルスンは黙ってヘレンを抱きしめていた。泣きやむ頃、ママはタイミングを計っていたようにホットミルクをテーブルに出した。もう一人の隙のない男は無表情のまま迷惑がっていたようだったが、ウィルスンは礼を言い、ヘレンとともにテーブルについた。
「お兄さんに会いたかったの?」
ママはスーツの二人とあたしの分のコーヒーを出しながら、ヘレンに聞いた。ヘレンはミルクのカップを両手で持ち、半ば泣き顔のままうなずいた。
「お兄ちゃん、遠くの学校に行っちゃうから。だからその前に会いたいの」
返事を聞いたママは、ちらりとあたしの顔を見た。なにか面白いものを見るような目だった。あたしはそれとなく、視線を外した。
「聞いてもいいのかしら?」
ママの言葉を、ウィルスンは苦笑して受け止めた。仕方がない、というところだろうか。向こうもこちらに悪印象はない。そう思っていいようだった。
ヘレンの兄は、将来ファミリーの一翼を担うため、遠くの寄宿学校に入学した。一貫教育で、このさき六年間は戻ることはない。会うこともできないということらしい。長いお別れなのに、出発前に話しもできず、行ってらっしゃいの一言も言えなかったヘレンは、どうしても兄に会いたかったのだ。
ウィルスンの説明は、ファミリー・ネームや実際の地名をはしょり、上手く輪郭をぼやかせていた。
「会わせてあげてもいいんじゃないですか、ミスター?」
マスターがパイプをくゆらせながら言った。ウィルスンは困ったように、首を横に振った。
「どうして駄目なんです?」
「理由は申し上げられませんが、それがファミリーとしての意志、ということです」
きっぱりとした口調で、ウィルスンは言った。隣で聞いていたヘレンの顔は、悲しみに沈んでいる。何度となく聞かされたであろう、理由のない説明。子供は理由があっても納得できない生き物なのに、その理由さえ明かされないで、どうしておとなしく従えるだろう。
「でも、会いたいよね」
ヘレンがあたしを見た。ヘレンだけでなく、ウィルスンも、マスターも、ママも、隣のテーブルにいたもう一人のスーツまでもが、あたしのつぶやきを聞き、あたしを見た。
「お嬢さん、なにを……」
言いかけるウィルスンを遮って、あたしはヘレンの目を見つめながら、もう一度「会いたいよね」と繰り返した。
「……うん」
本気の目だ。子供だって、本気で物事を考えることがある。無知で愚かで浅慮なのは、子供なのだから当たり前だ。まして妹というのは、女だから妹なのだ。一人なら子供と括れても、兄を想うときは血縁という特殊な繋がりの女にほかならない。輪をかけて愚かで我が儘なのも当然で、そしてそれは許されるべきことなのだ。
「会いに行きたい?」
「うん」
「どうしても?」
「うん!」
あたし達のやりとりを、隣のウィルスンは呆気にとられて見つめていた。なんとも、本当に善良な人間だった。あたしはおもむろに立ち上がり、ウィルスンの座るチェアの脚をローキックで薙いだ。外に広がるように蹴れば、木製の椅子は意外に脆い。ウィルスンは簡単に後ろに転び、その隙にヘレンの手を取った。
もう一人のスーツが、間髪入れず動いていた。わずかの動揺も見えなかった。ウィルスンと違い、明らかにこっち方面のプロだった。もちろんあたしも予想していた。空いた手でテーブルを引き起こし、突き飛ばして壁にした。こちらにはヘレンがいる。銃は抜けない。抜けても、撃てない。
テーブルの壁をどうするだろう。あたしは払いのけると読んで、わずかな死角を利用して、床にスプレー・ニードルを撃ち込んだ。フローリングを崩したインスタントの落とし穴だ。一歩踏み出せば足を取られ、時間稼ぎになるはずだった。
読みは外れた。
スーツは右に回り込んできた。左手にヘレンの手、右手にニードルガン。撃つわけにもいかず、殴るにはこの銃は軽すぎる。スーツは案の定、銃は抜かなかった。その代わりに三段式のスティックを握っていた。よく見かけるタイプのスタンスティックだった。
振り上げてくれればあたしにも目はあったが、そんな間抜けではプロとは言えなかった。最短距離を選び、スティックは突き出されてきた。もちろんあたしは、絶縁スーツを着ていなかった。スティックが触れれば、あたしは不甲斐なく痺れてしまう。だが、それが届く前に、スーツはスティックを引き戻した。ヘレンのお手柄だった。ホットミルクをスーツの顔めがけてひっかけたのだ。
ミルクの大半は、引き戻した腕がカバーした。そこをめがけてマスターが、ワインのボトルで殴りかかった。スーツはスティックで、それを受け止めた。スーツはスティックを巧みに捻り、ワインボトルの力をそらせ、一挙動でスティックをマスターに押しつけた。そこに今度はママが、デカンターの水をぶちまけた。ぱちっと音がして、水を浴びたスーツとマスターが、ふにゃふにゃと崩れ落ちた。ありがたい援護射撃だった。
「ごめん、ママ」
「気にしなくていいよ」
ようやく立ち上がったウィルスンが、頼りない顔であたし達の前に立った。表情がある人間は、やはりつきあいやすい。そのせいでなんとなく申し訳なく思ったが、今更そんなことはどうでもよかった。
「ミスタ・ウィルスン、あたしはたった今、ヘレンに雇われることに決めたわ。正式の依頼を受けただけだから、そのつもりで」
「ま、待ちたまえ、君……」
歩み寄ろうとするウィルスンの前に、ママが割り込んだ。どこから出したのか、右手にはPPKが握られていた。
「早く行きなさい」
ママのお言葉に甘え、あたしはヘレンの手を強く引いた。見上げるヘレンが、嬉しそうな顔で言った。
「やっぱりお姉さんが……」
あたしは微笑んで見せ、それからカードを一枚、ウィルスンに放った。
「悪いけど、返すわ」
再び関わりを持った以上、契約は履行されなかったのだ。
「……大丈夫さ、ミスター。あの娘は信用できるよ……」
ママの言葉を背で聞きながら、あたしとヘレンは店を出た。店の前には相変わらずジャンクの住人がたむろし、アルコールかドラッグ・チップか、あるいは本物のドラッグをやっていた。もうすぐ陽が落ちるが、それまでは変わらない風景だろう。
連中を避けるように、少し離れたところにリムジンが二台とまっていた。一台はパール・ホワイト。もう一台はメタリックブルー。ヘレンに訊ねると、やはりウィルスン達のもののようだった。
少し考えて、ブルーの方を選んだ。最新型には詳しくないが、こちらにはホイールがついていた。エアよりはタイヤの方が、やはり好ましい。
手首からケーブルを引き出し、ウェスト・ポーチのコネクタに突き立て、ポーチからカード・アダプタを引っぱり出した。パーソナル・コード・キーをこじ開ける、違法プログラムとアダプタのセット。仕事柄、まれに必要になるツールだった。ここ三ヶ月、ヴァージョン・アップをしていないので心配だったが、問題はないようだった。このリムジンも、セーフティのヴァージョン・アップを怠っていたのかもしれない。
エンジンをかけ、リムジンをスタートさせた。静かに、スムーズに滑り出した。ポルシェとは較べものにならないパワーがあった。速く、しかも安全そうだった。だが、少しも面白くない車だった。
#5
ヘレンの兄の名は、グレミオ。ヘレンより二つ上の十三歳だという。
ここまで来て、とは思ったが、ヘレンは頑なにファミリー・ネームを明かさなかった。調べる気になれば、今ならすぐに調べることもできる。よもやこのリムジン、偽名やダミーで登録しているということはあるまい。だが、こんな小さな娘が守ろうとしている秘密を、こっそり暴こうという気は起きなかった。もちろん、最後までそれですむとも思えない。必要になればすぐにもできるよう、予防線は張っておいた。今はそれで十分だった。
グレミオは、今朝〇七〇〇に出発したという。陸路で、これと同じようなリムジンによる、約三日の旅程になるらしい。
目的地は旧モントリオール地域にある学園都市。企業経営の後継者をはじめとする良家の子女から、貧しくとも優れた頭脳の持ち主まで有用な人材を集め、英才教育を施すことで知られる有名な中立教育企業体である。
旧カナダ地域は企業間対立を超越して設立された合弁会社自治エリアであり、建前上出入りは自由とされているが、現実には厳しい審査があり、非常に制限されている。学園都市部は有名子女の多さゆえ警備態勢は特に厳しく、部外者の侵入はほぼ不可能と評判だった。
モントリオールで追いつく、という計算はできなかった。最終三日目は考えず、二日目の夜にはつかまえなければならない。距離と日程を考えると、グレミオ達の道行きはハイペースとは言えない行程のようだった。悪くない。だが、余裕があるとも言えない。現在時刻は一八〇〇を回っている。すでに十一時間、出遅れているのだった。
足の速い車が必要だった。このリムジンはその点、文句無しだったが、ウィルスンらの今後の動向を考えると、うまくなかった。欲しい足は持ち合わせても、足がついたのではシャレにもならない。
いったんシティ外縁部まで戻り、そうそうにリムジンは乗り捨てた。通りを二本変えてキャブを拾い、地下鉄のターミナルに行った。駅前で適当なブティックに入り、ヘレンの服を全て替えさせた。ウィルスンの追跡の早さを考えれば、トレーサーの可能性は十二分にあった。見つけだそうとするより、よほど確実だ。
お嬢様風のドレスから、ヘレンはやや上品なストリート風に変身した。ベースボール・キャップを逆にかぶせ、濃紺のスパッツとタンクトップ、シルバーの強化繊維ブルゾンをワンサイズ・オーバーで被せた。あたしもそれに合わせ、キャップ無し、強化合皮のライダースはクリムゾンという以外、お揃いに見えるようにコーディネイトした。
着ていた服は綺麗にパッケージングして貰い、配送中の宅配車にこっそり放り込んだ。宛先不明の上料金未払いだが、別に配達希望ではなかった。どこに行くのか知る必要もない。
一つ思いついて、ついでに総合エステティック・サロンにも立ち寄った。髪からなにから全身クリーニングをして貰うためだった。予約無しの割り込みで、少々痛い出費を強いられたが、この際徹底しておきたかった。
ヘレンは時間を惜しんで渋ったが、グレミオに会うのに綺麗にしておかなくていいの、と聞いたら、少し考えておとなしくなった。女の子は、やはり子供とはいえ女だった。扱い方が掴めてきた。
ついでなので、必要と思われる手配と確認を済ませたあと、あたしもケアして貰うことにした。急がせたので堪能するというわけにもいかなかったが、かなり生き返った気分がした。だが、隣であたしを見るヘレンの目が、少しだけ厳しくなった。どうやら自分の方がついでなのでは、と、疑問を持ったらしい。待ってる時間が無駄でしょ、と説明したが、あまり納得していないようだった。女の子の、女でない子供の部分は、やはり扱いにくかった。
約一時間を費やしたが、浪費とは思わないことにした。人間のクリーニングも洋服並に高速化されたものだ。ヘレンもあたしも見違えるほど美しく仕上がっていた。だがこれで、ウィルスン達が見間違えてくれるとは思えなかった。
トレーサーはたぶん、ここまでやれば大丈夫だろう。あとは速やかに、このシティを離れたい。
地下鉄で二駅移動して、近くのリカー・ショップでスコッチを一瓶仕入れ、再度キャブを拾った。それにしても、よくキャブに乗る日だった。日頃乗りつけないので、運転手への指示がどうもぎこちなくなる。番地やストリート名なんて、自前の車ならあまり関係ないせいだった。
企業行政管理エリアを中心に、東西に長いほぼ楕円形のシティを、この移動で南から北へ縦断した形になった。B&Wのあったジャンクはシティ中央から南西側に当たり、キャブを降りたのはほぼ真北のあたりだった。ダウンタウンだが、ジャンクではなかった。元来旧市街の南部から発展したこのシティでは、北部にはジャンクとなるべく残された廃墟があまりないのだった。わずかに残る狭い廃墟地帯には、シティにもジャンクにも住めない、あるいは住みたくない者達がひっそり隠れ住んでいる。それほどの危険はないが、わざわざ近づくほどの価値もない。だが、けして安全ではないし、その分だけの価値もある。この辺りは、多くの人にとって共通の二面性に支えられてはいない。誰もが知る、シティのように安全だが不自由だったり、ジャンクのように危険だが自由という認識では、括れないところなのだった。
あたしにとってここは、後者だった。少々危険ながら利用価値のあるところだった。とくに、今のような時に。
「どこに行くんですか?」
「黙ってついておいで」
左手でヘレンの手を引いて、廃墟街を進んでいく。月明かりと、シティからの光のほか、光源らしい光源はなかった。右手の懐中電灯だけが、まともな意味で明かりといえた。ほとんど人影はなく、聞こえるのは風の音か野良猫の声、あとは遠くシティから響いてくる唸りくらいのものだった。
たまに見かける人影は、皆一様に動かなかった。ビルの壁にもたれうずくまっている者、道端で横たわっている者。眠っているのか、あるいはもう生きていないのか。照らされても微動だにしないので、見ただけでは判断できなかった。ライトが向けられればいやでも目に入ってしまうのだろう、ヘレンの握る手に力がこもっていた。あたしだっていい気分ではないのだ。あたしの半分ほどしか生きていない娘では、気味が悪くて当たり前だった。
「大丈夫、怖くないわ」
「……うん。こわく、ない」
それでも、不自然な力は抜けなかった。まあ、強がれるだけでも上等だろう。ぴぃぴぃ泣かれでもしたらかなわないところだ。
「走れる?」
「え? あ、うん。大丈夫。走るの?」
「もしかしたら、ね」
確信はなかったが、いやな感じがした。気配、と言えばいいんだろうか。誰かに見られているような感覚があった。どこからか、刺すような視線が注がれている感じがした。
暗く、光がないからと言って安心はできない。あたしはライトを持っているし、暗視ゴーグルやサイボーグアイなら、たとえ光源を持っていない相手でも監視するのはたやすい。まったく、油断のできない世の中なのだった。
ほどなくして、目的の場所に到着した。かつてテロの標的にされたとかで、ほとんど壁も天井も崩れ落ちている病院跡だった。入院中の要人一人のためという話だから、標的はあっても無差別に近いテロ行為だったのだろう。悲惨な動乱期にはよくあったこととはいえ、ぞっとしない建物だった。
形ばかりの門柱を抜けると、瓦礫で埋まった中庭が広がっていた。不安定な足場をヘレンの手を引いて進み、ロビーへと続くエントランスに入る。ガラスのドアも天井もなく、知識として知らなければここがなんなのかはわからないだろう。かつて受け付けカウンターだった残骸の上に、〈診療中〉のプレートが乗っていた。少し、安心した。
「ドク、いるんでしょ?」
返事はなかった。カウンターの上に、仕入れてきたスコッチを置いた。
「ドクター?」
やはり、返事はなかった。
「……お医者様がいるの?」
「えらいヤブだけどね」
不思議そうなヘレンに答えながら、ボトルからキャップを外した。
「いらないのね。捨てるわよ」
ボトルを倒した。重そうなガラスの音と、ついで液体が流れ、滴る音がした。アルコールの匂いが漂い、風に乗って流れていった。ヘレンは顔をしかめ、あまり愉快でない顔をした。
間をおかず、瓦礫のどこからかごとごとと音がした。
「酒か! 酒があるのか!?」
寝ぼけた、男の声がした。どうやらカウンターの奥の瓦礫の中らしかった。
「匂う、確かに匂うぞ」
「ドクター、やっぱりいるじゃない」
ボトルを立て直し、もう一度声をかけた。よれよれの白衣をひっかけた、初老の男だった。見てくれはほとんどホームレスだったが、立派なここの持ち主だった。祖父から権利を相続した、正規の地主なのだった。
「よう、お前さんが来とったのか。なあ、いま酒の匂いが……」
「耳は遠いくせに鼻は利くのね」
スコッチのボトルを差し出して、ドクターに渡した。三分の一ほどこぼれていたが、十分に手みやげとしては喜ばれたようだった。
ドクターは嬉しそうに口を付け、残りの半分ほどを一気に流し込んだ。健康に悪そうな呑み方だった。医者の不養生の見本のようだった。
「して、用は……と聞くのもヤボか。診てやらにゃならんところもなさそうだしな」
「ドクターに診察なんかさせたら、病気にされちゃうもの」
「ああ、ああ、わかっとるよ。なにが欲しいんだ?」
「名前言ってもわからないでしょ? ナンバーはRUF-YB02。黒いヤツよ」
「ふむ、アレか。よし、少し待ってろ。一本向こうの通りにバドワイザーの看板のビルがあるだろ? だいたい向かいよりちょい東ってところだ。その下で」
「わかったわ、バドの看板ね」
ヘレンの手を引いて、病院跡を出た。瓦礫の上をよたよた歩きながら、不思議そうにヘレンが聞いた。
「お医者様じゃなかったの?」
「医者よ。でも、ほかにも仕事をしていて、そっちの方が役に立つのよ」
ドクターは、知る人ぞしる『預かり屋』だった。一本の万年筆からトレーラーぐらいのものまで、金次第で保管を代行してくれる。もちろんこんな場所で、こんな男がやっているのだから、合法的な仕事ではない。禁制品だろうとなんだろうと、預かれるものならなんでも預かってくれる。なんの保証もしてくれない完全な信用商売で、利用するならとりあえず信頼しておくしかないのだが、今のところ裏切られたことはないし、そういう話も聞いたことはなかった。
形ばかりの門柱を出て、瓦礫の敷地を抜けた。一本向こうの通りに抜けるには、少し歩かなければならなかった。ヘレンが少し、辛そうだった。もう時刻は二〇〇〇近い。ずいぶん引き回しているし、精神的にも疲れて当然の状態だろう。早く休ませてやりたいが、なかなかそういうわけにもいかない。時間はあまり、ないのだ。
バドワイザーのビルを知らないので、少し西よりの路地を選んだ。相変わらず人気がなかった。明かりらしい明かりもなく、住み着いている人々の気配は感じられなかった。
十分も歩いた頃、二回壁面全面に剥げかけた赤と白の看板を見つけた。かつての隆盛は見る影もなく、合併相手を間違えてクアーズや日本製ビールに駆逐された、バドワイザーの看板だった。かつては雑居ビルだったのだろうか。それほど敷地面積のある建物ではなかった。エントランスも狭く、短い階段であがる造りになっていた。ガラスのドアなどはずいぶん昔になくなっていたようで、破片の一つも落ちていなかった。
「ここなの?」
言うなりヘレンは、階段にへたり込んだ。エレベーターは死んでいた。エントランスの奥は瓦礫で埋まっていた。理由はわからないが、不法居住者もいない感じだった。それだけ確かめてから、あたしは手すりに腰を預け、今後の算段にはいった。明確な気配を感じたのは、そのときだった。
「こんばんわ、嬢ちゃん達ぃ」
若い男の声だった。斜向かいの路地のあたりから、二つの影が歩み出てきた。ライトを向けると、二人ともゴーグルをかけていた。光学増幅暗視鏡のようだった。身なりは特に特徴のない、今風のちんぴらファッションだった。だが、それぞれに小口径とはいえ銃を持っているのは面白くなかった。
「こんばんわ。なにか用かしら?」
ヘレンが立ち上がり、あたしの腰にしがみついた。いやな雰囲気はやはり伝わるのだろう。からだが少し、震えていた。軽く頭を抱いて、落ち着けるように撫でた。
「ちょいとつきあって欲しくてなぁ。なぁに、悪いようにはしねぇさぁ」
台詞にもう少し工夫が欲しいところだった。これではなにが目的なのかはっきりしない。判断がつきかねる。たまたま見かけたあたし達なのか、ようやく見つけたあたし達、なのか。
「パンスケ買いたきゃジャンクに行きなよ。金さえありゃ、あんた達だってモテモテだよ」
見るからに貧乏そうだったが、一応言ってみた。反応が見たかったのだ。二人は顔を見合わせて、耳障りな笑い声をあげた。不愉快な反応だった。
「ねぇちゃん、女ってのは買うもんじゃねぇのよ、俺らにとってはなぁ」
銃が向けられた。喋っていない方の男だった。無口な方が、行動力があるのだろうか。
「手荒なマネはしたくねぇのよ、わかるぅ?」
手荒な人間が好む台詞だった。
「……妹がいるのよ。目の前じゃ、困るわ」
「ふふん。物わかりがいいなぁ。ガキに用はねぇよ、来な」
男が手招きをした。どうやら即物的なちんぴららしかった。しかもロリコンではないようで、少しだけありがたかった。ホモならもっと素敵だったが、ないものねだりに意味はない。
「お姉ちゃん……」
なにも言わないのに、ヘレンは調子を合わせていた。頭のいい娘だった。
「大丈夫よ。戻るまで、中に隠れてなさい。すぐだからね」
不安そうだったが、ヘレンはうなずいた。ライトを持たせ、頭をもう一度撫でた。男達が苛立ち始める前に、あたしは階段を下り、歩いていった。二人に挟まれるように、路地に連れ込まれた。
あたしの躯に回る手は、明らかに生身だった。見分けがつかないほど高価なサイボーグ・パーツが買えるほど、金持ちには見えなかった。ナイトヴィジョンを使うのだから、そっち方面の改造もなさそうだった。最低限しか手を入れていないのだろう。なかなか都合がいい。
男達は細い路地を塞ぐように前後に立った。間のあたしとは一メートルほどの距離を取っていた。
「脱げよ。それとも、脱がせてやろうか?」
銃を突きつけたまま、男が言った。あたしは言われるまま、強化合皮のライダース・ジャケットに手をかけた。ジャケットのポケットにはニードルガンが入っていたが、二丁の銃が油断なく狙っている。まだ抜くわけにはいかなかった。
目が闇に慣れてきた。ジャケットを足元に落とし、スパッツに手をかけた。下着はつけていない。自慢のヒップが夜風に晒され、すうすうした。背中を向け、壁に手を突いてお尻を突き出した。
「これでいい? それとも、上も取る?」
「……OKだ」
おしゃべりな方が銃を尻ポケットにねじ込み、にらめっこでもするようにお尻の前にしゃがみ込んだ。
男はさらにサーヴィスを要求した。自分で準備してみろというのだ。あたしは左手にその役割を託し、男の目を楽しませることにした。
ゆっくり指を動かし、なにげに声を上げるうち、楽しんでいる男が楽しんでいる男達になった。銃を構えていた無口な男の注意が、魅惑的に揺れるヒップに吸い寄せられていった。
銃口がわずかに下がったとき、あたしは小さなソフトウェア・ディップ・スイッチをオンにした。普段は設定しないモードに、大金をかけた強化神経系をシフトさせた。あとは、簡単な話だった。
一丁の銃を叩き落とし、二つのナイトヴィジョンを弾き飛ばしてやるだけだった。ドライビングのための改造だったが、ハイレベルな強化神経はこんな時にも有効だった。ノーマルな神経系では、とても捉えることなどできない動きができるのだ。
甲高いエンジン音が聞こえてきた。頃合いも丁度よかった。パニックを起こしている二人に向かい、拾い上げたニードルガンをスプレーした。微かな噴射音だけで、人間二人分のミンチができあがった。
スパッツをはき、ジャケットを引っかけて、バドワイザーのビルに戻った。ビルの前には黒いスポーツカーとドクターがいた。あたしが姿を見せると、跳ねるようにヘレンがビルから飛び出してきて、またまたあたしに抱きついた。下の兄弟はいなかったが、いたらこんなに可愛かったのだろうか。あたしはヘレンを抱き上げて、車のそばに寄った。
「ハイ、ドク。間違えなかったみたいね」
「ああ。黒いのはこのポルシェ一台きりだったからな」
「ポルシェじゃないわ。ルーフよ。イエロー・バード」
黒く塗り替えたのは、あたしの趣味だった。
ヘレンをナヴィに座らせ、ドクターに礼を言い、あたしはルーフをスタートさせた。
ずいぶんと出遅れている。取り戻せるだろうが、楽な道行きにはなりそうもなかった。
#6
十二時間遅れたなら、十二時間余分に走ればいい。理屈は簡単だが、二日分の行程をまとめて走るというのは、言葉にするほど楽なことではなかった。
ヘレンに聞いていた二日目の停泊予定地は、旧カナダ国境に近い小さなシティだった。ここはあたし達のシティと敵対関係などはなく、むしろ衛星都市と呼べそうな繋がりのシティだった。わかりやすく言えば、支配企業がグループ傘下に収まっているのだ。小さなシティと大きなシティではよくある繋がりで、ここもその例の一つだった。
出発前の目算で、約二十二時間を見ていた。食事や生理現象の処理、若干の休息を計算に入れても、プラス二時間と読んでいた。睡眠時間は、はなから考えなかった。眠るのはヘレンだけでいい。彼女はハンドルを握るわけではないから、いつだって眠ることができる。そしてあたしは、滅多に使わない薬で睡眠時間をごまかした。
ドラッグは、正直言って好きではなかった。体質やサイボーグ・パーツとの相性の問題でリスクがあり、どれほど高い安全性をうたおうと、多少なりとも必ず副作用がある。効果が高くなればなるほど危険性はまし、安全なやつではほとんど効果が得られない。そして必要なのは、やはり効き目の強いものなのだ。
覚醒剤は、有効性ドラッグの中でも需要が多く、使用頻度が高い割にリスクの大きい薬剤でもあった。覚醒時間を服用によって無理に引き延ばすため、中枢・末端神経系全般に相当な負担をかけることになるのだ。
スウィート&スマートは、仕事柄、あたし個人的にも服用機会の多いドラッグではあった。だからこそその効果と、使用後の副作用はよく知っていた。効果は確実だが、連続投与は四十八時間を限度に考えねばならず、それ以下の使用でも副作用はかなり不愉快なのだった。だが、好き嫌いはこの際、考えには入れなかった。ドラッグの効果を最大限に生かし、『仕事』を完遂しなければならない。
ドラッグは素晴らしい成果を上げた。二十四時間、不眠不休の行動を実現し、あるはずの疲労を微塵も感じさせずにタイムロスを最小限にくい止めてくれた。
上等とは言えないが最低限のメンテナンスはされている、大陸縦貫道路の単調な光景。それが生み出すドライバー専用の催眠効果もものともせず、我が愛車ルーフCTRは過酷な大陸走破を記録的タイムで実現したのだ。
予想に反し、単純な走行上の障害以外、人為的なトラブルは発生しなかった。追っ手も待ち伏せもなく、果たしてヘレン捜索の手はどうなっているのかと、退屈な走行時間に首を捻ったほどなにもなかった。結論は、少し考えれば簡単にでた。ヘレンの目的がはっきりしているのだから、その到達地点に網が張られていると考えられる。つまり、グレミオの周囲に網はある。騒ぎを大きくせず、より確実な方法。きわめて合理的な推論だった。
出発してからおよそ一日。二十四時間と十二分後。時刻にして二一二七に、ルーフはシティ管理区へ到達した。ここはおそらく、すでに網の中だろう。餌はこちらの目的という、申し分のない網の中だ。漁師の網をかいくぐり、餌をかすめ取ることができるか。いよいよ仕事は正念場だった。
シティ来訪時の市民証チェックは、ダミー・コードで済ませた。あたしが使っているのは、闇ルートで捌かれているような良質なんだか粗悪なんだかわからないようなものとはひと味違う。友人であり、時に仕事仲間でもある一流ハッカーの手によるプログラムなのだ。ヴァージョン・アップも欠かさず、幸いにして更新後三日目だった。
シティに入ってまずあたしは、ルーフを適当なガレージに放り込むことから始めた。短期間に酷使したし、一両日中の車両出入りをチェックされていた場合、この車は目立ちすぎていただろうからだった。陸送手続きをとり、地元の馴染みのガレージに運んで貰うことにする。これでとりあえず、ルーフのお務めはお終いだ。
「この街にお兄ちゃんがいるの?」
ガレージに着くまで眠っていたヘレンが、眠そうな目を擦りながら聞いた。
「それをこれから確かめるの」
ルーフから外したナヴィゲーターを頼りに、街外れのホテルに向かった。看板に漢字で〈小西安〉と書かれていた。旧世代のビルを、内装だけチャイニーズに改装して使っている安ホテルだった。ビジネスマンよりアベックが利用しそうで、その分セキュリティも甘そうだった。
受付にいくと、安っぽさがさらに上積みされた。人間でなく、一世代前のオート・マタが座っていたのだ。人件費よりも安くすむと、一時期もてはやされたオート・マタだが、特にサーヴィス業ではうけが悪く、あっという間に廃れてしまったものだ。いまだ受け付け業務に使用しているところがあるとは思わなかった。おそらく夜勤だけなのだろうが、それにしてもと思ってしまう。
気を取り直して確認を取ると、ダミー・コードと同じ名で予約が取られていた。部屋はツイン。高くも安くもない部屋だった。
「お姉ちゃん、シャワー使ってもいい?」
部屋に入るなり、ヘレンが聞いた。
「もちろん。一時間くらいは休めるわ」
ヘレンは嬉々として浴室に飛び込んでいった。あたしも汗を流したかったが、そういうわけにもいかなかった。やるべきことがあるのだ。
部屋を見回すと、簡単なリヴィング・テーブルの上に雄牛のエンブレムのキーが乗っていた。約束通りだった。
端末はベッド脇に造り付けられていた。かなり古い型で不安になったが、幸運にもダイレクトリンク端子は装備されていた。もう二世代古かったら困っていたところだった。
端末はすでにスタンバイを表示していた。バッグからダイレクトリンク・インターフェースを取り出し、それを中継として端末と右手首のジャックを繋いだ。インターフェースのコネクト・スイッチをオンにする。ディスプレイのスタンバイがコネクト・オンにに変わり、ついでダイレクトリンクの大文字が赤く表示された。
あたしはいつものように目を閉じた。慣れれば目の開閉は関係ないらしいが、まぶたの裏に文字が並ぶような感覚がわりと好きなのだった。流れる文字のイメージが、感覚変換プログラムの展開に伴って質感を帯び始めた。文字に色が付き、陰影が付加され、音や手触り、匂いなどが足されていく。奇妙だが、そんな感じだった。
やがて意識の中で、プログラムが実体化する。そこは緑豊かな公園だったり、やけにいかがわしい酒場だったり、あるいは議事堂のような格式張った会議室だったりする。その光景は、リンク先の目的によって設定されている。プログラムコードは、インターフェースの共通言語によりユーザー間に同一のイメージを与えてくれるのだ。今回あたしが目にしたのは、狭く、ただ無機質で、なにも入っていない箱のような空間だった。不安に陥る前に、この箱の提供者が目の前に現れた。顔半分を青く塗ったピエロのマリオネットだった。このアイコンは、あたしには馴染みのものだった。通称をヒューという腕利きのハッカーが、あたしとのコンタクト時に使用するアイコンなのだ。ホテルの予約を入れてくれたのも、端末をスタンバイさせていたのも彼だった。
「アロウ、待ってたよ。百八十秒の密室へようこそ」
ヒューは三分間だけこの回線をシールドし、ロックした。本来オープンな回線をソフトウェア・レベルでシールするのは、明らかな違法だった。だが、法で保護されたシールド回線ほど危険なものはないというのは、誰もが知る常識だった。その証拠に、企業中枢レベルのシールドとプロテクトの攻性レベルは、明らかに法的基準を超える、凶悪なまでに強固な迷宮となっている。一流のハッカーでもたいがいは侵入できず、もし入れても攻性プロテクトの手厚い歓迎を受けることになる。そうなれば精神レベルの損傷を免れることはまず不可能で、最悪、というよりもっとも可能性が高い、精神のブラック・アウトという事態に陥るだろう。
精神の消失は、死と同義だ。こんなところに、万が一でも一般ユーザーが迷い込めばどうなることか。その確率は万が一でも、生還確率は万に一つもないだろう。こんなシステムの公共エリアとのリンクなど、認められるはずがない。だが、それでもそれは存在し、そこまでしなければ秘密は守られないのだった。
ヒューのシールドは強力だが、企業中枢レベルほどではない。百八十秒という時間設定は、このくらいの時間ならば破られないという目安であり、いざというとき、プログラムから足がつかないようにする自動消失のためだった。
「殺風景。つまらない眺めね」
「機能優先だからね。で、頼まれていた資料はメモリに書き込んでおいたよ。オマケ付きでね」
「オマケ?」
「うん。あとで見てみて。データの取りもらしはないと思う。不足は感じるかもしれないけど」
「ありがと。さすがね」
「いやいや、ビジネスは正確にがモットーだから。追加オーダーはある?」
「ターゲットのホテルだけど、例の細工はしてくれてる?」
「もちろん。抜かりはないよ。詳細はファイルにね。あとは?」
「なら、いまのところ、ないわね。でも必要になるかもしれない、かな」
「OK、ならアクセス・マーカーを置いとこう」
ピエロが軽く手を振ると、黄色い鳩が現れた。鳩はあたし達の頭上を三回まわり、消失した。
「マーカーのハンドルネームはイエロー・バード。アドレスはメモリにファイルしたよ」
「覚えやすい名前をありがと」
「どういたしまして。それじゃ、また」
ピエロは消え、すぐにあたしも強制退去させられた。ヒューの組む退去プログラムはかなり安全だった。意識は唐突に現実に還り、軽い眩暈に襲われた。ほんの三十秒くらいの会見だった。
端末をネットワーク回線から切り離し、インターフェース内メモリに書き込まれた資料を呼び出した。グレミオの宿泊地、警備状況、ヘレン捜索の動き、カー・ナンバーから割り出した背景資料と、大きく分けて四つのファイルがあった。
グレミオの宿泊地は、さほど遠くないホテルだった。言うまでもなく一流で、服をどうにかする必要がありそうだった。警備状況のファイルを開くと、四名の随行員の名と簡単なプロフィールが記してあった。肩書きは誰もがSPだった。当たり前といえば当たり前だったが、面白くなかった。ヘレン捜索の動きは、とりあえずないようだった。シティ・セキュリティへ通報されているかとも思ったが、独自解決を目指しているようだった。予想の的中確率が少し上がったというわけだ。
最後のファイルは、少し考えて開くのをやめた。見た方がいいのだが、今まで知らなかったのだから最後まで通したい気もした。少なくともヒューはもう知っていることなのだから、あたしが知らないなんてのはほとんど無意味なことだった。でもそれでかまわなかった。
ついでに、オマケのファイルとやらも覗いてみた。巨大な実行ファイルのようで、拡張子から判断するとダイレクトリンク用のアイコンらしかった。添付されていたドキュメントを開くと、ヒューからの手紙だった。
『アイコンの新作を贈ります。今回も君の美しさを表現し切れているとは思えないけど、前作よりもイメージに近づけていると思うので』
なるほど、だった。これで三つ目のアイコンだった。ファイルを旧作に上書きし、次からはこのアイコンに切り替わるようにした。ヒューのデザインセンスはちょっと前衛的すぎる嫌いはあるが、面白いので好きなのだった。
ヘレンはまだシャワーを浴びているようだった。待つ間にライムのカクテルをつくり、覚醒剤を流し込んだ。これで継続行動が三十六時間まで引き延ばせる。さすがに怠く感じ始めた手足には、筋肉に蓄積する疲労物質を分解する薬を、静脈注射で投与した。服用よりも効果が高く、早い。乱用は禁物だが、そう何度も使うものではなかった。
そうこうしているうちに、ヘレンがバスルームから顔を出した。生き返ったような顔をしている。バスローブがぶかぶかで、引きずるようなのに、可愛らしく似合ってしまうのが子供の特権だった。
ヘレンを呼び、ドレッサーの前に座らせた。ヘアセットは見よう見まねだったが、あたしの見本はマルティナだった。見本がいいぶん、見よう見まねのレベルも高いのだ。
「お姉ちゃんはシャワー、使わないの?」
「あとでいいわ」
もちろん、使いたかった。だがそれ以上に、緊張感を切りたくないのだった。バスルームに入ってしまえば、薬の効果があるとはいっても、くつろぎたい気分になってしまうだろう。
「まだ行くところがあるの。グレミオに会う前にね。大丈夫?」
「うん」
ヘレンの返事は元気だった。子供の体力にはなかなか驚かされるものがある。グレミオに近づいてる実感も、後押ししているのかもしれなかった。
電話でルーム・サーヴィスを呼び、ピザとペプシを二人分注文した。高級ホテルでも安ホテルでも、メニューを確かめずに頼める軽食だった。出入り業者に服屋があるか訊ねると、裏手で貸しているテナントに入っているとのことだった。サイズを告げ、レディスとガールズのフォーマルを何着か見せて欲しいと頼んだ。ヘレンはグリーンがいいと一所懸命主張していた。グレミオが好きな色なのかもしれなかった。
軽い食事を済ませ、服を選び終わる頃には、時刻は二二三〇を回っていた。いい頃合いだった。
ヘレンはモスグリーン・ベースでブレザータイプのスリーピース・ウェアを選んだ。胸元の大きな黄色いリボンを除けば、どこかの学生服で通りそうなデザインだった。あたしはベージュのスーツにした。スカートは避けたかったが、哀しいことにパンツタイプは用意されていなかった。靴は服に合わせながらも一番ヒールの低いものにした。変に高いヒールでは、いざというとき困ってしまう。
「お姉ちゃんて、やっぱり綺麗……」
「そう? ヘレンだって可愛いわよ」
このくらいの子供は、大人に対してある種の嫌悪と憧れを持っている。その眼差しを羨望に変えるか絶望に変えるかで、子供の未来は決まってしまう。子供は大人が嫌いだが、一人でも二人でも憧れられる大人がいれば、そしてそれが悪い見本にならなければ、きっと素敵な大人になれる。
「あなたなら、そうね、ハイスクールを卒業する頃には、あたしなんか追い越しちゃうかも」
子供の夢と期待は奪ってはいけない。努力する心を摘まないためにも、素敵な未来を潰してはいけない。現実など、成長すればいやでも知るのだから。
「そうかなぁ。わたしも綺麗になれるかなぁ」
「たぶん、ね」
嘘でもお世辞でもなく、ヘレンは綺麗になれるだろうと思えた。素直に育てば、努力をすれば、あたしにはないものも身に付くだろう。成長したこの子を見てみたいものだと、わりと本気で考えてしまった。
「さて、そろそろ行こうか」
「はい」
ヘレンの成長を考えたら、今はなによりグレミオだった。この先はわからないが、身近な男性としてグレミオの果たしている役割は大きいはずだった。
どんな男の子なのだろう。
考えてみたら、あたしはグレミオの顔を知らなかった。迂闊だった。きっとヘレンのデータのファイルに入っていたに違いない。
まあいい。こちらにはヘレンがいる。グレミオを見つけたら、ヘレンを押しつけて逃げるだけなのだ。そうすればグレミオのSPがヘレンを保護し、ヘレンは学園区域までの見送りに同行でき、帰りもSP付きで安全。なんの問題もないだろう。
ホテル〈小西安〉を出た。
時刻は二二四二。子供はもう、寝ている時間だった。
#7
ホテル〈シャイニィ・パレス〉は、安っぽい名前の割にはよく知られた高級ホテルだった。苛烈な企業戦争を統合無しに乗り切った、ただ一つの純粋なホテル産業会社、帝都産業。そこが企業よりも民間に向けて起こした、観光用ホテルの看板ブランドなのだった。
帝都産業のホテルといえば、その徹底したセキュリティには、『小さな独立国』と呼ばれるほど定評があった。帝都産業は千葉シティを拠点にしてはいるが、産業としては全世界のシティにある宿泊施設が基盤になっている。各地でシティの支配企業に属さず成功するには、重要なポイントが二つある。敵を作らないことと、自己防衛を他社に依存しないことだ。
帝都産業はどこにも味方しない完全中立方針と、強固なセキュリティ部門の創設で、吸収合併の嵐を乗り越えてきた。そして企業間の争いが表面上とはいえ落ち着いてきた頃には、その中立性とセキュリティの信頼性が、多くの企業から必要とされるようになっていた。会談の場として、敵対企業支配地での宿として、スパイの潜伏先や逃亡場所として、あるいは、ビジネスを離れて安らぐための場所として。
かくして帝都産業は、世界的ホテル会社としての地位を確立した。それ以上を望まない限り、圧力をかけられたり敵視されたりすることのない、中立企業として容認されたのだった。
ホテル〈シャイニィ・パレス〉は、観光ホテルとして帝都産業の誇るブランドだった。企業の中間管理職以下の層にとって、少し高いが贅沢をしたい、というレベルのレジャーに合わせて設定されている。
正直グレミオは、ワンランク上の企業向けホテル〈グランドパレス〉か、シティ支配企業直営のホテルを使っていると予想していたので、少しばかり意外な気はしていた。ヘレンの周りにいた人の数、グレミオの警備体制を考えたら、それなりのおぼっちゃまだと思えたからだ。だが、お忍びとか秘密裡の移動と考えれば、理にかなった選択とも言えた。ここに宿泊する方が、同じおぼっちゃまでもより低いグレードに見えるだろう。
ヒューの入手した情報では、ここの二十一階二十一から二十三号室がグレミオの部屋、となっていた。ソースはホテルの管理コンピュータらしい。ヒューくらいのレベルのハッカーには、この辺の侵入には並程度の苦労しかないというからたいしたものだ。支配企業のバンクに侵入しろといわれれば躊躇もするが、それでもそれなりの成果はあげるときが多いから凄い。しかしあたしが感心するたびに、『前世紀のクラシックカーで、しかも百五十マイルオーバーでハイウェイの対向車線を走る方が何倍も恐ろしいね』と言う。もっともその話をマルティナにしたら、どっちも恐ろしくて経験したくないと言っていた。それはそうかもしれない。あたしだって走りたくて走ったわけではないし、ヒューだって同じであろうはずだった。
必要以上の警戒心を見せないよう、あたし達は特になにも考えずにロビーに入った。変装などの細工も試みなかった。素人考えの小細工などしたところで、この際あまり意味はないだろうからだ。
さすがに有名ホテルは、この時間でも人は多かった。全業務二十四時間体制が当たり前の一流ホテルは、そうしなければならない理由があるからそうしているのだった。
人待ち顔で、ロビーのソファに陣取った。ヘレンは隣に座らせ、眠りかけた子供のようにあたしにもたれ掛けさせておく。
なにげに目を配ると、どうも動きのおかしい人がちらほらと見受けられた。しかしホテルのガードかグレミオのSPか、見分ける術はなかった。もちろんそれ以外の可能性もある。ちょっと場当たりに過ぎたかもしれない。それなりに綿密なつもりでも、ここまでの作業は専門外なのだ。うまくできるとは限らない。やはり『仕掛け』を使い、強行するのが一番のようだ。
ヘレンを連れて、カウンターに行った。
「二一三〇号のミスタ・ホーマンと約束をしていたのですが、時間が過ぎてもいらっしゃらないんです。確認していただけますか?」
「かしこまりました。失礼ですが、お名前を」
「レストンです。エリザベス・レストン」
「ミズ・レストンですね? では、しばらくお待ちください」
もちろんホーマンもエリザベス・レストンも、実在しない人間だった。より正確には、東アメリカにあるシティに住む正規市民で、このシティにはいないはずの人間、とも言える。本来空室のはずの二一三〇号室はデータ的には塞がっており、いるはずの客の都合で電話はオフされ、ホテル内ネットのみで受付とつながっている。全てヒューの細工で、ありがちだがスマートで確実なテクニックだった。
受付のディスプレイには、問い合わせればすぐに『部屋へ通してください』とメッセージされるはずだ。あたしはコードの提出を要求されるだろうが、完璧なダミーコードをもっている。一分の間もおかず、シナリオは想定通りに進行した。不審な点はなかった。
「ご案内いたします」
ボーイが駆け寄り、先導してくれる。
「いいわ、荷物もないし」
チップを渡し、申し出は辞去した。ボーイは分をわきまえていた。エレベータ・ボーイがボタンを押した。待機していたエレベータの扉が開いた。これに乗り、二十一階で降り、グレミオの部屋のどれかにヘレンを放り込めば仕事はお終いだった。ここまで来てしまえば、ヘレンをグレミオに会わせない、なんてことはあるまい。そしてあたし一人なら、逃走でも何でも、どうにかなる。
しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。ここは舞台ではなかった。シナリオには登場しないキャストが飛び入りし、信じられないほどの存在感を示してしまうことだってある、現実だった。
「失礼」
エレベータに乗り込む直前、言葉とともにあたしの右手が掴まれた。瞬間的に緊張がピークに達し、そのまま振り返って我を忘れる羽目に陥った。
「……まさか……なんで……」
「やっぱり……」
お互いに、知った顔だった。知りすぎるほど知っている顔だった。お互いにとってここにいるはずのない相手であり、いるとすれば仕事以外に考えられない相手だった。そして彼の仕事は公安で、あたしの仕事は運び屋だった。
「あっ」
エレベータのドアが閉まった。あたしとヘレンは押し込まれるようにボックスの中にいた。逃げるチャンスは失われた。
「まさかとは思ったが……やっぱりお前だったのか……」
右手を掴まれたまま、あたしは壁に押しつけられた。目を落とすと、怯えた表情のヘレンがしがみついていた。それを見て、ようやく昇った血が落ちてきた。
「やめてよデイヴィッド、ヘレンが怖がってるじゃない」
掴まれた手をふりほどき、ヘレンを前に抱き寄せた。
「ああ、すまない。この子がヘレンかい?」
「そうよ。で、どこまで知ってるの?」
「全部。お前の知らないところから知ってるところまで、全部だ」
「ふぅん。それで、あたし達をどうするつもり?」
エレベータは十階で停まった。ディヴィッドが押していたらしかった。エレベータからあたし達を降ろし、ドアを閉めると、一番近い部屋へ通された。一〇一五号だった。
「遠慮はいらない。取り急ぎ押さえた君たちの部屋だ」
「……わざわざ、ありがたいわね。で?」
「ん? ああ、どうするかって? 聞きたいのか?」
デイヴィッドはちらりとヘレンを見た。ヘレンは相変わらず不安そうに、あたしにしがみついている。屈み込み、一度ヘレンを強く抱きしめた。
「大丈夫よ。寝室で休んでいて。すぐにグレミオに会わせてあげるから」
ヘレンは心配そうにしながらも、うなずいた。
「テレビ、見ていてもいい?」
「いいわよ。そうしなさい」
ヘレンは寝室に消え、ドアが閉じた。
「これでいい?」
「ああ。で、お前に関してだが、特にどうこうしようなんて話はない。ヘレンは保護願いが出ているから保護しなければならないが」
「……どういうこと?」
「拉致監禁だの誘拐だのって届けは出ていない。保護願いもきわめて非公式な、正式な意味での届けじゃないんだ。わかるか?」
「……わかるわ。言葉の意味はね。公安やシティ・ポリスを絡めたくないんでしょう? でも理由がわからない。……ひょっとして、ヘレンをグレミオに会わせないことと関係がある?」
「……ある。が、説明はできない。知っているが、知っていてはいけないことなんだ。わかるか?」
公安との会話は、回りくどくていけなかった。主に支配企業の出資により運営されるシティ・ポリスに較べ、公共治安維持管理機構は国連と国際企業連絡会議管轄下の、国家・企業均等出資により運営される、一種の国際警察機構だ。特定のシティに縛られない捜査権限を持つかわり、企業犯罪を除いた一般犯罪以外には、国連か国際企業連絡会議の提訴を受けなければ手は出せない。権限が、広く、浅いのだった。
「……で、あんたが追ってるのはなんなの? それなら知っていて、知っていていいことでしょ」
「言えるわけないだろう」
さもありなん、だった。しかし、憎まれ口の一つも叩かなきゃ、やってられない状況だった。
公安がこうして乗り出している以上、一般犯罪者が絡んでいるのは間違いない。知っていても知っていてはいけないことは、企業犯罪だ。入学のために移動するグレミオが鍵になっていれば、引き出される答えは一つしかない。
企業絡みで、グレミオが狙われている。
ヘレンを近づけないのは、巻き込ませないための配慮、というところだろう。
「……わかったって顔だな」
「バカじゃないのよ、あたしだって。簡単なパズルじゃない。プエルトリカンだって間違えないクロスワードだわ」
ディヴィッドは、苦笑しながら聞いていた。
「そういきり立つな。わかったのなら、どうするか決めろ。ヘレンを託して引き上げるか、カタがつくまで一緒に保護されるか」
「……どっちもイヤね。プロの選べる選択肢じゃないわ」
「相変わらず、だな。だが今度さらえば、手配は免れないぞ」
公安の理屈だった。わかっていない。あたしは一度だってヘレンをさらっていない。ただ依頼を遂行しようとしているだけなのだ。
「とりあえず、保護されてあげるわ。チャンスが来るまで、ね」
言い置いて、あたしも寝室に入った。振り返りはしなかったが、ため息をつくデイヴィッドの顔が見えたような気がした。ふん。知りすぎてる同士っていうのも、やりにくくていけない。
ヘレンは、テレビをつけたまま眠っていた。単に疲れていただけかもしれないが、あたしを信頼しているからだと、思いたい気がした。
#8
微かだが、ドアの音がした。
ヘレンに添い寝していた身を起こし、寝室を出ると、デイヴィッドがいなかった。時計を見れば日付が変わり、〇二二三と表示されていた。寝室へとって返し、揺り起こすのももどかしくヘレンを抱き上げた。
「……ふぁ。なぁに、お姉ちゃん……」
「グレミオに会いに行くよ」
ドアはロックされていた。厄介なことにコード・ロックで、内側からでも開けられなかった。こんな時、至極役に立つのがニードルガンだった。壁の一部を道連れに、ロックは粉砕された。音もなく、静かに。だが見えず、聞こえないところで警報は鳴り響いているに違いなかった。状況はほとんど不明だが、時間勝負だった。
エレベータ・ホールが近いのはありがたかった。降下の呼び出しボタンを押し、ヘレンに声をかけた。
「目、覚めた?」
「うん!」
元気よく返事をしたヘレンを降ろし、手を繋いだ。あたしの左手を、ヘレンがぎゅっと握る。エレベータは四機あったが、全てが動いていた。いくら二十四時間体制のホテルとはいえ、時間を考えると妙なことだった。
やってきそうなのは、一番右のエレベータだった。これだけが上階にいて、あとの三機はボタンを押したとき、上昇中だった。その三機が三機とも、同じフロアで停まったようだった。二十一階だった。おそらく一つには、デイヴィッドが乗っていたのだろう。そのフロアには、グレミオがいる。
いやな予感がした。あたしは繋いだ手を離し、ヘレンの顔を抱えるように抱き寄せた。
「なぁに?」
ヘレンの声と重なって、エレベータのドアが開いた。正解だった。大正解だった。
パールホワイトの内壁が、朱に染まっていた。床には頭部を失ったかつて人間だったものが転がっていた。そして、おそらくそれを成したものも、そこにいた。
前腕部に赤い染みをつけた、オート・マタだった。ヒューマノイド・タイプではなかった。移動ローラーの付いた底辺一メートルほどの四角錐台に、少しスマートになった角柱のボディが乗っていた。頭部は横回転する角を落とした円柱で、黒く無機質なカメラアイが一つ、付いていた。アームは上下に二本あり、本体の切り込みに沿って旋回可能のようだ。上部は血痕をこびり着かせた汎用アームで、下部は円筒形をしていた。清掃用のようで、四角錐台の下面と円筒アームは吸引機になっているようだった。
頭部が旋回し、カメラがあたしを捉えた。モーター音を発し、オート・マタは人とは違うタイミングで滑り出した。アームが振り上げられていた。
えもいわれぬ恐怖を覚えながら、ニードルガンのトリガーを絞った。あまり正確な狙いではなかったが、頭部を中心として半径六十センチほどを、無数の針が貫通し、粉砕した。
あたしは屈み込み、ヘレンをまた抱き上げた。顔を肩口に押しつけるようにして抱きしめ、言葉をかける。
「目を閉じていて。あたしがいいって言うまで、顔を動かしちゃ駄目よ」
「う、うん」
「いい子ね」
信じられないし、考えられないことだった。あらゆる普及型オート・マタには、ハードウェア・レベルで三原則ベースのセーフティ・プログラムが刷り込まれているはずだった。反すればオーヴァーロードで行動不能になる、致命的なものが。もちろん小さな事故はあるかもしれない。マシンにトラブルは付き物だ。それで人が傷つけられた例は、いくらもあった。しかし、アームを振り上げ頭を狙うのは明らかに清掃用の行動ではないし、カメラで標的を確認する行動までとっている。あれはまるで、軍用品のような行動だった。
エレベータに乗り込み、地階のボタンを押した。ドアが閉じると、たちこめる血臭がより濃密に感じられ、ここで起きていた出来事にあらためて慄然とする。
二十一階が気になった。なにが起きているのだろう。だが、あたしが駆けつけても、あまり意味はないように思われた。ニードルガンのカートリッジのスペアはもうなく、あと一射か二射しかできないはずだった。
エレベータが地階に着いた。B1は職員フロアで一般立ち入りは禁止されていて、ここは地階といってもB2の駐車場だった。地上階のフロアに較べると薄暗い明かりしかついていないが、困るほどではなかった。
「お姉ちゃん、まだぁ?」
ヘレンが不満そうな声を上げる。エレベータのドアが閉じた。見回すと、一つ向こうのエレベータの前に、二つの死体と一体のオート・マタの残骸が転がっていた。死体の一つは、昨夜ロビーで見かけたガードかSPの一人だった。状況から考えれば、おそらくSPだったのだろう。
少し走り、エレベータが見えないところでヘレンを降ろした。子供とはいえ、いつまでも抱えて走れる体力はあたしにはなかった。
「駐車場?」
「そうよ。とりあえず一度、離れないと」
そのとき、どこからか銃声が響いてきた。地下特有の反響で、方向は掴めなかった。銃声は二発、三発と続き、四発目で方向が掴めた。
ヘレンの手を引いて、そちらへ走った。低い駆動音が聞こえてくる。高級エア・リムジン特有のサウンドだった。
リムジンが見えた。今まさに乗り込もうとしている人影と、リムジンの前でオート・マタに組み付いている人影が見えた。
「お兄ちゃん!」
ヘレンが叫んだ。乗り込もうとしているのは少年だった。中から手を引かれながら、少年は振り返った。利発そうな面差しが、緊張で歪んでいた。
振り返ったのは少年だけではなかった。オート・マタと格闘していたSPらしき男もまた、ヘレンの声に反応してしまっていた。
反射的にヘレンを抱え、視界を奪った。少年はリムジンに引き込まれ、ドアが閉じた。オート・マタのアームが振り下ろされ、一撃で男の肩を砕いた。くずおれる男の顔に下部のバキューム・アームが振り上げられ、首が限界を超えて曲がった。
ヘレンがあたしの腕の中でじたばたと暴れ、抗議の呻きをあげた。エア・リムジンが浮上し、勝ち残ったオート・マタを跳ね飛ばしてスタートした。
走り去るリムジンを追うように、少し離れたブロックからホワイトのエア・スポーツが走り出した。
跳ね飛ばされたオート・マタは、まだ動いていた。ぎこちない動きで頭部を回し、カメラが新たな標的を捉えた。あたしだった。
まだ距離がある。ヘレンを抱えて立ち上がると、背後から銃声が聞こえた。オート・マタが数回弾かれた。五発目で頭部を撃ち抜かれ、ようやくオート・マタは沈黙した。
「おまえら、なんでここにいる!?」
デイヴィッドだった。無事なようだった。
「チャンスを待つって言ったでしょ」
「無茶するなよ。お前は昔から……」
「それどころじゃないでしょ、今は。グレミオはリムジンで逃げたわ。それを追ってるような白いエア・スポーツも出ていったわ」
「なに! くそ……」
デイヴィッドはきびすを返して走りだした。追うつもりのようだった。少し離れたところにある、イエローのGMが彼の車らしかった。しかし、見た瞬間にわかるほど傾いていた。タイヤが切られていたのだ。
「なんてことだ……」
「追うんでしょ? ナヴィ取ってこっちに来て。あたしの車を出すわ」
デイヴィッドは一瞬顔をしかめたが、すぐにドアを開け、指示に従った。あたしはさらに遠くのブロックへ走った。そこに目的の車があった。
ボディ・カラーはワインレッド。弾丸を思わせる流麗なスタイリングは、クラシックカーでありながら今なお先鋭的なデザインだった。ノーズには黒い雄牛のエンブレム。
ランボルギーニ・ディアブロ。
バー〈B&W〉のマスターに頼み、探して貰っていた車だった。マスターもまた、あたしと同じ車道楽だったのだ。確かめに行ったとき、納車途中でたまたまこのシティにあったのが幸いだった。ヒューに予定変更の伝達を頼み、グレミオの宿泊ホテルに移送して貰っておいたのだった。
逃走用と考えていたのだが、役に立つのなら一緒だった。足はルーフに負けないスペックがある。現代の車にだって、けして劣ってはいないのだ。
ガルウィングのドアを押し上げ、コクピットに身を沈めた。フィーリングは以前乗っていたカウンタックに近い。ディアブロはその後継機なのだから当たり前だった。イグニッションを捻ると、一発でエンジンに火が入った。十二気筒が凶暴な唸りをあげた。
ディヴィッドが来た。
「ヘレンを抱えて」
デイヴィッドは言われるとおり狭いナヴィに身を沈め、ヘレンを膝に乗せた。ヘレンが少し不安そうだったので、あたしは右手を伸ばし、ヘレンの頬を撫でた。
「大丈夫。怖い人じゃないわ」
「そう。お兄さんは怖くないよ」
デイヴィッドは懸命に笑顔を作った。
「……ヤなおじさんだけどね。少しだけ我慢してて」
暖気もそこそこに、ディアブロをスタートさせた。大馬力がいきなり極太タイヤを空転させ、隣の車に擦る羽目になったが、今は構っていられなかった。それよりも、想像以上のパワーに少しだけ緊張が走った。カウンタックともルーフとも違っていた。
「トレーサーはあるんでしょ?」
「ああ、グレミオのリムジンに付いている」
ディアブロは地下駐車場から、深夜と早朝の狭間にある地上に出た。昼間より少ないが、そこそこに交通はあった。
「左だ」
ナヴィゲーターを見ながら、デイヴィッドが指示を出した。
「しばらく進んだ先にシティ間ハイウェイがある。そこを北上しているようだ。百五十マイルは出てるぞ」
これ以上襲われる前に、一気に逃げをうとうというつもりらしかった。
「そう。なら、一気に詰めるわよ。ヘレン、怖かったら目を閉じて、おじさんにしっかり掴まってなさい」
「う、うん」
「おじさんて、なぁ……」
アクセルを一気に踏み込み、リズミカルにシフトをアップする。加速はルーフほどではないが、速度の伸びは素晴らしかった。速度を上げるうち、頑張っていたヘレンもついに目を閉じ、デイヴィッドにしがみついた。メーターは瞬く間に百五十マイルを超えた。デイヴィッドの顔もひきつってきた。しかし、街中ではここらが限界だった。
ひきつるデイヴィッドに、ポーチのインターフェースと右手首を示した。勘よくデイヴィッドは手首のジャックとインターフェースのケーブルを繋ぎ、もう一本引き出したケーブルを自分の左手首のジャックに繋いだ。
インターフェースのレベルをコミュニケーション・レベルに設定した。ダイレクトリンクの応用で、より浅いレベルで会話のように意志をやりとりする機能だった。言語中枢と聴覚器官のみをシンクロさせるため、その他の行動には集中力の問題以外、ほとんど影響は出ない。
「デイヴィッド、ここまで来て秘密もなにもないわよね。説明して貰えるでしょ」
「……そうだな。こうなったらおまえは『協力者』だもんな。ある程度は知る権利があるだろう。なにが聞きたい?」
「グレミオが狙われているのは、お家騒動が原因ね?」
「なぜそう思うんだ?」
「情報の漏れ方の問題ね。敵対企業か身内でもなきゃ、そもそもこんなバカなことにはならないでしょ。あたしに手配がかからなかったのも、リークされたら信用に関わる事態だから、と勘ぐれる。もし敵対企業がいるのなら、たとえ別口でも擦り付けてしまう方法はいくらもあるんだから、手配した方が絶対に得だわ」
「なるほど」
「あと、決め手はあんたの車がやられていたことね。それで確信したのよ。あたし達だってあんたたち公安が出張ってるなんて、知らなかったんだもの。内情に詳しくなきゃ、できないでしょ」
「ご明察だね」
「で、どうしてかは知らないけど、グレミオが狙われていることがわかった。なのにグレミオはわざわざ危険な旅に出され、ヘレンはなにも知らされずに遠ざけられた。ヘレンは安全のためなんだろうけど、これじゃグレミオは囮じゃない」
「まあ、結果的にそうなるね」
「結果的? 公安の入れ知恵なんじゃないの?」
「心外だな。俺達が呼ばれたのは事態が進展し始めてからだ。本当だぜ。グレミオの入学は彼の意志によるものだし、旅の行程も決まっていたんだ。そこにつけ込まれたってのが真相さ」
「よっく言うわね。言い逃れにしか聞こえないわ。やりようはいくらもあるでしょうに」
「おこるなよ、それがないんだから。公安の権限の限界はおまえだって知ってるだろう。提訴がなけりゃ、企業内のもめ事には首を突っ込めないんだ。俺達にできることは、暗殺に雇われたヤツをとっ捕まえることだけだ。動機や目的はともかく、殺人そのものなら管轄にできるからな。そこからスタートして証拠を固める。うまくいきゃ企業に提訴を求めるところまで持っていける。まあ、身内の恥は信用に関わるから、そこから先は五分五分なんだが……」
「……まるでギャンブルね。相変わらず、役立たずだわ」
「いやなこというね。おまえも相変わらずだよ」
「……で、あのオート・マタはなんだったの? 昔のSFでもあるまいし、ロボットの反乱なんて洒落にもならないわ」
「今回公安が出張った最大の理由さ。最近売り出し中の暗殺者ゴールド。そいつの手口が暴走オート・マタを装った殺しなんだ」
「なにそれ? 聞いたこと、ないよ」
「国際企業連絡会議の総意で、報道は差し止められてる。普及型オート・マタを人為的に暴走させられるなんて知れたら、業界の受けるダメージは計り知れないからな」
「本当にそんなこと、できるの?」
「おまえだって見たろう。方法はまだわかっていないが、残されたオート・マタのAIには軽い負荷がかかったままだったらしい。ソフト的な処置らしいんだが、どういうプログラムかは不明のままだ。ゴールドはおそらく、一流のプログラマーだろう。天才なのか、あるいは偶然の発見によるのかはわからないがな」
ディアブロは市街地を抜けた。ここからは広く、交通の少ないハイウェイだった。
「おまえの見た白いエア・スポーツってのが、おそらくゴールドだろう。まだどんな手を残してるのかわからんぞ」
「……そうね。大丈夫、必ず追いつくわ。ヘレンはお兄さんに会いたがってるんだもの。必ず無事に、会わせてあげるんだ」
「……おまえ……」
アクセルを踏み込み、インターフェースのスイッチを切った。ジャックを引き抜き、運転に意識を集中させる。
「オーバー二百マイル、行くわよ」
ディアブロが咆吼した。
「デイヴィッド、怖かったら目を閉じて、しっかり掴まっていなさい」
#9
車のメカニズムがどれほど進歩しても、それに対応する人間には限界がある。例えばサーキットのように、環境そのものを走ることに適合させていける場所でなら、その限界もある程度は引き延ばせるかも知れない。だが、そうもいかない一般道路では、やはり限界点はかなり低いポジションにあるのが現実だった。
ディアブロは、かつて限界点を超えていたマシンだった。ルーフも、カウンタックも、時代時代の限界点の少し先にいたマシンだった。その時代から現代まで、一般道路の限界点は少ししか上がっていない。
オーバー二百マイル。
その速度は、短時間ならまだしも、並の人間が一般道路でクルージングできる速度ではないのだ。
このあたしにしてさえ、強化神経の軋みが聞こえるようなプレッシャーに耐えるのは大変だった。車が最新型で出力に余裕があり、様々な走行安定装置に守られていれば、確かに少しは楽だろう。だが、高速による景色の流れは、快適さとは無関係にドライバーに圧力をかけてくる。体感するプレッシャーと視界によるプレッシャーの圧力のずれは、むしろミスを生むきっかけになりやすいことを、あたしは経験上知っていた。レーシングマシンのコクピットが快適にならないのは、軽量化ばかりを考えているせいではないのだ。
ハイウェイに入り、限界走行を続けること約三十分。極度に狭窄した視界の奥に、白いテールをついに捉えた。速度差約五十マイル。追いつくまで一分とかからない。
「見えた!」
ひきつっていたデイヴィッドの顔が、にわかに引き締まった。ヘレンが恐る恐る顔を起こし、目を開いてすぐに伏せた。
見ている間に、張り付くように白いテールが迫ってくる。減速し、左にかわして横を抜けた。開けた視界の端を、光条がかすめた。右後方に位置した白いエア・スポーツは、サイドミラーに収まっていた。ヘッドライトの輝きの上に、黒い円筒が突き出しているのが見えた。
「レーザーだと!?」
デイヴィッドが叫んだ。エア・スポーツはボンネットに設置したレーザーで、前方のリムジンを狙撃していたのだ。
エア・スポーツよりも五十メートルほど先を走るエア・リムジンの損傷は、かなり激しかった。擦過したレーザーに灼かれたのだろう条痕が走り、ウインドウにも数カ所、穴があいていた。しかし直撃はないようで、走行そのものに支障が出ている気配はない。うまく避けているのか、狙撃の腕が悪いのか。次の光条が走ったとき、それが後者であることがわかった。エア・リムジンは回避行動をとらなかったのだ。
「なぜ避けねぇ!?」
ドライバーがすでに撃たれているのだろうか? ならば停車するか、とっくにクラッシュしているだろう。オート・クルーズになっているのだろうか? カー・チェイスの最中に自動運転を使うとは思えない。ならば、なんだ?
一つの考えが浮かんだ。グレミオに付いていたのは全員SPだった。プロドライバーはいなかった。プロでなく、運転のうまいものは、ほぼ例外なくダイレクトリンクのサポートに頼る者達だ。ダイレクトリンクを受け付ける車は、オートクルーズも可能な高性能AIを搭載した車だけである。そしてそのAIは、オート・マタにも使用されるAIだ。
「やられた……車もオート・マタと同じなんだ……」
ゴールドは、グレミオの車にもオート・マタと同じ仕掛けをしたに違いない。リンクしていたAIが暴走したとき、ダイレクトリンク使用者がどうなるかはわからない。が、相当なショックを受けることは想像に難くない。
「ちィっ」
こうなれば、エア・スポーツを止めるより手がない。あたしはディアブロを急減速し、横腹をこずくように接触させた。百五十マイルでの接触は、もはや予測不可能な応力の渦を呼ぶ。時間があれば計算できても、時間がない故に生じるパワー・ベクトルのカオスなのだ。
勘と経験だけが頼りだった。思考はむしろ邪魔だった。回転する景色に意味はなく、安定を求める肉体のみに従った。
三回は廻ったろうか。速度は五十マイルにまで落ちていた。それでも、ディアブロは立ち直った。奇跡的だった。しかしそれは、あたしの実力でもあった。
「どう!?」
「駄目だ」
エア・スポーツは健在だった。距離も離されていた。スピンに強いエア・ヴィークルの評判は本当だった。だが、加速ならグリップ・マシンに分がある。やり方を変えるまでだ。
「デイヴィッド、少し無茶するわよ。ドア少し持ち上げて。手で押さえて、下に足挟んで」
「おいおい、どうする気だ?」
いいながら、デイヴィッドは指示に従った。ヘレンはシート下のフロアにうずくまらせた。景色も見えなくて、かえって丁度よかった。
見る見る速度が上昇し、相対距離はぐんぐん縮まっていく。
「突っ込んで右側もぐらせる! 真下に来たら跳ね上げて」
「なにぃ!?」
「なにじゃないわよ。ついでにどてっ腹のバキュームにこれぶち込んで」
ニードルガンをデイヴィッドに渡した。
「ひ、非合法品じゃねぇか!」
「うるさい。いくわよっ!」
相対速度差は、およそ五十マイル近くまで回復していた。これだけあれば大丈夫だろう。ディアブロの張り付くような低車高は、エア・スポーツの浮上したテールに楽々とノーズを滑り込ませた。迫り上がるディアブロの車体に沿って、エア・スポーツの左が持ち上がっていく。
「いまよ!」
「せいあっ!!」
デイヴィッドが足を跳ね上げ、ガルウイングが持ち上がった。浮いているとはいえエア・スポーツの車重と百八十マイル級の風圧をものともしなかったのは、デイヴィッドの足が生身ではなかったからだった。
エア・スポーツは姿勢制御ジャイロの限界を超えて、真横になった。そのまま回転する前に、デイヴィッドがニードルガンをスプレーした。見えはしなかったが、強力なバキュームに何割かの針は吸い込まれたに違いない。内部のタービンを粉砕するには十分だろう。
エア・スポーツはそのまま回転し、ひっくりかえった。ルーフが路面に触れると、しばらく滑った後、木の葉が舞うような大クラッシュを引き起こし、遙か視界の後方に消えていった。
ディアブロのガルウィングは変形し、ちぎれ飛んでしまった。風が逆巻いてバランスを崩そうと躍起になったが、その程度はあたしの技量でどうとでもなった。風が痛くて冷たいのは辛かったが、もう少しの辛抱だった。
「リムジンの横につけろ」
デイヴィッドに言われるまでもなく、あたしはそうしていた。速度は緩めず追いすがり、相対速度を少しずつ合わせ、風圧を考慮して横につけていく。
「どうやって止めるの?」
「乗り移るしかないだろうな」
「できる?」
「やってみせる」
ほかに方法は思いつかなかった。百五十マイルのサーカスしか、手がなかった。
デイヴィッドが身を乗り出した。ディアブロは接触寸前まで寄っている。
「リアサイドに合わせてくれ」
言われるままに少し位置を下げた。デイヴィッドは右足を一度引き、素早く突き出した。強化ガラスが簡単に割れたが、反動でディアブロもリムジンもかなり揺れた。双方大事には至らなかった。
再度寄せるとき、リムジンの中が少し見えた。人影が見えず、少しばかり不安になった。デイヴィッドが手を伸ばし、リムジンの窓枠を掴んだ。風圧に流されそうになる躯を一気に引っぱり、最後にはディアブロのルーフサイドを蹴って飛び込んだ。おかげでディアブロはまた激しく揺れ、スピンする羽目に陥った。
今回は落ち着くまで数えられないほど廻ってしまい、ついでにエンストまで引き起こしてしまった。リムジンはあっと言う間に見えなくなった。
「どうなったの?」
丸まってずっと震えていたヘレンが、恐る恐る聞いた。
「心配いらないわ。さ、シートに座って。もうとばさなくても平気だから」
ヘレンを抱き起こし、シートに掛けさせた。ドアがなくなったので、きちんとシートベルトをつけさせる。
「お兄ちゃんは……」
「大丈夫よ。ヤなおじちゃんだけど、強いんだから、アレでも」
イグニッションを捻った。二回で火が入り、十二気筒は活力を取り戻した。五十マイル巡航で十分も走った頃、前方に停車しているエア・リムジンを見つけた。きちんと路肩に止められ、路面に座り込んでいる男とその前に立つ少年がいた。
「お兄ちゃんだ!」
ヘレンが叫んだ。今にも飛び出しそうな勢いなので、慌ててディアブロを減速させた。ドアがないというのは、変なところで気を遣う。
五十メートルほど手前で、ディアブロは停まった。わたわたとシートベルトを外し、ヘレンは外に飛び出した。
「お兄ちゃあぁん」
叫びながら、走っていく。グレミオは振り向いて、大きな声で妹の名を呼んだ。
あたしもディアブロを降りた。東の彼方が明るくなり始めている気がしたが、日の出にはまだずいぶん早いはずだった。
グレミオは妹の名を呼んだあと、背中を向けてしまっていた。
「なんできたんだよ!」
背中越しに叫ぶ声が聞こえた。ヘレンの足が止まった。
「だって、会いたかったんだもん」
「来るなって言っただろ。なんで……なんできたんだよ」
「会いたかったの。会いたかったんだもん。お兄ちゃんは……会いたくなかったの?」
二人とも、泣き声になっていた。ヘレンはゆっくり近づいて、兄の背中に抱きついた。
「お兄ちゃんは会いたくなくっても、わたしは会いたかったんだもん」
グレミオは一度手をほどき、くしゃくしゃになった顔を妹に向けた。
「バカだなぁ。本当に……」
そして、今度は自分から妹を抱きしめた。
泣きながら、妹の名を呼びながら。
「あれが見たかったのか?」
いつの間にかデイヴィッドが横に立っていた。
「からだは大丈夫?」
「ああ、どうってことはないさ」
「そう。相変わらず頑丈ね」
デイヴィッドがマルボロを取り出して、口にくわえた。ジッポの音がして、紫煙が立ちのぼった。
「二人とも、連れ子なんだそうだ。名前は言えないが、名の通った名家だよ」
「こんな時にも公安なの?」
デイヴィッドが苦笑する。
「連れ子に地位を脅かされると思った無能な親族の一人が黒幕らしい。陳腐な話だろ?」
「そうね。つまらない話。でもいいの。一つ確認できたから」
「なにを?」
「妹はさ、やっぱりお兄さんに会いたいものなのよ。だって会えたら、あんなに嬉しいんだから」
泣いていても、ヘレンは本当に嬉しそうだった。
「そうか? 俺も一つ確認できたよ。兄はやっぱり、一度決めたら会いたくはないんだ。あんなに泣いちゃったら、やっぱ恥ずかしいんだぜ、男としてはさ」
グレミオも、ヘレンに負けないくらいに泣いていた。
「でも、嬉しそうだよ」
「嬉しくったって、ばつが悪いんだよ」
デイヴィッドは、まだ長いのにマルボロを捨て、踏み消した。
「……兄貴も、そうだったの?」
デイヴィッドは答えず、新しいマルボロの封を切った。一本抜き出して口にくわえ、ジッポで火をつけた。
「車、ぼろぼろになっちまったなぁ」
立ちのぼる紫煙に重なる言葉は、答えではなかった。
あたしの問いは、とぼけられてしまった。
だが別に、答えは必要なかった。
「新車だったんだけどねぇ」
ここまで傷むと、修理と言うよりレストアになるだろう。手痛い出費になりそうだった。
まあ、それはそれで構わない。
「タバコ、貰える?」
一本貰い、火を分けて貰って、煙を深く吸い込んだ。覚醒剤が切れてきたのか、だるさがじわじわと広がってきた。
けれど、不思議と気分は良かった。
吐き出した煙越しに、もう一度二人を見た。
兄と妹は、本当に嬉しそうだった。
前出のエリーと世界観は共通したお話です。
これも同じころの作品。