5. アゴニー1
辺りを照らしていた照明が落ち、非常灯の赤い明かりだけが照らす停泊場は、それだけで不気味な雰囲気を醸し出していた。
俺は一人、操舵室でルイが戻るのを今か今かと待ち続けていた。
他のメンバーの内、ゲイリーは一人で行方を眩ましていたし、ハリーは同じ船の中にいるとはいえ、どこかの部屋で膝を抱えて震えいているだろう。
外は大時化。
殴りつけるような強い雨と風が、閉ざされた開閉扉を通しても伝わってくるほどだった。
そんな時、無線が入った。スピーカーから、それが気象速報である事を知らせるアナウンスがあった。
アナウンスは、嵐の発生を告げたまま、繰り返しに入った。
「最悪だな。今日のところはここで嵐が治まるのを待つしかねーな」
そんな事を呟いていると、急に周囲がほの白くなった。停泊場のセンサーが誰かに反応して、明かりが灯ったらしい。
ゲイリーだろうか。操舵室の広いフロントガラス越しに辺りを見回すと、細い影がゆっくりと動いている。
「ルイだ!」
俺は操舵室を飛び出し、甲板から岸へ飛び移って、あいつのもとへ駆け参じた。
ところが、どこか様子がおかしい。目が虚ろで、表情が薄く、反応が薄い。足下もふらふらしていておぼつかない。
「どうしたんだ、ルイ?」
「ぁぁぅ」
絞り出した声は頼りなく震えていた。
親父さんの様子が、あんまり良くないのだろうか。
とにかくルイを休ませようと、彼女を伴って俺は船内へと向かった。
当然、俺はこの船の構造に詳しくはない為、リビングのソファにルイを座らせ、彼女の部屋を探す事にした。
部屋数はそれほど多くなく、ものの数分でその部屋を探し出す事ができた。リビングの一番左端から通じる廊下、その手前の扉の先がそうだ。
部屋に入って明かりを点すと、「ヒッ」と小さくハリーの声がした。その方向に目を向けると、予想通りに部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
そんな霊感臆病者の事は取り敢えず後回しにして、部屋の様子に目を遣る。整えられた本棚と、音楽ソフトの収納ラックが並び、部屋の主が小さい頃から大切に使われてきたと思われる木製の机と椅子。机には所々に落書きと傷、シールの剥がした痕がある。それから、青白い清潔そうなシーツが敷かれたシングルベッド。
この船には二人しか住んでいないと言っていた。多分、ここがルイの部屋だろうと確信したのは、部屋の様子からのみではなく、漂っていた匂いも大きな要因となっていた。どんな匂いかと説明する術を俺は持っていなかったが、胸を締め付けるような、そんな香りと表現する事はできた。
「ヘッドぉ。い、いつまでこの病院にいるんですかぁ?」
イラッとした俺は、それが怒りまで発展しないように、自制しながら言った。
「おい、ハリー。この部屋から出ろよ」
「病院、出るんですか?」
「いや。今、外は大時化で、外に出るのは危険だ」
「ええっ? だったら嫌です。この部屋、一番落ち着くんですよ。なんかいい匂いがして、ほんの少しですけど、安心できるっていうか何ていうか」
俺はそれを聞いて、怒りゲージが振り切れるイメージを、脳内で投影した。そして、その男にこそ、ギリアム手製の弁当は相応しいのだと理解するに至ると、心は穏やかに鎮まっていくのだった。
俺が、ハリーをその部屋から連れ出そうと彼の手首を掴んだ時、突然エンジンの掛かる音と振動が伝わってきた。
最初に考えた事は、ゲイリーが戻ってきてエンジンを掛けたという、よく考えるとありそうにない事象だった。
ゲイリーは見た目や性格に似合わず、割と聡明で冷静だ。外の天候を知っていれば、決してそのような事をする男ではない。
では、エンジンを掛ける人物として残る可能性は、ルイだけだ。
けれども、まだ引っかかる事はあった。さっきまでのあいつに、これほど大それた事ができるだろうか。
俺はハリーの手首を壁に投げ付けるような勢いで振り解くと、操舵室に向かった。
船はゆっくりと動き始めていた。廊下の窓から見ると、どういうわけか、停泊場の扉が開放されていた。
もの凄い勢いで風と波が押し寄せ、停泊場全体が揺れだした。キサラギ艇も例外ではない。その勢いに立っている事ができず、俺はその場に叩き付けられた。
船は、荒波を乗り越えるように少しずつ外界へと進み出した。
船はロープで繋がれていた筈だ。それが今は解けているらしい。
とにかく操舵室に行かなければ。常人なら立ち上がるのも困難な状態ではあったが、一応海賊のヘッドをやっている俺にとって、このような事態は未経験でなかった。
ほんの僅かに揺れが弱まった時を見計らって、俺は駆け出した。
リビングには誰の姿も無い。
「ルイ、何考えてるんだ!」
操舵室では、操舵輪の足下にルイが倒れていた。
船体は既に外の海へと進み出ていた。
舞い上がる海水の飛沫に、操舵室の窓ガラスは視界不良で遠くを見通す事ができない。
立ち上がる波のうねりに上下左右翻弄されると、当に大海を漂う小舟に乗っているという事を改めて思い出す。
俺はルイのもとに這い寄り、様子を窺った。
「ルイ! 大丈夫か!」
「ぅぅぅ」
頼りないが、返事があった。
俺はとにかく船を戻そうと、立ち上がり、思い切り舵を握りしめた。それから、計器類の位置を確認した。
最初の絶望は、後方カメラからの映像だった。
「どうなってんだ、これは!」
これまたどういう訳か、既にパラケルスス号の停泊場の扉は閉じ始めていた。
「これじゃ、もう間に合わねーじゃねーか!」
スクリューを逆回転させて船内に戻るという計画は、まさしく海の藻屑と消えてしまった。
操舵室には警報と気象速報が交互に鳴り響いている。俺は小さく溜息を吐いた。
「どうすればいいんだ」
その呟きを聞く者はいない。
もう一度溜息を吐こうと空気を吸い込んだところに、ハリーが文字通り飛び込んできた。
俺は吸い込んだ空気をそのまま使って、ハリーに尋ねた。
「どうした?」
床に叩き付けられたハリーは、思いの外大きな声に身を縮ませ、ゆっくり起き上がりながら怯えるように答えた。
「あのぉ、ゲイリーさん、いました」
「何だって? どこだ?」
「医療船の警備員室みたいな小屋です」
「何をしているんだ? ゲイリー。……まさか、あいつが? いや、そんな事はあり得ない」
一人でぶつぶつ言っていると、ハリーが足下に這い寄ってきた。
「ぼ、僕はどうしたらいいですか?」
「そうだな。うん、お前は何もしなくていいぞ」
「えええ? そんなぁ、役立たずみたいじゃないですかぁ!」
「違わねーだろ。それより、黙ってろ」
俺はとにかく、嵐の範囲から抜け出す事に決めた。
大波に翻弄されながら、一艘の船が巨大な船影から離れていく。それを小窓から見送りながら、オレは物陰から出た。
オレはキサラギ艇が雨の向こうの闇に飲まれ、見えなくなるのを認めて、呟いた。
「やっと行きやがったな」
苦笑しながらオレは、パラケルルスス号の奥へと入って行った。




