10. 元妻との時間
僕はドミトリーに連れられ、外に出た。東の空から夜が顔を覗かせていた。
今居る船から別のさらに大きな船へ、アルミ製らしき銀色の橋が渡されていた。どうやら、その船が今日の式典の会場らしい。
式典が始まるにはまだ暇があり、会場の戸も閉ざされたままだった。
我々は待合室の隅の方に立って、言葉を交わし始めた。
「どうだった? アビディ先生と久しぶりに会って」
ドミトリーは、いつだってそうだが、口元に笑いを含めながら言った。
その癖を本人が自覚しているかどうかは問題ではなく、初対面の人はそれを快く思わない事もある。かく言う僕も、始めて彼と出会った時には、少し馬鹿にされているように感じたものだったが、今はそれすらも懐かしく思えた。
「話をしながら、昔の事を思い出していたよ」
「例えば?」
「そうだな……」
いろいろな思い出が去来していた。けれど、そのどれもが心の中に留まってはおらず、白い靄の中にあるようだった。
「思い出せない」
「何だよ、それは」
ドミトリーは、無邪気とさえ言えそうな屈託のない笑顔を見せた。そうやって実際に笑うと、彼の印象はガラリと変わる。
待合室には徐々に人が集まり始めていた。そのほとんどに見覚えがなく、さらに、比較的若い人が多いと気が付いた。彼らの多くがこの研究海域の研究者及び、職員の筈だ。
世代交代が随分行われている事を、僕は独りでに実感した。
ふと、強く見知った顔が部屋に入ってきた。ミリーだった。
彼女は後ろで束ねただけの長いブロンドの髪を無邪気に揺らし、歩いていた。僕の存在にはまだ気付いていないようだった。
恩師の退官式だというのにも関わらず、顔には余り化粧気がなく、服装も質素だった。だが、それがまた彼女らしさを思わせた。
声を掛けてみようかと一瞬迷ったが、彼女はすぐに別の研究員らしき女性と話を始めたので、結局やめてしまった。
式が始まれば、いくらでもチャンスはあるのだ。
日が暮れ、西の空まで夜の外套が覆い被さった頃、式典は始められた。
広いホール内にはいくつかのテーブルが一定の間隔で置かれ、その上には飲食物が乗っていた。壁際には椅子がずらりと並べられ、立つのに疲れた場合の考慮がなされている。
一般的な立食パーティ。式はその初めに短く行われるだけだった。
今日の主役であるアビディ先生の簡単な経歴と業績の紹介が行われると、本人の短めの挨拶。そして、乾杯の音頭がソロン研究海域の所長によって執られると、式典はいよいよ佳境に入った。
こういう研究者同士の集まりでは、様々な人脈が形成される。もちろん、普段から顔を合わせている人同士もいるだろうが、僕のように外部から招待されてきた者たちもいる。そういう人々は、自らの研究内容を語り、また相手の研究内容を聞き、あわよくば共同研究を持ち掛けたりするのだ。
例えば、高価で自分の所にない分析機材を持っている研究室に、分析を依頼する約束を取り付けるなど、よくある事だ。
もっと極端な場合などは、自分の研究に利用できそうな人を探していたりする、厚かましい者もいると聞く。
立食パーティに移行してから早くも、場所ごとに話をするコロニーが形成された。
私は、ドミトリー、アビディ先生らのコロニーに所属し、酒を飲みながら彼らの話を黙って聞いていた。
彼らの話は、研究とは無縁だった。例えば世界情勢やあまり代わり映えのしない気候の話だ。それは、これから研究の場から退くアビディ先生に気を使っての事だったのかもしれなかった。
と、その時、僕等のコロニーにミリーがやって来た。彼女は人々の中からアビディ先生を探し出し、恭しく一礼すると、お決まりの挨拶をした。
「先生、今まで長い間お疲れ様でした」
「ミリー。ありがとう」
「先生には大変お世話になりました。こちらこそ、ありがとうございました」
「ミリー、これからも頑張ってくれよ」
会話が途切れると、ミリーの視線はコロニー内の他の面々へと注がれ、当然のようにかつての夫である僕のもとで止まった。
僕は一瞬目を他へと泳がせ、もう一度ミリーを見た。そして、グラスの中の酒を、一気に飲み干した。喉から鳩尾の辺りに熱いものが流れていく。
二人の間だけに流れる沈黙を先に崩したのは、ミリーだった。
「来るとは聞いていたんだけど。挨拶が遅れてごめんなさいね」
長い年月会っていなかったが、彼女の声は出会った頃と変わらない、瑞々しさを帯びていた。
「それに関してはお互い様だよ。君が遅れたと感じるのなら、僕だって同じさ」
「そういう理屈っぽいところ、変わんないわね」
彼女はそう言い、クスリと小さく微笑った。その仕草は、何十年も前に僕自身を魅了したものの一つだった。
「あっちで少し話をしましょうか」
僕等はコロニーを離れ、壁際の空いた席に並んで腰掛けた。
「レイチ」
ミリーは普通より多目の息を吐き出しながら、そう呼んだ。
レイチ。ミリーは僕の事を常にそう呼んだ。いろいろな記憶が次々に蘇ってくるようだった。
「どう? ルイは元気なの?」
「ああ。もちろん元気にしてるよ。今は、ハイスクールの卒業研究を僕の船でやっているんだ」
「そうなの……」
少しの間、またしても沈黙が降りた。
周囲の話し声がやけに大きく聞こえてくる。そのまま、その雑音の中に意識を潜り込ませる事ができたなら、少しは楽になれたのかもしれなかった。けれど、そうする訳にもいかない僕は、二人分の飲み物を持ってきて、この場の雰囲気をゼロに戻す以外に思い付かなかった。
「何か、飲み物を持って来よう。何がいい?」
「何でも」
僕は立ち上がった。少し眩暈がした。既に酔っているのかもしれない。
僕は近くのテーブルに向かい、新しいグラスにそれぞれ別々の飲み物を注いだ。ワイン党のミリーの為に赤ワイン、そして少し酔っているかもしれない自分の為に何だかよくわからない少し黄色味がかった透明なジュース。白ワインに見えない事もない。
ミリーのもとに戻り、彼女に赤い液体の入ったグラスを渡した。
「何でもいいって言ったけど、ワイン。私を酔わせようっていうの?」
「はぁ?」
「なんてね。冗談よ」
彼女はにっこりと笑んだ。
「私がワイン党なの、レイチは知ってるもんね。多分、こういうのが来るだろうって思ってた」
彼女はそこでグラスに口を付けた。
「レイチは白ワイン? 昔は私と同じで赤いのしか飲まなかったのに」
「まあね」
何となく、これがジュースだとは言い辛かった。
僕もそこでジュースを啜った。リンゴ味のジュースだと、その時初めて知る事ができた。
「研究はどう?」
僕から話題を振るのは、今回まだ初めての事だった。
「いつも通り。時々現場に出て、後はそのデータの整理ばかりよ」
彼女はそこでワインを口にして、深い溜め息を吐いた。
「溜め息なんて吐いて、どうしたんだい。研究がつまらなくなったとか?」
「うううん、そんな事無い。研究は楽しいわ」
そう。昔から、ミリーは自分の研究を楽しみであるように語っていた。だが、その研究が二人の別れをもたらしたという事も、変え用の無い事実だった。
僕がそうであるように、ミリーも別れた当時の事を思い出しているのだろうか。グラスの縁を口元に当てながら、遠い目をしていた。
記憶の奔流から先に開放された僕は、時間を埋めるように、グラスのジュースを一気に飲み干した。そして、そのままの勢いで、ミリーの方へ向き直った。
「ミリー。今度君のラボを見せてくれよ。その時はルイも連れてくるからさ」
「ええっ? あ、まあ、別にいいんだけど。ちょっと散らかってるから……」
「じゃあ、適当に片付けてからでいいよ。この海域には少し長くいようと考えているんだ」
「それなら今度ね」
そこへ、遠くからミリーを呼ぶ声があった。
二人同時にそちらを見ると、女性の研究者たちばかりが集まっているコロニーだった。その中には二、三見知った顔もあったが、大抵は知らない、或いは覚えていない顔ぶれだった。
「それじゃ、向こうで呼んでるから。またね」
言って、ミリーは立ち去った。
その後姿を見送っていると、やがて人々の中に紛れて見えなくなってしまった。
残され、僕はしばらく視界を茫洋とを広げ、会場を眺めていた。しかしながら、そういった視覚情報のほとんどは、彼の脳内に刻まれる事なく、通り過ぎていった。
ふと我に帰ると、異常に喉の渇きを覚えた。
何か飲もう、アルコールがいい、などとぼんやり考え、僕は立ち上がった。
その時、酷い頭痛が僕を襲った。何か鈍器のようなもので殴られたような、そんな想像を超えた痛みだった。目の前が徐々に暗くなり、頭の芯が締め付けられるように感じたかと思うと、次の瞬間には地に足が付いていないような不安感があり、視界もどこかはっきりしていない。
最後は全身の痺れ。
体から意識だけが剥がれてしまったように、体の自由が利かない。ゆっくりとバランスが崩壊していく。
絨毯が徐々に近寄ってくる。
暗黒という名の幕が下ろされる直前に見たものが、それだった。




