アポトーシスシンドローム
アポトーシス -apoptosis- とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のこと。-Wikipediaより抜粋-
幸福の価値というのはとてつもなくあいまいなものだ。
幸せの形は凡庸でありながら、不幸の形は多様であるという。
本当の不幸さとは、不幸であることに気付けない事であるという。
幸せってなんなのだろうか。
自分にはよくわからない。
ただ、世間一般的に見て、自分はきっと不幸な人間なのだろう。
けれど、自分は自らのことを不幸だと思ってはいない。それって、本当に不幸じゃないのだろうか?
もしかして、自分が不幸だと気付いていないだけで、それは本当は不幸なんじゃないだろうか。
そうだとすれば、今の自分は本当に不幸な人間だということになる。
けれど、本当に不幸でない、とするのならば、別に自分は不幸でも何でもない人間だ。
だから、幸せというのはとてつもなくあいまいだ。
認識に根差す幸せの形って言うのは、いとも簡単に形を変えてしまうのだから。
そして、自分は今日もまた幸せなのか不幸なのか定かじゃない一日を生きていく。
なんてことはない、昨日と変わらない今日。そして明日は今日と変わらないだろう。
人生ってそういうものだ。そうそう大きな変化なんておとずれやしない。
自分の部屋から出て、足音をほとんど立てる事もなく階下へと降りていく。
リビングのテーブルには、四つの枯れ木の塊みたいなものがある。
全部が全部、綺麗に席に着いて、人の形をしている。大きなものと、次に大きなものが二つ。
その次に小さなものが、一番小さいものの右隣に。
唯一空いた席は、一番小さいものの左隣。
そして、その木の塊みたいなものは、服を着ている。
家族のなれの果てだ。
いったい何がどうなってこうなったのか。それははわからない。
ただ、朝ごはんを食べているときに、唐突にこうなってしまった。そうして自分は天涯孤独になったわけだった。
それで何か困った、というわけではない。
別に何も困りはしなかった。
家族が死んでしまった、というより、こんな風になってしまったのは悲しかった。
けれど、一日泣いたらすっきりした。後はサッパリ諦めがついた。それで終わり。
ここにこうして残しているのは、みんなのことを忘れるのは悲しいから。
それと、片づけるのが面倒だし、触って何か妙な病気にかかるのは御免だからだ。
だからこうして放置したままにしているけれど、別に困らないのでずっとこのままだろう。
何か感慨深いものに浸る事もなく、冷蔵庫というよりは保温庫になっている箱を開いて、そこから缶詰と、ペットボトルを取り出す。
サバ缶とミネラルウォーター。その二つを朝ごはん代わりに食べ終えたあと外に出る。
特に目的はない。しいて言うなら、体力をつけるのが目的だろう。
少しでも体力をつけておかないと、そのうち風邪でも引いて死んでしまうかもしれない。
風邪を引いたら看病してくれる人は誰もいないのだから。
そう思いながら歩き続けていた時、唐突に目の前に何かが落ちてきた。
何かと思えば、手のひらに収まるくらいの、枯れ木の塊のようなもの。
上を見上げてみれば、電線に小鳥が止まっている。
この木の塊は、あそこに泊まっていた小鳥のなれの果て、と思ったほうがいいだろう。
「小鳥でもこうなるんだ」
だからどうだっていうわけでもない。
小鳥もこうなると分かったところで、何かわかるわけじゃないんだから。
基準がわからなければ、対策もできない。わかったところで、対策なんてできるのかどうかもわからない。
だから、気にしたって仕方がない。納得は出来ないけれども、仕方のないことだと無理にでも納得するしかない。
それでも決して納得はしきれないけれど、それならば忘れていくしかない。人間は忘れる事の出来る生物だから。
忘れてしまおう。全てを。家に帰って、忘れて。何もかも。
けれど、そうしていると、不思議に思うことがある。
自分は何のために生きているのだろうか。ただ、生きているだけではないか。
生きるために生きていく。そんな目的と行動が同一の生存。
それは本当に生きていると言えるのだろうか。生物学的には言えるのかもしれない。だが、社会的にはどうなのだろうか。
人間として、それはどうなのだろうか。あるいは、人間なんて結局は動物なのだからそれでもいいのだろうか。
けれど、自分としてはそれは人間らしくないと、そう思う。
だから、疑問に思ってしまう。こうして生きている自分に、価値なんてあるんだろうかと。
生命の価値って何のためにあるのだろうか。
ただ生物として見るのなら、それはただ単に子孫を残すためという動物的本能に根差したものだ。
人間は遺伝子の箱舟として古代から命脈をつなぎ続けてきた。
人はそれを繋ぎ続けるために、遺伝子を受け継ぐために、子孫を作る。
けれど、こうして滅びかかっている世界の中で、人はどうやって生き残ればいいというのだろうか。
分からない。
ただ生きているというだけで、何の価値が人にはあるのか。
ないだろう。そんなものは。生きているだけで、価値なんてないのだから。
生きている最中に、何を残すかで人の生の価値は決まるのだから。
自分は何も残していない。そして、何かを残したところで、それを知る者はいない。
誰も知らないものは存在しないのと同一だ。実在は認識に依存するのだから。ならば、自分の生の価値とはどうあがいたところで生まれない。
「でも、関係ないね」
価値のない生命でも、それはそれでいい。
何かがささやいている。ただ、生きろと。力強く。原始的な本能に根差すささやきを。
そのささやきに従うことに、何か異存なんてない。
自ら死にたいと思えるほど絶望もしていない。だから生き続ける。それだけ。
けれど、ただ生きているだけの状況で、不思議に思ってしまう。
こうして生きていて何の意味があるのかと。その都度、ささやきは聞こえてくる、生きろと。
いったいどこから聞こえているのか、それすらもわからないささやきだけども。
その力強い原始的なささやきは、不思議と自分を導く力があった。
人間が社会性というものを発達させる中で失っていった、本能に根差す感覚。それを呼び起こさせるささやき。
そのささやきに従って、自分は生き続けていくだろう。たとえ、価値のない生命なのだとしても……。
生き続けて、どれくらい経ったのか。時間の感覚は失った。
ただ、朽ち果てていく世界を見ることで、どれくらいの時間が経ったのか、なんとなく察することは出来る。
ふと、自分はどう変わったのだろうと鏡を見ても、そこには何十年と昔から変わらない自分の顔が写っている。
特にかっこいいわけでも、かわいいわけでも、美人なわけでも、ブサイクなわけでもない、平凡な顔。
自分は年を取らなくなっていた。老いる事を忘れてしまったように。
自分の姿かたちは変わらなくなったけれど、それで世界の時が止まるわけじゃない。世界は変わり続けていく。
汚染されていた大地の全てが長い年月をかけて浄化されていく。
空は澄み渡り、海は透き通り。
清浄なる世界が生まれ、そこではまた新たな生物が生まれ、満ち満ちていく。
空を往く、巨大な鳥類のようなもの。
空を埋め尽くすほどのそれ。
人類が滅んだ意味は、そこにあったのだろうか。
何らかの、大きな意志。
それが、何らかの目的をもって、人類を滅ぼしたのだろうか。
ただのセンチメンタルな妄想なのかもしれないが、不思議とそう思った。
そして、滅んだ人類の証は、ここにいる自分が残している。
当時の生き証人という最高の形で。ここに。
人類の文明っていうものは、十年も経つと大半が使用不能になる。
百年も経てばほぼすべてがそうなる。
それを証拠に、自分の周りの全てのものはそういう風に使用不能になっていった。
建築物も崩壊し、人類の生きていた証は次々と消えていく。
缶詰などの食糧に頼ることが出来なくなってからは、自分で農業などをするようになった。
衣服などを自分で作るようになった。家を自分で建てた。
知識は今までにさんざん集めた本から得られた。
本は大事に保管すれば百年だって保つ。自分で写本すれば、知識は何千年も継承できる。
壊れ始めた本は全て自分で写本をするようになった。
そうして生き続けても、生きる価値は見えてこなかった。
ならば、そんなものは最初からなかったのだろうと、何十年か前に考える事はやめていた。
ただ生きようとして、生き続けてきていた。
ただ生き続け。ただ生きる。そうして生き続けて、生きて生きて生きて。
自分の終わりすらも見えないままに時は流れ続け、万物は流転する。
この世界に自分以外の存在が生きていることは既に知っている。
それがなんなのか、自分にはわからないが、確かに何者かが存在していることはわかる。
ただそれだけだ。その誰かと触れ合いたいと思うことはない。
昔から、寂しいという感覚とは無縁だった。だからなのか、自分はその何者かと接触しようというつもりはかけらもなかった。
そうやって生きているうちに、唐突に、崩壊した町の中で人間とばったりと遭遇した。
けれど、それで終わった。
自分も、相手も、人間が生きている! と驚いただけだった。それで終わった。
なんとなくあいまいに、お互いに愛想笑いを浮かべて別れ、それで終わり。
そういえば、数十年、あるいは数百年、それとも数千年か。とかく、とてつもなく久しぶりに会った人間は異性だった。
自分とは違う性別の人間。そういえば、あんな特徴をしていたなと思って、その日は終わった。
そして、それからずっと、その誰かとは会う事もなく生命は続いていった。
それが終わりを告げたのは、ある日大きな怪我を負ったその人と街中で会ったから。
ただ何となく、見捨てるのも忍びなかったから怪我の手当てをして。
そうして看病をしてやってるうちに、不思議と同居することになっていた。
家族というわけでもなくて、ただ共生関係にある状態。
その状態の中で、自分たちは生き続けていく。