終ノ章 死の奔流
今ここに終戦した。母親が自らの娘を殺して終戦した。夢見た戦争の終わりは夢とは最も遠い形で訪れた。戦争に終止符を打った英雄は声を殺して泣いている。自分が殺した娘を抱えて泣いている。
狂って尚も、母を殺せなかった娘と、正気のままに娘を殺せてしまった母親と、果たして本当に狂っているのはどちらなのだろうか。
英雄は、今もなお愛娘の骸を抱えながら泣いている。当たり前であろう、最愛の娘を自らの手で殺してしまったのだ。
終戦の、悲しみを噛み締める暇もなく、私たちは平和など訪れていないことを知ることになった。
先程まで、涙を流していた英雄は今や血を流し。亡骸を抱えていた両手は、今や自らを貫く黒鉄の巨大な刺を抱いている。慟哭を、紡いだ口は延々と血を流し続けている。
それを中心に音を立てて亀裂が地を走る。亀裂は四方八方に広がり、硬い岩盤を引き裂いていく。やがて地がわれ巨大な得体の知れない頭が突き出してくる。
それは、未だ見つけられたことのない未知の金属でできた不気味な百足のようにも見えた。
先ほど焼き固められた戦場のいたるところでそれらは隆起しする。悪魔の軍勢とでも言うのだろうか、その様は異様なほどに禍々しく恐ろしげで世界を落胆させるのには十分だった。
ふと足元に転移の魔法陣が展開する。それも、恐ろしく巨大で驚異的なまでの精密さで制御された識別付きの転移魔法陣。いったい、どんな魔術師ならばこんなことができるのだろうか。それは大陸中に広がる、巨大な識別付きの魔方陣。その起点には、ただひとりだけ未だ絶望の欠片すら抱いていない魔術師がいた。そして、それは私にとってとても近しいもの。世界にとって至宝となり得るもの、極光の魔女ベルタだった。
ほどなくして、転移が始まる。戦場にいる、人間だけが星のように輝き消えていく。視界が光に包まれ、私もまた同じようにどこかへと飛ばされた。
光が収まるとそこはフロスガーのマジシャンズエンド。この場所への転移は非常に危険と言われていたはずである。様々な魔力が凍結し、結晶化し魔力を狂わせる。故に、転移魔術師は誰も転移先にここを選ばない。それにも関わらず全ての人間が生きてこの地に立っている。それはいかなる離れ業をも凌駕する極限の魔術制御、もしくは願いの本質の具現化によって起こされた極めて単純な魔力開放による転移。
「ベルタ……。どうやって?」
私は思わず問を投げた。
「千年生きるといろんな人間に会うものだよ。」
そう言いながら、ベルタは向き直った。その時のベルタの表情はかつてないほど険しく、そして悲しそうな目をしていた。
「リヴィアにユリア。よく聞きなさい。私は今日、最後の魔法を使う。だから約束させて欲しいんだ。私は、あなたたちの今日を必ず守り通してみせるよ。この命に代えても。」
近くに転移していたユリアもベルタをまっすぐ見つめ、涙をこらえながらただ黙って保無しを聞いている。
「泣くことないじゃない。うるさいばあちゃんが死ぬだけだよ。リヴィア、あんたのこと大好きだよ。血なんて繋がってないけど、それでもあんたは私の自慢の娘で最高の娘だった。リヴィアの子供って思うと本当に嬉しかった。二人とも大好きだよ。私は生きてて良かった。」
そう言いながら私とユリアを抱き寄せるベルタも泣いていた。そして震えていた。
私も、ユリアもベルタをそっと抱き返してただ泣くことしかできなかった。
「さて、もうひとりうるさい義息子が来る前に終わらせないと。二人とも、元気でね。」
そう言うとベルタは私たちを離し、地面に儀礼用の剣を突き刺して儀式を始める。願いを歌う聖歌のような詠唱が始まる。
「約束を、交わしたのです。命に代えても守りたい約束を。だから心臓を捧げましょう、贄として捧げましょう。あなたが私の心臓喰らい尽くす間、私に願いを果たさせてください。約束一つ、守らせてください。」
その言葉に呼応するようにベルタの中の魔力が空間へと溢れ出してくる。
真っ白なまるで命の灯火のような暖かい魔力が溢れていく。そして鐘のような音が鳴り響く。何度も何度も、世界に響き渡る。
麓によってきていた数十の鋼の百足が自ら崩れて壊れていく。
ベルタの最後の大魔法は一晩、世界を照らし続けた。まるでもうひとつの太陽であるかのように。
夜が明け、壊れた街も幾多の鋼の百足の残骸もまるで夢だったかのように元通りになった。
ただひとり、眠るように少しづつ奇跡の灯火を弱めて死んでゆくベルタと残された骸の山が夢などではなかったと叫んでいる。
今にも目を開きそうなのに。ただ眠っているかのようなのに、徐々に血色を失っていくベルタが。もう二度と起きては来ないのだとわかっているはずのベルタがもう一度目を覚まし私たちに語りかけてくれるような気がしてならなかった。私も、ユリアもきっとそれを期待していた。それなのに朝焼けに照らされるベルタがうっすらと浮かべている慈母のような、天使のような安らかな微笑みは彼女の自己犠牲を物語っている。
夜が明け、戦争が終わり。世界は平和という熱を得ていくのに、なぜ、私は震えているのだろう。そんな疑問を抱いて空を見てやっと気がついた。私は、また大切なものを失って、また、あの時と同じように泣いているのだ。ユリアのために、わが子のために自らの足で立って歩いていたつもりなのに私はまだ支えられていたのだと気づかされた。
支えを失った心という四肢は私が思うよりもずっと重たくて。誰かが温めていてくれないととても冷たくて。誰かが包んでくれていないととても硬いものだと思わされた。
「お母さん……。」
ユリアが私に語りかける。震えた声で、それでもなおも強く精一杯。
「大丈夫だよ、ユリア。もう戦争は終わったんだ。一緒に帰って、ヴラドも一緒に帰って。それから、一緒に暮らそう。私は料理が得意じゃないからね、一緒に……。」
そこまで言って小さな両腕に抱きしめられるのを感じた。
「無理しないで、お母さん。私も悲しいんだよ、だってあの人は短い間だけどたくさんのものをくれた。私の大切なものを守ってくれた。そんな大切な人だったんだよ。それなのに、お母さんが我慢しちゃったら私も泣けない。辛い時は泣いていいの。そのための家族なんだよ。」
情けなくて、嬉しくて、寂しくて、切なくて、愛おしくて。そんな感情の濁流がまぶたのすぐ裏で決壊した。
思わずユリアを抱きしめて、重たくて、熱くて、冷たくて、固くて、大きな塊を空に向けて叫んだ。悲しいと、寂しいと。
「ごめんね、全部守れなくてごめん。ちっとも強くなくてごめん。こんなお母さんでごめん。」
つい、口から溢れだしたのは懺悔だった。
半時ほどして、ようやく涙は収まった。少しばかり泣きつかれた。
「ベルタ、死んじまったのか。」
ようやく泣き止んだ私の元にヴラドが息を切らしてやってきた。ただひとりで、ベルタの魔法の光を頼りに走ってきたのだ。
そして、一瞬頭を抱えると直ぐに向き直ってベルタの骸を抱き上げた。
「行こう、リヴィア。」
それだけ言って、ゆっくりと歩き出した。何を考えてるのかわからなかった、それなのに一つだけはっきりと分かった。泣いている、声を押し殺して涙を噛み砕いてヴラドまでもがベルタのために泣いているのがわかった。
それでも、少しだけ時間が欲しくてどうしても言わずにいられなかった。
「それをどうするつもりだ?」
わかっているのだ、この男は優しい。それなのに、わざと疑うようなことを言った。
「はぁ……。」
ヴラドは大きなため息をつくとベルタを抱え直し強引に私の手を引いた。
「待て、ヴラド!」
思わず叫んだ。
返答なんて帰ってこない。わかっている、全部わかっているのだ。それでも、今はまって欲しい。お前がその骸をどうするつもりか、お前がベルタをどう思っていたか。全てわかっている、それなのに私の心はどうしようもない駄々をこねることをやめてはくれない。
思わず、振りほどこうとしてそれでも振りほどけなかった。集まりつつある群衆から逃げて、どんどん深く深く森の奥へと入っていく。遠くで英雄不在の勝鬨が聞こえる、何も知らない人たちの歓喜の声が聞こえる。
次の瞬間、その声は怨嗟へと変わった。口々に、誰も彼もが正体不明の敵への憎悪とそれを呼び覚ました犯人を捜している。ただ、怖かった。ヴラドが別れを惜しむ暇を与えてくれなかったわけがわかってしまった。
「わかってたのか?」
思わずヴラドに訪ねた。
「わかってたよ。」
短くそう答え口を噤む。
「お前は、私のために。」
頼むからそうでないと言って欲しかった。もしも、言ってくれたのなら私はまだ私を許せたのかもしれない。自らを、無知な世間知らずと一蹴した後に許すこともできたのかもしれない。しかし、帰ってきたこたえは。
「人間っていうのは、ああいう生き物だ。」
あぁ、何から何までこの男は優しすぎるのだ。そんな男に、ひどいことをさせてしまったのだ。そう思うと自分が許せなくて悔しくて。その感情が、私の心臓を激しく打ち鳴らした。自分が憎くてたまらなくて消えてしまいたかった。
「離せヴラド、もう……自分で歩ける。」
それでも、この男は優しすぎるのだ。
「お前は優しすぎたんだ。英雄になるにも、ましてや魔王や神になるには優しすぎて殺しきれない。」
血がまるで沸騰しているのかのようだ。血がまるで全て凍てついてしまったかのようだ。
氷のように冷たい血液が、沸き立つかのように全身をかき乱していく。
「離せ!!!!」
思わず叫んだ。胸が苦しくて、痛くて、張り裂けそうで。叫んで何かを吐き出さねば心臓が壊れてしまいそうで。胸が破裂してしまいそうで。
「離さない。俺はお前が好きなんだ。」
そう言いながらゆっくりと無理矢理に前に歩みを進める。
「お前は馬鹿だ……。」
頼むから肯定しないでほしい。
「そうだ。」
知っている、わかっている。ヴラドが何を思っているのか。
「きっとあいつらは私を殺しに来るぞ。そうなればお前だって。」
頼むから私を手放して棄ててくれ。
「決めたんだよ。お前が死ぬまでお前を守るってな。」
自責と呵責で心がどうにかなってしまいそうだ。
「お前は、本当に大馬鹿だ・・・・・・。」
その次の瞬間、聞こえてきた。思ったとおりの言葉が。
「すべてあいつのせいだ!あいつが戦争を終わらせようとしたばかりに、こうなったのだ。」
もはや人間が恐ろしかった。自分が恐ろしかった。ベルタも、私が殺したのだ。そう、思えてしまった。
私がヴラドと共に逃げ出してから今日で三日が経つ。情けのないことだ、私はヴラドに甘えるばかりで何をすることも放棄していた。だけど、それも今日で終わりだ。胸騒ぎがするのだ、いつもは鹿や猪を担いで私に笑顔を見せてくれるはずのヴラドがもう半日も帰っていない。
私は、恐ろしいのだ。あの男を失うことが恐ろしくてたまらないのだ。
この三日、町外れのヴラドの小屋で隠れ、生き延びてきたがきっともう、限界なのかもしれない。もしかしたらヴラドがほかの人間に見つかってしまったのかも知れない。しかし、それならばあの男なら心配する必要もない。きっともっと恐ろしいことだろう。私は、今日まで充分生きた。もう、何も思い残すことはない。心残りがあるとすれば二つ。ユリアのことと、ヴラドを父にしてやることが未だできていないことだろう。連れて帰ってきたら式を挙げよう。神父役はわが娘にでもたのもうか。み届け人はヴラドの作ってくれた母の墓標でいいだろう。幸せだ、私は幸せだったのだ。戦火の中でも、家族がいた、愛したいと思った男がいた、愛しい娘がいた。全部が全部私の宝だ。
『愛しい娘、我が最愛のユリア。もし、私が帰ってきたなら私たちのために式を挙げてくれ。私たちが誓い合う、それを見届けてくれるだけでいいのだ。もし帰ってこなかったのなら、悲しまないでくれ。恨んでくれて構わない。愛娘ひとり置いて帰らぬ母なのだ。母親失格だ。本当に済まない。』
ただ二行の書置きを残して私はドアを開け放った。
今まで、どんな死線も超えてきたはずなのに足がすくむ。それでも、今は一歩を踏み出そう。そう思い駆け出した。
駆けていく間に、景色がどんどん変わっていた。進むにつれて、血の匂いが濃くなっていき人の死骸がいくつも転がるようになっていく。胸騒ぎがしてつい叫んだ。
「ヴラドどこだ!?」
返事は帰ってこなかった。
進めば進むほど胸の警鐘を煽る光景がその強烈さを増していく。転がる骸に、三日前に見た怪物たちの残骸までも転がっている。
「ブラド!私はここだ!お前を迎えに来た!だから……返事をしてくれ。」
進んでいく道半ば刃のない剣を握り震える兵士を見た。
「男を見なかったか?大きな剣を振り回す男だ。」
兵士は震える手で道を指し示した。
「ありがとう、何もしてやれないが感謝する。」
一瞬の時間も惜しかった。だから、兵士がなにか言おうともそれを遮って二束三文にすらならない感謝をおいて前に走る。
「ブラド!どこにいるんだ!?答えてくれ……答えろ!!??」
叫びながらどのくらい走ったことだろう、既に声も枯れ息も上がってしまっている。
森を抜け、平地を走り。そこで、絶望を目にした。
記憶の始まりと同じような赤。幾千もの骸があちらこちらに散らばり中には原型をとどめていないものもある。そして、その中で蠢く夜の闇にも似た真っ黒な百足のような巨大な影が新たに一つ骸を作ろうとしているさまを。あの巨剣を見紛うはずがない。嘘であってほしい、夢であってほしい。でもその影の形がそれを否定する。
「ブラド!」
思わず叫び駆け出した。
無我夢中で、骨の刃を生み出しヴラドを串刺しにしている足を切り落とした。
「来ちまったのか。リヴィア……。」
腸をえぐられたヴラドが力なく呟く。
「そんなに目ぇ、血走らせて。そんなに息切らせて、そんなに喉からして。」
そう言いながら無理やりフラフラと立ち上がる。
「しゃべるな立つな!必ず今助ける。」
私は前を向いたままただ自らの持てる全てで敵を排除することしかできなかった。
「悪いな、ちょっとばっかり俺は休む……。」
そう言いながらヴラドが目を閉じた気がした。
「寝るな、頼むから逝くな。」
軍属が長いとこういう時に損をする。目線を一瞬でも離せないのだ。
「俺は大丈夫だ……まだ死なねえよ。」
そういうヴラドの声はには力がない。
私は目の前の脅威を必死で消し去ろうとした。何度も何度も刃を突き立てては手折られ、気が付けば集めた魔力の全てを小さな刃に集約し。それに体重を込めた渾身の一撃でようやく鋼の四肢を切り裂ける。
気が付けば体中傷だらけで、片目は躱し損ねた怪物の剛脚によって潰されそれでもなおも全力で、必死で食らいついた。そうしている間にもヴラドの血が滴り落ちその生命が枯れていくのが分かる。
だからこそ、必死で切り裂いて。貫いて何度も何度も渾身の刃を見舞った。
最後には動かなくなった鋼の残骸と、血まみれの愛しい男が転がっていた。
「ヴラド……死なないんじゃなかったのか?」
そう言いながら後悔と自責に押しつぶされてその場に座り込む。
「頼むから目を開けてくれよ。また笑ってくれ。馬鹿みたいに鹿を担いで大笑いを見せてくれ。」
足の健などとうに切られていた。自らの血などこれでもかというほど流し、それを使って無理やり体を動かしていたのだ。もう立てない、もう動けない。それでも、最後の力で這いずってヴラドに熱が残ってることを確かめようとした。
「私は……、お前のことやっと好きになれたのに……。大好きになれたのに……。」
そう言いながら頬に触れ、徐々に暗転していく視界の中ヴラドの熱を探して冷たくて、それでも仄かに暖かくて、柔らかい何かに触れる。
次の瞬間、頭を抑えられ、唇にぬくもりが伝わる。
「やっと、やっとキスしてやった……心残りなのはお前からしてくれなかったことだけか。」
ヴラドの声が聞こえる。あぁ、私はこの男に唇を奪われてしまったのだな。それもヴラドならいいか。血の味だったな、初めて愛した男とのキス。
金属音が聞こえるそれも遠くで、ずっと遠くで。今夜は冷え込むな。凍えてしまいそうだ。




