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8. 夏の終わり

 前期休暇も残すところあと少しになって気分が落ち込んでいる私のもとに、一通のメールが届けられた。

 差出人を見ると、先日、植物園で一緒になったジャンナからだとわかった。

 題名は残暑見舞いという事になっていたが、本文の要旨はいわゆる冷やかしに過ぎなかった。

『あれからどうなの、お兄さんとは? 少しは何かあった? あ、血のつながりがないからお兄さんじゃないんだっけ?』云々。

 私は溜め息を吐いて、メーラーを閉じた。そして、遠くを見るような目で、部屋の壁を見つめた。

 あの日のレオは、やはりいつもと違っていたように思われた。植物園に着くまでの高速艇では、いつもと変わらないようだったが、到着してからは普段よりも少し浮かれ気味だったような気さえしていた。それが帰りの高速艇では、まるで人が変わったようになっていた。

 うまくは言えない。ただあの時のレオは、悲しさや不機嫌といった単純明快な感情ではなく、憂鬱や苦悩といった複雑でわかり難いものに苛まれていたように思われた。

 彼の胸中を覗く事はできないが、想像する事はできた。そして、答えのようなものを、自分なりではあるものの見つけ出していた。レオは楽しさの後に残される、仄暗い寂しさに捕われてしまったのだろう、と。

 例えるなら、花火のようなものだ。見ている間は賑やかで美しく、心晴れやかな気分になれる。しかし、終わってしまうと、酷く静かで目の前も暗く、物寂しさに襲われるものだ。多分、そんな事なのだ。

 私がそう考えるのは、最近のレオの様子が普段と全く変わらないからだった。

 この考えが、正しいという根拠など何もない。けれども、私には何かの答えが必要だった。例え、それがひとりよがりな思い込みであっても。

 人の顔に見えなくもない壁の文様に視線が捕まえられて、はっと気が付く。

 ノックが聞こえる。

 何故か、慌てて返事をする。

「はーい、誰?」

「おれだけど、ちょっとペンの芯、貸してくれない?」

 ここでいうペンの芯というのは、MIDに文字や図を書く為のタッチペンの芯だ。すり切れて短くなる事がある為、時々芯の交換が必要だ。

 新しい物で大体7〜8センチメートルくらいだ。

「うん、いいよ」

そう答えて、私はふと思い出した。そう言えば、この前貸してからそのままのような……。

 ノブが回り、戸が押し開けられた。

 一方で、私は二番目の引き出しから芯を手に取ると、立ち上がった。

「ありがと」

物を渡すと、礼が返ってきた。

「ペンの芯、失くしたの?」

「うううん、使い切っちゃって……」

「へぇ……って、使い切った?」

 思えば私は、ペンの芯を最後まで使い切った事など一度も無い。いつも、途中で失くしたり、書き難くなったりして、替える事になる。

 今、目の前にいる兄は、それを使い切ってしまったと、すまなそうに頭を掻いている。

 私は訝しくレオを見ていて、レオは私を気まずそうに見ている。そこに言葉は無かった。

 十秒ほどして、レオは相変わらず頭を掻きながら言葉を発した。

「じゃあ、行くね」

「あ、うん」

 扉は閉ざされた。

 私はドアの前で立ち尽くしていた。確かに、レオの様子はいつもと変わらないように見えていた。だが、状況が普通とは懸け離れていた。

「ペンの芯を使い切る? あり得ない……何をそんなに書いたの?」

 私はそのまま部屋を出た。廊下には誰もいない。レオの部屋の戸が開かれて閉ざされる音は、既に聞こえていた。

 私は、レオの部屋とは反対方向にある父の書斎に行った。

 書斎。と言っても、書物よりもレコードやCDなどの音楽関係のソフトの方が多い。

 そこに父はいなかった。早速、出て行こうとして、ふと目と足が止まった。

 この書斎、普段立ち寄る事があるといえば、彼のコレクションを拝借するくらいで、その時はあまり注意して部屋の中を見たりする事は無い。だからだろうか、壁に下手くそな絵が飾ってある事に、今更気が付いたのだ。

 その絵の作者が、私自身である事は言わずもがな。

 自分でも、描いたという記憶が曖昧なその絵をじっと観察した。

 額にこそ入ってはいないが、埃が付着している様子も窺えず、日に焼けてひどく褪色している様子もない。大事にされているのは明らかだった。

 描かれているのは、父親。何故か、黄色い花を両手で持っている。多分、モデルを前にして描いたのではないだろう。花は大変貴重な物で、滅多にお目にかかれないのだから。大方、机に向かって想像で描いたに違いない。

 改めて観察する事で、私の脳が刺激を受けて、様々な記憶の断片が浮かび上がってきた。

 だが、それら記憶の断片は、ともすると消えてしまい、二度と思い出す事ができなくなりそうなほどあえかだった。

 記憶を再編するには、慎重にならくてはならず、時間が必要だった。

 私はそれらの断片を忘れないように、脳のどこか別のところに隔離した。

 気を取り直して、今度はリビングへ向かった。

 リビングでは父が一人、聴き覚えのある音楽を聴きながら、何やら本を呼んでいた。

 本から目を離し、父はこちらに視線を移した。

「どうしたんだい? 血相が変わってるよ」

「レオがおかしい」

「そんな事を言うルイもおかしいけれど。一体どうしたというんだい?」

 私は彼にペンの芯の話をした。すると、彼は読みかけのページに栞を挟み、脇に本を置いて、首を傾げた。

「確かに、少々妙だとは思うけどね、そんな顔する程の事でもないのじゃないかい?」

「え? 私、どんな顔してた?」

「あ、ごめん。論点がずれてしまったね」

「いや、論点とかいうより、私の顔はどんな……」

私の顔の話題は終わったと、父は本題に戻って話をし始めた。

「僕が妙だと言ったのはね、レオは元々机に向かって何かをするのが得意な方じゃないと思うからなんだ。ただそれだけさ。それが、ペンの芯を使い切るようになったというのは、机に向かうようになったからだろう。確かに、変なのかもしれない。だけど、悪い事ではないと思うよ」

 そうだ。私は、悪い事だと思ってたのかもしれない。

父に言われた事で、心が落ち着いてきた。

 さっきの聴き覚えのある音楽は何食わぬ顔で、次の曲にステージを明け渡していた。

 輪郭のはっきりした、大理石のような白い入道雲は、遠くへ去っていこうとしている。夏はもうすぐ終わろうとしていた。

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