24.追い着いた過去
ホテルのカフェを飛び出したのはいいものの、今の時間は本来の退社時間より早い事に漸く気付いた舞子はどうしたものかと戸惑った。
まあ、一度心配を掛けている同僚に声を掛けて帰るかと受付に足を向けた。エントランスに足を踏み入れ、二人の美人に声を掛けようとした瞬間に時が止まる。
「────────お久しぶりです、マイコ様」
耳に心地好く響く声。低く、爽やかで。
直ぐには振り向けなかった。
「相変わらずお健やかなご様子で安心致しました。レイクラスはお世話を怠らなかった様ですね」
心臓だけが激しく鼓動を打ち続けている。舞子は一度、目を伏せた。
「案外、早かったね」
口に出来たのは結局それだけだった。
「必ず追い付くと、申し上げた筈です」
舞子は青年のその声を後ろに同僚に二人に近付く。漂うただならぬ雰囲気に彼女達が訝しげに首を傾げた。舞子は態と軽やかな微笑みを浮かべて近付いた。
「仕事中ごめんね、二人共…私、今日付で辞めなきゃならなくなりました」
がたん、と音がして、美麗な同僚達が立ち上がった。
「だめ。あの人はあたしを追って来た人でね、凄腕なの。だから下手な真似しないで」
机の下の非常ブザーに手を伸ばしていたリンナに、舞子はそっと首を振る。
「ごめんね、迷惑掛けて。でも、もうそろそろ人事だって新しい娘を見付けた筈だよね。社長に伝えておいて貰えるかな。バイト代は生きていたら使うアテがあるんで、口座振り込みでよろしく、って。後、急で本当にすみません、って。後、急で本当にすみません、って。それじゃあね、シルビア、リンナ…良くしてくれてありがとう。楽しかった」
舞子は心から二人に感謝して、手を握ると握り返される前に直ぐに放した。
「───────本当に、楽しかった」
「もう、宜しかったのですか?マイコ様」
入り口で控えていた彼は恭しく尋ねてきた。
「うん。待っててくれるとは思わなかったけど、ありがとう。友達にちゃんとお別れが言えたよ」
久しぶりに見るカインは別れたあの時よりも冥い雰囲気を漂わせ、凄絶な色気を放っている。男前度が更に上がった様だ。
「カイン・ヴァンクール、さあ君の憎い憎い主を一体どうしたいのかしら?」
内心の慄きを隠しながら殊更平常を装って尋ねると、あらゆる方向の退路を塞ぎながら彼はこちらへかつての主従時代の様に片手を差し伸べてきた。
「もう疾うの昔にレイクラスとは契られましたでしょう?」
がちん、と思わぬ質問に固まった。
「なのでその様な汚泥の精を受けられたお身体を千々に裂いた後、尊い臓器を生きたまま引き摺り出し、再生ポットにて新しい物に全て取り替えて戴こうかと」
今日の献立を語る気軽さでそう嘯く彼の異常さに改めて戦慄を覚え、罪深さを自覚する。
「あら、さしあたって死ななくていいのかしら?あたしは」
「はい。取り敢えずは私がお傍に侍り、片時もお世話をせねば御命が無い程度に弱って貰わねばなりませんし。ああ、レイクラスへの記憶を消すか、塗り替えるとかも様子を見て選ばねば」
「───────物騒な話ばかりね」
目にちらちらと瞬く狂気を宿しながら、その声音には隠しきれぬ恋慕と陶酔の響きがあった。
やはり、吹っ切れはしなかったか、とズキリ、と心の何処かが鈍く傷んだ。その資格が無いにも拘らず。
「一瞬で死にたかったんだけどなぁ。痛いの、嫌いだし」
「焦られずとも何れ儚くおなりになる折には御供致します。苦痛に歪むご尊顔すら独占したい浅ましい僕でございますが、お望みとあらば無痛の薬をご用意しましょう。その麗しき接吻一つで贖って戴ければ、直ぐに」
「身体から堕とすか?ヤバいなー君に触られるのにはとっくに忌避感が無いしねぇ。むしろ懐かしいぐらいだし。あたしの快感のツボなんて、どうせあのセントラルでのマッサージの時に探られ尽くしているんだよねぇ。そうゆうトコ、君トッポイ顔して抜かり無かったからさあ〜。でもォやっぱ浮気はどうかと思うんだよね、人妻としてはさ」
ポテ、と何かを落とした舞子はカインに取られていた手を逆に引いて身体を入れ替える。濃く立ち昇る白い霧は姿を隠すモノでは無く、即効性の麻痺煙だ。
読み違えて僅かに生まれた隙を外見少女は見逃さない。白い腕輪を発動させ、衝撃波を放って渾身の力で逃げ出した。
「『捕まったなら』って言ったじゃない」
あくまでレイクが来るまでの時間稼ぎ。武官だったカインに運動不足の女人の脚が勝てよう筈も無い。腕輪の発動に最速で最愛の人が駆けて来る。それまで保てば良いのだ。
「相変わらず、お甘い」
脇腹に、熱と激痛と衝撃を感じた。身体が、傾いでゆく。
「私がこの千載一遇の機会を逃すとでも?」
ほんの僅かでも傷付けられれば、脆弱なこの身体は動けず足手纏いの肉塊と化す。分かってはいたが、カインならばいざとなったら少しは躊躇うと踏んでいた舞子は確かに甘かった。
「だ…けど、抗う…よ。ほら」
腕輪から魔法少女の変身シーンの如く、眩く光る白い帯が飛び出して見る間に黒髪の少女を包んでゆく。
「あたしの、もう一つの、いのちが」
駆けてきた。
爆音を立てて、エアバイクがカインに突っ込んで来る。
一瞬で跳んだレイクが華麗に着地し、同時に無事な筈の敵に向かって手持ちの武器で次の一撃を立て続けに放つと、愛しい妻の保護に回ろうとして果たせない。
「来たか、主人の哀れな虜囚めがッ‼︎」
カインがその身を彼女との間に滑り込ませて来たからだ。
何よりも大事な新妻を躊躇い無く傷付けられてレイクは激怒していた。
反して頭は凍える程に冷たく、冴え渡っていく。
「度し難い、馬鹿が」
赤い血を撒き散らし、紙の様に白く変わっていく嘗ての主人に噛み付き己の牙を深々と突き立てて、その皮膚と同じくする柔らかな心を己への『恐怖』で縛ろうとでも思ったのか。
「俺の『妻』がそんなに柔だと思うなよ」
もともとふたつで別々だった存在があたかもひとつの存在のように調和した状態になることを「マリアージュ」と言う。
『結婚』は「エンゲージ」により邂逅した二人が何よりも強く互いを結び付けて、凡ゆる思いと立場を乗り越えたレイクは舞子を生涯の番と定める事を己に赦した。
「ふたつのいのちが、ひとつのいのちになるのです」
融け合う程に近しい想いがありました。お伽噺様に美しくは無いけれど、滑稽な程に二人だけで。それは常に心の隙間を狙い、奪い合うスリリングな日常。
「囚われているのは愛だ。俺も──────お前も」
両袖から二丁の銃を滑らせる様に両手に顕したレイクは確実に急所目掛けて弾を打ち込むが、腐っても元近衛、カインも驚異的な身体能力で紙一重で狙いを外してゆく。
遅れて弾いたエアバイクをエネルギースタンドに吹っ飛ばし、敢えて爆発を引き起こした。
「ぐ─────舞、子ォッ‼︎」
爆風に耐え、妻の横たわる方向に跳んだレイクは一足遅く、冷たく剥がれた石畳の瓦礫のみの光景に臍を噬んだ。
「…絶対に取り戻す。だから少しだけ、大人しくして待っててくれ」
五感を全開に働かせて、レイクはまた俄かに騒がしくなった街中を駆け出した。
3分の一から先がストック切れの分です。少し続きあった筈なのにハードの中だったのかなぁ。…え?ちょっと朝になってるわッ‼︎もう朝ご飯よ〜なんでえ〜。




