2. 離婚の真実
「お母さんとお父さんはなんで別れたの? やっぱり、二人とも、お互いが嫌いになったの?」
その日の夜は急患が運ばれてくる事も無く、特別静かだった。風も微かで波も穏やか。
そんな待合室。私は唐突とも言えるようなタイミングで母に尋ねた。
面食らった形になった母は、一瞬表情を硬直させたが、すぐに落ち着いた様子で応えた。
「うーん。少なくとも、そういう好き嫌いが原因じゃないわ」
少し溜め息混じりではあったが、そこに決意のようなものが感じられたのは、いつかこうやって娘である私に、話すつもりがあったからなのかもしれない。
彼女の中で、それは今ではなく、もっと遠い未来になる筈だったに違いない。父がこんな事にならなければ。
「私は勝手にお母さんがお父さんを嫌いになったんだって、小さい頃はそう思ってたけど、そうじゃないんだ?」
「結局、原因は私にあったの。あの人は、それを察したから、離婚届を私にくれた」
「原因?」
「今思うと、ホントに些細な事。うううん、バカバカしい事よ」
そう言って母は、金色の細い髪に右の手を触れて、顔を曇らせた。
私は黙って、彼女が自分から語り出すのを待った。ミリーの右手は、所在なさげに髪を梳く動作に発展していった。
「私とレイチが出会ったのは、想像できると思うけど、やっぱり研究室だったわ。ソロンのトーマック研究室。同じ研究室の同期なんだけど、研究内容が全然違ってた。私たちの恩師、アビディ・トーマック先生は、独立した研究室を持つ人として、凄く優秀だった。もちろん一研究者としても優秀だったけど、いろいろな機関なんかから研究予算を集めてくる事に懸けても、っていう事よ。予算を出してもらうには、当然興味深い研究内容でなくちゃいけないんだけれど、先生が本当にやりたい研究は、そんなに予算が取れる内容じゃなかったの。そんな時、どうすればいいと思う?」
「あっ、それでもう一つプロジェクトを立ち上げたんだ! それも、みんなが興味を持ってくれるような」
「ご明察」
母は久々に微笑んだ。
「私とレイチが全く違う研究をしていたのはそういう事なの。レイチは先生の本命である研究、私は予算集めの研究。レイチの研究内容は、あなたも知ってるわね」
私は無言で頷いた。
「レイチは先生の代わりに様々なサンプル、つまり音楽ソフトを求めて、世界各地を巡っていた。一方で私の研究は、海底から引き上げられた遺産の分析だったのよ。分析にはいろんな機械が必要で、その多くがソロンにしかないものだったから、私はあの場所から離れる事ができなかった」
「それで離れ離れに?」
「それがそうじゃないのよ。私は鞍替えしてレイチに着いていく事にした。私との結婚を機に、レイチは独立して夫婦二人で船出したわ。そうして、あなたが生まれ、約二年。レイチが突然、離婚届をくれた」
「何それー、意味わかんないよ!」
「でしょう? だけど、私は少しホッとしていたのかもしれない。私は少し違和感を覚えながら生活していたような気がするの。ソロンに置いてきたいろんなものに、後ろ髪を引かれているような。それを、レイチは見透かしていたのよね、きっと」
「それで二人は離婚したんだ」
「うううん、離婚はしてないわ」
「え?」
「確かに私はソロンで昔やっていた研究を再開させたいと思ったけど、別に離婚したいとまでは思ってなかったのよ。それをあんな紙切れ持ってくるものだから、もう頭に来ちゃって、そのまま何も言わずに受け取ってやった後、捨てたわ」
「はぁ? じゃあ、まだ夫婦関係って続いてたの!」
「法的にはそういう事ね。なんか悔しかったから、今までレイチには言ってなかったけど」
私は体中の力がドッと抜けていくような感覚を味わった後、こみ上げてきた可笑しさを抑えるのに苦労させられた。
ちょうどそんな時だった。だだ広いそのフロアに、足音が響き出したのは。
「しっ!」
私は人差し指を口の前に立てて、母の言葉を遮った。私達は他愛もない思い出話をしている途中で、今は彼女の番だったのだ。
「どうしたの?」
母は声を少しも絞る事なく、緊張感の欠片もない声で言った。
「足音が聞こえる」
二人は耳をそばだてて、足音に集中した。
「ホントだ。こっちに近づいてくるわ」
「急いでるみたい」
やがて反響する音から、足音の聞こえてくる方向がわかってきた。その方向はちょうど受付カウンターがある為、向こう側を見る事ができないようになっていた。私達は音の主が見えてくるのを待った。
「何かしら」
「わからない」
カウンターの脇に置かれた観葉植物の葉の向こうに、突如、体格のいい男性の姿が走って現れた。彼は看護師の制服を纏っている。立ち止まったところを見ると、私達二人に用があるらしい。走ってきた為、息を整える為に何度か深呼吸をして、少し大きめの声で言った。
「キサラギさん! ここにおられましたか」
「あー、レイチの部屋の前で何度かお会いしましたね」
「はい、礼一さんの担当看護師をさせていただいております、ヒューズ・フォロノスです」
「お父さ……礼一に何かあったんですか?」
「はい。たった今、礼一さん、意識が戻りました」




