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4. もう一度、家族

 私は思った。

 自分はどうかしてしまったのではないだろうか、と。

 あれ程愛した人の死を、涙する事なく、すんなり受け入れている。

 大切な人の死に、涙は付き物だとばかり考えていたのに、一滴も溢れる事は無かった。

 心の中で、(泣け! 泣け!)と叫んでも、出てくるのは焦りから来る汗がほんの少し。

 母の手がそっと背中に添えられたが、私はそのまま抱きすくめられる事を拒み、駆け出した。

 名を呼ばれたが、従わずに走り続けた。今はとにかく、泣けない自分を隠し通す為に、人気のない所、一人になれる場所を探していた。

 行き着いたそこは、化粧室。幸い誰もおらず、私は勢い良く蛇口を開けて顔を洗い始めた。これなら、涙を洗い流そうとしているように見えるかもしれない。そんなあざとい事を思いながら、何度も何度も顔に水を擦りつけるように洗った。

 ふと顔を洗うのをやめて、鏡に写る自分の顔を見る。痛々しい表情を浮かべた、見慣れた顔があった。

 涙にこだわっている自分が、酷く愚かに見えた。

 私は確かに悼んでいた。それを表現する術は一つではないと気が付いた。

 不意に父が、うわ言のように口にしていたという言葉が思い出された。

『すまない、ありがとう、レオ』

 不思議と、すぐに理解が及んだ。それは、普通なら誰もが否定してしまい兼ねない、現象ではあるのだが、その時の私にはそうとしか思えなかった。

 私は何事も無かったように見えるよう、何度も首を横に振って水滴を飛ばすと、踵を返して元来た廊下を歩き出した。すれ違う人が怪訝な顔で振り返っても、凛として歩み続けた。

 母が言葉を無くし、俯きながら名を呼ぶ。

「ルイ……」

「お母さん、もう……もう、大丈夫だから。それより、お父さんに聞きたい事があるの」

「聞きたい事って言ったって……」

「わかってる」

私は病室へ入っていった。

 意識が戻ったと言っても、まだまともな意思疎通が出来ている訳ではなかった。しかし、私には確信にも似た思いがあった。先ほどから、私の頭の中で繰り返されている、父への問い掛け。この問いには、答えてくれると。

 相変わらず白一色の部屋に、潮風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。今朝と違うのは、外が明るく晴れていて、空と海の青が自然に視線を吸い込んでいく事。父の顔も外に向けられていて、じっと動こうとはしなかった。

 私は緊張を悟られないように、小さな深呼吸をして、最後にもう一度息を吸った。

「お父さん」

 彼の耳には届いた筈だが、脳にまで伝わったかどうかはわからない。依然、窓の方に向けられた顔は、こちらに向き直る事はなかった。

 後ろで物音がしたので振り返ると、母が心配そうな表情で立っていた。それでも私の考えは揺らぐ事無く、自信を窺わせながら頷いた。

 そして、もう一度父にしっかりとした声を掛けた。

「お父さん」

 反応は無かったがそのまま続けた。

「レオ……来たんでしょう? お父さんに会いに」

 その瞬間、弛んでいた糸がピンと張るように、その場の空気が止まった。

 幾らか鼓動を数えた後、それまで全く動こうとしなかった父の頭が、ぴくりと震えたように見えた。やがて、それが気の所為でなかった事を証明するように、彼の首が動いてはっきりとした視線をルイに注ぎ出しすと、ゆっくりと首を縦に振った。


「ルイ、どういう事なの?」

 談話室。入院患者の家族等が休む事のできるスペースとして、解放されている部屋。他の見舞客らも一組いて、売店で買ってきたと思われる昼食を口にしながら談笑している。その為、母の声もいつもより少しボリュームを絞ってある。

 私はどこからどう説明すべきなのか悩みながら、取り敢えず最初に結論を言った。

「レオがお父さんに会いに来て、もう一度生きるチャンスをくれたの……多分」

 現実からかけ離れた話である為、私はその考えを何度か否定しようとした。けれども、数日前に私自身もレオに会っていた。もっとも、それがただの夢や幻覚でない証拠は無いのだが。

「ルイ……」

まだ小さい子供に言い聞かせるような、少々間延びした母の話口。それを予想していた私は、彼女の言葉を遮った。

「信じたいの! お母さんは科学者だから、そんな非日常的な現象を簡単に受け入れられないかもしれない。だけど!」

そんな言葉を、母は私の口元に人差し指で触れ、言葉を遮り返した。

「ルイ、あなたはわかってないわ。私は科学者である以前に、レイチの妻でルイの母親。信じる信じないは別として、とにかく嬉しいわ。だからこそ、会った事はないけれど、私のもう一人の子供、レオにお礼を言いたい。私たち三人をもう一度家族にしてくれたんだから」

「お母さん」

 私は隣の母に体を預けるようにして寄り添った。彼女の長いブロンドの髪からは、南国の芳醇な果実を思わせる、甘酸っぱい香りがした。

 母娘の関係には大きなブランクがあったが、それを埋め合わせてくれたのは、レオ。家族の絆を結び直し、より強固にしたのも彼だ。

 その犠牲は計り知れないが、彼は私が前を向いて歩ける為の道と光をくれた。だから、私はそれに背く事なく、今はがむしゃらな一歩を踏み出そうと思った。

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