第一話
赤黒い霧が立ち込める世界にその村はあった。
人口は千人程度のちいさな村だ。
農耕、牧畜、採取で日々の糧を得ている民が住んでいる。
赤黒い霧は村の民から「死の霧」と呼ばれている。
人間が触れるとたちどころに命を奪われてしまう、文字通り死の霧だ。
死の霧があるため、村の民は外の世界に出ることができない。
俺は村の守り神。
遠い昔からこの村にいて、歳を取ることもなく同じような毎日を何千年と続けている。
見た目は人間の若い男と変わりない普通の神だ。
民の生活を日々見守り、村を襲う災厄を打払い、豊穣を祈願する。
民たちの家より少し豪華な神殿に住んでいる。
ある日、村の長老が神殿にやってきた。
「神様おりますでしょうか」
「あぁ、いるよ」
神殿の観音開きの扉を開けて、長老はゆっくりと入ってきた。
「どうしたんだ? カズキ」
カズキ。長老の名前だ。
かつては村一番の悪ガキだったこの男も、今では立派な長老だ。長く伸ばした白い髭が重ねた年月を主張している。
「神様、北の畑に死の霧が近づいて来とるんです」
「わかった」
俺は傍らに置いてあった雲切りの剣を手にして立ち上がった。
「じゃぁ行ってくるよ。カズキはここで休んでいるといい」
俺は村の北にある農耕地帯まで走った。
文字通り神速、風を追い抜いて走る。
真上の空は青い晴天だ。
しかし、村の周囲は赤黒い死の霧で外界を見渡すことはできない。
畑の手前で立ち止まると、なるほど山の方から死の霧が近づいていた。
山の中に分け入る。
人にとっては死の霧だが、神である俺にとってはただの霧だ。
「せいっ」
雲切りの剣を一振りすると霧は散り、山の上に青空が戻った。
「神様、ありがとうございます」
カズキが深々と頭を下げる。
腰は曲がり、深いシワの刻まれた首筋。
もう先は長くないだろう。
人間の寿命は短い。
「カズキ……生贄の件だが」
頭を下げたままでもカズキの表情が一瞬強張るのがわかる。
「そろそろ俺も生命が尽きそうだ」
「では、手配致します」
「すまない」
俺は神だ。
生きるために生贄を必要としている。
翌日、カズキは俺のもとへ輿に乗せて一人の少女を連れてきた。
「ユキでございます……、お納めください」
「面倒をかけるな」
「ユキ、くれぐれも失礼の無いようにな」
「はい、長老様」
ユキはその名の通り、雪のように白い肌をした娘だ。幼い頃から両親に大事に育てられてきたのを俺も見ていた。
今年で十三歳になる。
「ユキ、怖くはないか?」
「少しだけ……怖いです」
「何のためにここに来たのかは分かってるか?」
「……はい、神様に召し上がって頂くために」
「分かっているなら良いんだ。これからよろしく頼む」
「……すぐには召し上がらないのですか?」
「『その時』が来たら頂くよ」
俺は生贄をすぐには食わない。
生贄はその心によって、得られる生命力に大きな差が出る。
憎しみや悲しみ、恐怖はその生命力を大きく損なう。
逆に喜び、安心は生命力を増させる。
中でも、愛は生命の力を最大限まで引き出す。
特に思春期の少女の愛は他に並ぶことのないものだ。
だから、彼女の命を最大限に消化するため、彼女に俺を愛してもらわねばならないのだ。
敬愛ではなく恋愛だ。
俺は人間が好きだ。
できるだけ生贄を増やしたくはない。
だからこそ彼女の命は大事に食らいたいと思っている。
俺とユキの日々が始まる。