1. 出会いの雨
その日は、何かいつもと違う事が起こるような気がしていた。
風が強くて、灰色の雲がもの凄い早さで、船の舳先にいる自分の正面から真後ろへと運ばれていく。遠くの方で雲の隙間から光が射し、レースのカーテンを引いたように見える。流れ続ける雲の所為で、カーテンはひらひらと風に舞うように絶えず形を変えていく。
そんな光景を目にしたから。
私はさっきからずっと、胸のドキドキを抑える事ができないでいた。
やがて、風は雨の匂いを運んできた。
そろそろ中に入ろう。私は濡れる事を嫌い、船内へと入っていった。
その数秒後、広い海洋を漂うその船は、雨の音に包まれていた。
私は自分の部屋に入り、ベッドに腰掛けた。スプリングが跳ね返すと共に、少しだけ寝台が軋んで音を立てた。
「サー」と、レコードから流れるノイズのような雨音は、私の鼓動を穏やかにした。
私は長い間瞳を閉じて、これ以上ないくらい心を落ち着けていく。
このまま心臓が止まってしまうのではないかと思う程、体中の熱を鎮めていく。
最終的に、氷のように冷たい自分が出来上がった時、不意にドアを叩く音がして、深みから引き摺り出された。
「はい」
この船には父親しかいない。その筈だ。だから、ノックの主はすぐにわかった。
ドアが開く。私の父親、礼一が姿を現した。
「なあに、パパ」
「ルイ。紹介したい人がいるんだ。ちょっと来てくれるかい?」
私はその時、違和感を覚えた。いつもであれば、「今、時間大丈夫かい?」や、「ちょっと話があるんだ」とか、本題がワンテンポ遅れて出てくる事が多いのに、今回は突然過ぎた。それは、僅か七歳だった幼い私でさえ気が付く事ができる程、明らかな相違だった。
しかし、私は何も気付かなかったように、「うん」と、首を縦に振った。
父は小さく頷いて、部屋を出ていった。
私はその後を、小走りで追っていく。
そして、さっき通ってきたリビングルームのドアの所に立った。
部屋は明かり一つ点けられておらず、昼間だというのに薄暗かった。黒雲に覆われた空では、窓からの光もあまり当てにはなりそうになかった。
私は恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
優しい父親の隣には、紺色のレインコートを纏った、子供が一人。
サイズが少し大き過ぎたのか、フードに覆われた顔はよく見えないが、何となく性別は男であるとわかった。
私がポタポタと絨毯に滴り落ちる水滴ばかりに目を奪われていると、レインコートの少年は、私の父の顔を見上げ、今度はこちらに顔を向けた。
父が少年のフードを外してやる。
やっと、顔が見えた。
その時、私は彼がなぜ笑顔を向けていたのか理解ができなかった。
それは単純に、保有していた情報量の違いの為だったのかもしれない。
私は、彼が自分にとってどのような位置関係にいるのか、わからないで当惑していたが、彼は既にその答えを知っていたのだろう。だから、笑っていたのだ。
父は、彼の名前だけを口にし、それ以外は語らなかった。そして、事もあろうに、少年の背中をポンと押した。
駆け出す少年。目指すは、疑問符に覆い尽くされた頭で直立していた私のもと。
彼は私の手を握ると、力一杯引っ張って、外へと続く扉へと連れて行った。
「雨、降ってるって! 濡れちゃう!」
「大丈夫。濡れるだけだよ!」
話が噛み合っていないような、いるような。
結局、雨の降る船外へと連れ出され、降る雨の恰好の餌食となった。
「ずるい、そっちはレインコート来てるからいいけど、こっちは着てないんだよ! それにこの服、お気に入りなんだから……」
拗ねるように俯くと、彼は下からその顔を覗き込んで、「ごめんね」と、そう言った。
私はニッと口元を横に広げて、少年のレインコートを脱がし始めた。
「うわ、ちょっと、何するんだよ!」
少年は必死に抵抗する。
「私だけずぶ濡れなんて、不公平でしょ? だーかーらー、そっちも脱がしてやるんだ」
私は可笑しさを堪えきれず、大声で笑いながら思い切り彼のレインコートを引っ張った。
その時、雨で濡れた床で足下を滑らせた少年は、前のめりに倒れそうになった。それでも、何かにしがみ付こうとして、掴んだのは私の服。
二人は転んで、私が上、少年が下という具合に折り重なるようにして、床に倒れた。
少年がすぐさま不平を言う。
「おもーい」
「失礼な!」
やがて、二人で笑った。
私達はその後、全身ずぶ濡れになったのをいい事に、あまり広くはない船の甲板を、それぞれの体力の続く限り走り、遊び合った。
船の舳先で力尽きた両名は、座って遠くを見詰めていた。
雨はとっくにやんでいて、光のカーテンは今まさに二人を照らしていた。
少年の濡れたブロンドの髪は、光を受けてキラキラと輝いていて、青い瞳は海か空の色を映し出しているようだった。
彼は私の方に向いて、言った。
「ルイ。僕たち、今日から兄妹になるんだよ」
私はその時、ようやく彼の立つ位置を知った。けれども、もうその頃には、そんな事どうでもいいような気がしていた。
ただ、家族が増えるという事が、それが彼である事が、無性に嬉しくて仕方なかった。
さっき氷のように冷たく鎮めていた心臓が、また早鐘を打つように鳴りだした。
「ルイ、聞こえてるの?」
返答がない事にしびれを切らした少年は、確かめるように言った。
私は破顔して、答えた。
「聞こえてるよ、レオ!」




