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3. 歌い手

 マイクが加わってからさらに五日が経過した。

 相変わらず、アニーの奇行は続いていた。

 私は本人に直接聞く事もできた筈だが、何故か禁忌のような抑止力が働き、実行出来なかった。

 船内にいる他の二人は、アニーに疑問を抱かないのだろうか。確かに、マイクは普段からアニーと同じ船に乗っているらしいので、彼女の行動に疑問を持たないのも不思議ではない。普段からアニーが、あのような奇妙な行動をとっているのだとすればの話だが。

 けれども、父が彼女の行動に何の疑問も抱いていないらしい事については、どうだろうか。普段から余り物事に頓着しない性格であるが、もう何日も滞在している客人の一人が、歯ブラシを何分もじっと見つめてニヤニヤしたり、風にたなびく洗濯物を抱きしめながら涙をほろりと零したりするのを見て、疑問を感じないという事に、私の頭は納得できない思いで溢れていた。

 突き詰めて考えると、気が狂れてしまいそうになるので、考えないようにするしか無い状態だ。

 とはいえ、常に奇行を呈している訳ではない。彼女は時々近寄りがたい雰囲気で佇んでいたりもしていたが、大抵はぼんやりとした雰囲気を醸し出し、偶然目が合ったりすると、ニコリと微笑い掛けてくれるので、それにつられて私も笑みを返したりするのだった。確かに、疑問は強かったが、彼女に対する私の感触は好いものだった。

 ある、月の明るい夜だった。

 どうにも眠れずに甲板に出ると、壁にもたれ座り込んでタバコを吹かしているアニーに出会った。

「あ」

まさかそんな所に人がいると思っていなかったので、私は咄嗟に声に出してしまった。

「あら、ルイちゃんじゃないの」

まるで近所のおばさんが、偶然角で出会った時のような言葉を掛けるアニー。と言っても、見た目は少女と言ってもいいくらい若々しい。そんな人が、タバコを吸っているのだから、混乱をきたす。

 私の頭の中はまだ真っ白で、何も返答しないでいると、アニーは言葉を繋げた。

「どうしたの? こんな時間に」

「それはアニーもでしょう?」

やっと、平静を取り戻した私が答える。

 アニーはくすくすと笑って、「そうねぇ」と、和やかな口調で言うと、タバコを咥えて紫煙を気持ち良さげに吐き出した。

「私は月に誘われたのよ」

「それじゃ、私とおんなじ」

私達はくすくすと笑いながら、ほとんど同時に夜空を見上げた。星があまり見えないのは、月が明るすぎるからだ。

 私達は共に、言葉を発しなかった。いつもアニーを避けるようにしていた私だが、今だけは近くにいたいと思える、そんな雰囲気に辺りは包まれていた。

 そんな時、不意にアニーが言った。

「ちょっと手を出して」

訝しく思いながらも、何故か逆らえず差し出した右手に、アニーがタバコを持っていない左手を重ねた。手のひら同士が触れ合う形となった。

 何をするかと思うと、何もせず、アニーは手をゆっくりと引っ込めた。

 一体、何だったのだろうと、私が首を傾げて考えていると、アニーは「やっぱりね」と小さく言った。

「何が?」

アニーはそれに答えず、一見何の関係もない質問で返した。

「ルイちゃんは、音楽、好き?」

「うん。好きだけど」

「どうして好きなの?」

私は答えに詰まった。アニーはそんな私の様子を見て、ふふっと軽く微笑った。

「答え難いわよね。意地悪な質問して、ごめんなさいね」

「アニーは答えられるの? もし、同じ質問をされたら」

「一応ね、私なりの答えを持ってる。だけど、納得してくれる人は余りいないでしょうね。それでも聞きたい?」

「うん」

 アニーは、随分短くなったタバコを最後に深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出し、そして携帯灰皿に小さな赤い光を押し付けた。

 静まり返った中に、波の音だけが聞こえてくる。そこに、心地よいと認めざるを得ないアニーの声が加わった。

「人はみんなね、その人だけの音楽を持ってるのよ。うううん、人だけじゃない。その他の生き物だって、動物も植物も。物でさえも、音楽を持ってる事がある。その事が私には、とても愛おしく思えるの。どう? 納得してくれる?」

アニーは小さく、魅力的な笑みを口元に浮かべた。

 同姓ながら、少しどきりとしてしまった。

 構わず、アニーは話を続けた。

「ちょっと変な人じゃないか。そんな風に思ったでしょうね。でも、実際言った通りなのよ。私にはそれが、ちょっとだけ伝わってくる事がある」

 私はアニーの言葉に何と答えていいものかわからず、ただ黙っているだけだった。

 私達の間に少し長めの沈黙が流れ、夜風の気持ち良さに浸る事ができた。

 ふと、アニーは左手を優雅な動きで差し出してきた。

「ちょっと握手」

左手で握手を求められた事は無かった。普通なら違和感を感じただろう。けれども、私は自然にその手に自分の左手を重ねた。

 私の方には、その小さな手の優しく柔らかな手触り意外に伝わってくるものは何も無かったが、アニーは何かを感じ取っているようだった。

 ほんの数秒だったのか、数分だったのか判断できない時間の後、アニーは手を放し、そっと自分の両肩を抱いた。息をゆっくりと吐き出している。

 アニーはポケットからタバコを取り出し、それを吸い始めた。最初の大きな深呼吸の後、アニーは言った。

「前にも一度だけ……そう、最初に紹介されて握手したでしょう、あの時。あの瞬間にも感じたんだけど」

 月明かりに映えるアニーの瞳は、少し潤んでいた。

「悲しい。切ない。だけど、とても愛おしい歌……それがルイちゃん、あなたの歌」

 凍り付いたようなとても冷たい手で、心臓を握り締められたような思いだった。

 紫煙が月光に照らされて巻き上がった。

「少しだけ、歌ってあげようか? あなたにはそれを聴く権利があるわ」

私は怖かった。自分がどうなってしまうのか。だけど、口は「うん」という言葉を、呆気無く発していた。

 タバコは再び携帯灰皿の中に消えた。

 歌が厳かに始まった。

 その瞬間、私は雷に打たれたように動けなくなってしまっていた。

 乾いた薄いグラスを指で軽く弾くような、繊細な歌声。そして、胸を締め付ける哀愁を帯びた旋律。

 アニーが歌い始めてから十秒足らずにして、堰を切ったように私の瞳からは涙が零れ始めていた。

 詞はなく、ルルルという言葉とメロディのみなのに、目の前には情景が広がっていた。

 これが、私の歌。

 次第に私は、感極まって嗚咽までも漏らし始めた。

 どうして、私の事がこんなにわかるの?

 やがて、歌が終わった。

 涙を流す私を見ても、アニーは何も言わなかったが、その代わりにそっと私の肩を抱いてくれた。

 長い時間を掛けて、気持ちを落ち着けると、私の中に思い当たる事があった。それはアニーの声。

「あなた、アナスタシア=アーヴィング?」

アニーは一瞬きょとんとした後、ニッと笑んで頷いた。

「そんなぁ、今まで気が付かなかったなんて……」

私は絶句しながら、激しく自分を責めた。

 私は十一歳の時、初めてアーヴィング・ファミリーのコンサートを観た。その時から私は、その歌い手であるアニーのファンになっていたのだった。

 それなのに、今まで全く気が付いていなかった。

「どうして言ってくれなかったの?」

「私はこの船で歌を探していたんだけど、礼一さんに聞いていたの。あなたが私のファンでいてくれているって。それは嬉しいんだけど、言わない方が色々やり易いって思ったから黙ってたの。ごめんなさいね」

「でも今は?」

「もういいの。歌、見つかったから」

「それって、私の歌?」

「そう。歌ってもいい? もしも、あなたが嫌だって言うのなら、もちろん歌わないけど」

「そんな事ない、歌って欲しい!」

「じゃあ、決まりね」

 また、彼女は笑顔になった。月の光を浴びて眩しい笑顔だった。


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