『 リーチェじゃないのです 』
カエデは、外に逃げ出した。
日は沈んでいき、空がオレンジからブルーに変わっていく。
カエデは、店から逃げ出した。
何人かの村の人たちが驚いて振り返るが、足は止まらない。
カエデは、村から逃げ出した。
小石だらけの道を駆け抜けて、村を囲む柵の門を潜り抜ける。
カエデは、森のなかを逃げていく。
短い草が、足元に絡みつく。低い枝が顔に伸びてきて、腕で庇う。
涙が止まらない。
足が止まらない。
逃げる。ケビンの化け物を見るような視線から。
逃げる。村人たちからの言葉から。
逃げる。認めたくない現実から。
逃げる。居心地が良かった夢から。
ひたすらに奥へ奥へ。
おくへ……
「あうっ!?」
足を落ち葉で滑らせて、カエデは、前に倒れる。
湿った土の上に転がって、古い切り株に頭をぶつけて。そのまま、切り株の上に仰向けに寝そべった。
足は止まった。
「うっ。うう……」
それでも、涙は止まらない。
「な、ん、で、ですか……」
ぼろぼろと言葉と雫がこぼれていく。
「どう、して、です、か……
ここ、ゲーム、なのです? 現実、じゃ、ないの、です?
夢、なの、です? つくり、もの、です?」
ひっくひっくとしゃっくりあげながら、誰も答えてくれない問いを空に向かって叫ぶ。
そうなのかもしれない。
違うのかもしれない。
どちらなのか、わからない。
わからないけれど、その可能性があるだけで怖い。
そして、目の前にその証拠が現れた。
今も目の前に浮かぶウィンドウたち。
感情が思考を押し流していく。
湧き上がってくる、孤独。そこから産まれる、寂しさ、心細さ。
手にしっかり握っていたものが、消えていく。
今まで温かかったものが、冷たくなっていく。
「どう、して、なの、です……。
ここは、いったい、なんなのです……」
この世界は、本当に〈エルダー・テイル〉なのだろうか?
「いったい……なぜ、ボクは、ここに……いるのですか……」
なぜ、カエデ・ルイスは、この世界にいるのか?
「ボクは……だれなのです、か……」
表示されている『リーチェ・フルー』という名前が、彼女の名前だとウィンドウは表示している。
なら、カエデ・ルイスだと思っている自分はなんなのだろうか?
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
日が暮れた森に、少女の慟哭がこだまする。
◆
星が木々の間からわずかに見えている。月はまだ低く、森を照らさない。
どこからか、フクロウの鳴く声が聞こえてくる。
時折、風に木々が揺れて、葉がざわめく。そしてそのたびに新しい匂いが運ばれてきた。
「…………夢、じゃない、のです」
カエデは、切り株の上にそのまま、仰向けに寝て、空を見上げ続けていた。
もう、涙も喉も泣き続けて枯れていた。けれど、時間はそんなにたってないはずだ。
「とても悲しいのに……、ボクは冷たい人間なのかもです……」
その短い時間で、もう激流のような衝動はおさまりつつあることを、カエデは他人のことのように感じていた。
そんな風になってしまう自分は、きっと心は氷のようなのだろうと、自嘲する。
「そんな……人間だから、自分のことしか考えられないのですよね……」
突然逃げ出したカエデを見て、ケビンは驚いていた。きっと何があったのか判っていないだろう。心配しているかもしれない。
「あんなにいい子なのに……。ボクは、本当にダメです……」
先ほどまでとは違う涙が、一筋だけ頬を流れた。涙は枯れたと思っていても、また流れるものだとカエデは始めて知ったのだった。
森の中でカエデは、自分に問いかける。答えを探すために。
「ここは、〈エルダー・テイル〉なのでしょうか?」
最初の問い。
答えは、考える必要もなく、自然と湧き上がる。
「答えは、NOです。ここは、〈エルダー・テイル〉では、ないのです」
この世界は、あまりにも現実でありすぎて、〈エルダー・テイル〉はあまりにも作り物だった。
ゲームであった〈エルダー・テイル〉にいたのは、プレイヤーたちとAIによるNPC、そしてモンスターだけ。
この世界のように生きている人々はいない。
そう、今まで過ごした四日という短い時間の中でも、カエデは確信していた。彼ら(大地人)は、この世界で生きているのだと。
「では、ここは〈エルダーテイル〉とは関係ないのでしょうか?」
次の問い。この答えもカエデにとっては明白だった。認めたくは無かったけれど、認めなければ先に進まない。
「答えは……NO、なのです。ここは〈エルダー・テイル〉と酷似しています。
なにより、ボクが『リーチェ・フルー』としてここに居ること……。これは〈エルダー・テイル〉でないとありえないです」
カエデは、浮かぶウィンドウのひとつに目を走らせる。そこには、自分の名前とメイン職業、HPバーなどが表示されていた。
「……リーチェ・フルー。職業は施療神官。レベルは90」
確かめるように読み上げていく。その声はだんだんと震えていった。
「でも……『リーチェ』そのものでもない、です……」
カエデは、両手を空に伸ばして、ゆっくりと自分の胸の上に置いた。
そこには、控えめに表現しても豊かな胸がある。リーチェとの大きな差のひとつだ。
いつも巨大なモンスターと戦っていた凛々しくも可愛い少女神官は、その背にちょうどいい控えめな胸をしていた。
毎朝、水桶で見ていた自分の目の色も、淡褐色だった。リーチェの瞳は、母親と同じ黒だったのだから。
そのふたつは、カエデ・ルイスの特徴でコンプレックスだった。
だからこそ、カエデは、自分がリーチェになっていることなんて想像すらしなかったのだ。
(それでも……まったく疑ってなかったわけでもなかったのですよね。
だからこそ、リーチェの名前を見たときに理解して納得しちゃったのですし……)
カエデ・ルイスそのものが、この世界に来たわけでもないことも、うすうす気がついていたのだ。
普段より遠くまで走り続けられるスタミナ。重いものを平気で持ち上げる体力。
おそらく視力や聴覚などの感覚も鋭くなっているのだろう。暗い森をここまで、走ってこれたことがその証拠だ。
触れることが出来ないウィンドウのアイコンに、腕をゆっくりと伸ばして、クリックするように指を動かす。
指は映像をすり抜けるが、押されたと判定されたらしい。新しいウィンドウが開いた。
そこには、能力値情報が表示されている。
その数値の大きさが、この世界でどのくらいのものなのか、カエデにはわからない。
けれど、10レベルだったケビンを基準に考えると……。
「90レベルと10レベルの能力差なんて……人間と象よりもひどいじゃないですか……」
〈エルダー・テイル〉でのプレイ経験から、そう判断できる。HPでさえ10倍以上違うだろう。
間違いなく、今の少女は、|この世界の人々(大地人)にとっては超人といえた。
「差異はあるですが、この身体はリーチェなのです……。
ボクは、リーチェにカエデが混ざった存在……。そういうことに、なるのです?」
思い出す。最初に目を覚ましてゾンビに出会ったときのことを。
あのときに着ていた服に見覚えがあったことを。
「……あははは。ボク、リーチェの格好をしていたのですね。
いつも周りからしか見たことが無かったから気がつかなかったのですよ」
そして今まで思い出さなかったのは、村で助けてもらってからはずっと、ジェイムスからもらった麻のシャツを着ていたからだ。
「遭難したときに着ていた服のことなんて、すっかり忘れていたのです」
今、思うとある意味、うっかりというか間抜けな話なのだと思う。
「そういえば、ジェイムスさんも、リーチェの装備の話をしなかったです。
ボクが聞かなかったから、だけなのかもしれないですが……。なにか理由があったのかもです?」
理由はいくつか思い浮かぶが、聞かなければわからない答えだろう。 ただ、あの人のよさそうな老人の事だ。悪いことを考えたわけではないはず。
そう結論づけて、自問自答は、次に進んでいく。
「ここは、〈エルダー・テイル〉ではないです。でも、とても似ている世界なのです。
では、どこまで同じなのでしょうか?」
今までの日々を振り返る。
地名は、同じだった。違うものもあるかもしれないが、わかっている範囲では、一致している。
魔法のエフェクトが同じだった。預かり屋にあった魔法の箱に浮かび上がった文様は、見たことはなかったけれど、〈エルダー・テイル〉で使われている魔法陣のパターンと類似性があった。同じだと考えていいだろう。
ウィンドウの形や、メニューもほとんど同じだ。だが、一部のアイコンが違っていたり、表示される情報が違っていたりはしている。
一番最初に気がついた違いは、時計と、ログアウトのボタンが無いことだった。
「……ちょっとは期待したのですけど
元々ゲームだったのが、無理やりにゲームじゃなくなった、みたいなのです」
ログアウトのボタンがあれば、もしかしたら帰れるかもしれないという期待は、あっけなく消えた。
〈エルダー・テイル〉には、ゲーム世界の時間と現実の時間、ふたつの時計があったのだが、今はそれも表示されていない。
次に、短縮入力と呼ばれるメニューウィンドウにあるアイコンを指先で叩いてみる。
すると、カエデの口がひとりでに動いて、聞き覚えがある言葉、呪文を唱え始めた。右腕も勝手に動いて光の線で描かれた魔法陣が出現する。
「〈バグスライト(蛍光灯)〉」
カエデの口がそう唱え終わると、魔法陣が輝き、魔法が発動した。
魔法陣から現れた光の球体が、カエデの周囲を蛍のように輝きながらふわりふわりと飛び回る。
〈バグスライト(蛍光灯)〉。回復職なら誰でも覚えることができる、明かりの魔法のひとつだ。
「あはは……。本当に……本当に、魔法使えちゃいましたですよ」
小さい子供のころ、ジャパニーズアニメが大好きで、母親に魔法少女になりたいなんて、言ったこともあった。
〈エルダー・テイル〉で遊んでいるときに、この魔法が本当にあれば便利だよね、なんて軽口を言い合ったこともある。
けど、本当に使えても、感動も、嬉しさも湧き上がらない。
ああ、そうなんだと、納得しただけだった。
「他の魔法も……使えるのですね。多分」
ショートカットに並んだ魔法のアイコンたちを見ながら、無感動にカエデは呟く。
特技ウィンドウの中にはさらに多くの魔法の名前が並んでいるはずだ。
今のカエデは、リーチェのように魔法を使えるのだ。モニターの向こうで使っていた魔法を。戦いの中で幾度となく、自分と仲間たちを助けてきた力を。
「戦い……!?」
ゾンビの姿がフラッシュバックする。
あのおぞましい腐った姿と、異臭を。かぶりつこうとにじり寄ってきたあの動きを。
そして出会った、巨大なミノタウロスに感じた恐怖が、鮮明によみがえる。
「は、う、う」
身体が震える。恐怖が、嫌悪感が止まらない。気持ち悪くなり、喉のおくから何かがせりあがってくる。
無理やり飲み込んで、頭を左右に揺らした。その記憶をふるい落とそうとするように。
「はぁ……はぁ……」
カエデは、想像の中で、向き合うことさえ驚く。なんて自分は、臆病なのだろうかと。
画面の向こうでリーチェは、いつだって小さい身体で、モンスターたちに立ち向かっていたのに。
カエデとリーチェとの一番の大きな違いに、初めて気がついた。
「……ボクは、カエデ、なのです。
リーチェじゃないのです……。戦えるわけなんて……無いのです」
目の前に映るクレリックを表すアイコンを見る。
それは冒険者であること、モンスターに挑む者であることを示す記号だったはずなのに。
「ボクは……冒険者にはなれないのです……」
カエデには、なんの意味も見出せないのだった。
◆
見上げる木々の葉がわずかに明るくなってきた。昇ってきた月が、上から照らし出したのだ。
カエデは、ぼんやりとこれからのことを考え始めていた。
カエデには、リーチェの身体能力と魔法がある。だけど、冒険者としてモンスターと戦うことなど出来そうにない。
「はあ……。せめてサブ職業が、生産職だったら物を作って生活っていうことも出来たの、……の、に?」
自分のサブ職業が、特殊すぎて生産などをして暮らしていくことにまったく向いていないことを、嘆こうとして、何かに引っかかった。
「サブ職業が生産職だったのなら、なにか物が作れたのです?
ううん、そうじゃないです。逆です。
生産職のサブ職業じゃないと……生産品、つまりアイテムを作ることは出来ないのです。
それが〈エルダー・テイル〉の規則なのです」
〈エルダー・テイル〉は、メイン職業に戦闘用の要素を集めて、サブ職業には主に演技用の要素を集めるようにデザインされている。
アイテムを組み合わせて、新しいアイテムを作ったり、料理をしたりするのは、全部サブ職業の能力なのだ。
そして〈エルダー・テイル〉というゲームは、能力がない場合は、絶対に成功することはない。
カエデは、今までの仕事を思い出していく。
糸紡ぎは……裁縫職人のスキルだった。
料理は、料理人のカテゴリだ。木を加工するのは、木工職人だっただろうか?
畑を耕して種をまくのは、きっと農夫のスキルだろう。
そしてカエデは、いや、リーチェのサブ職業は、魔杖使いだ。そのどれでもない。
「どれでもない……スキルが無いから、上手くできないのです?
それだけじゃないです。職業そのもの違うから、経験値がたまらない……レベルアップしない、成長しなかった、ということなのですか?」
突拍子も無い発想だ。
だって、ここにカエデという人間はいる。リーチェの体かもしれないが、ここに存在しているのだ。
カエデは、そばに生えていた草をにぎり、そのまま引っ張ってちぎる。
手の中には、ちぎれた草の葉があり、そばには、ちぎれた後の茎が残っていた。
あたりに、青い草の匂いが漂う。
「ちぎったりは、出来るのです……。ちゃんとちぎれた所から、草の汁がたれて、匂いもしている……。
ここは、リアルなのです。リアルってことはちゃんと法則があって……。原因、過程、結果の流れがあって……」
違和感。
ここは、この世界は、単純な作り物じゃない。だから最初ゲームの中なんてありえないと思ったのだ。
けれど、カエデの身に起きた『不自然な失敗という結果』は、ゲームのシステムでなら合理的に説明できる。
説明は出来るが……じゃあ、なぜゲームで出来なかったことができる?
草をちぎったり、顔をあらったり、スプーンで食事したり……
「あうう……。わからないのです。
あの、メガネの人ならわかるのかな……」
カエデは、思考を停止させて、深呼吸をする。
見上げる空は、木々に遮られている。けれど〈バグスライト〉の明かりが、下から照らし、鮮やかな緑の天井になっていた。
「わからないのです。わかんないから、保留です。
とりあえず……サブ職業っぽいことは、上手く行かないことを覚悟した方が良さそうです」
もし、〈大食い闘士〉というサブ職があって、そのサブ職以外は食事をするが出来ない、だったとしたら、食事を取れなかったのだろうか?
「空腹で動けなくなりそうです……」
そう思うと、最低限のことが出来る今は幸運なのかもしれない。
順番にメニューを開いて確認していたカエデは、ひとつのアイコンを見つけた。
「えっと、これは……。フレンドリストです。
そうでした。フレンドリストがあったのですっ」
それは、この状況を変えるかも知れないものだったのだ。思わず喜びの声をあげる。
フレンドリストとは、知り合いの名前を登録しておくことで、遠くにいても会話が出来るようになるシステムだ。登録した相手にしか、かけることが出来ない携帯電話みたいなものだった。
そして、カエデのフレンドリストには大勢の仲間たちの名前が登録してある。
「これで、誰かに相談すれば……ううん、誰かの声を聞けるだけでも……」
偽りかもしれない世界。自分とは違う、ケビンたち。そんな不安や孤独から、抜け出せるかもしれない。
カエデは、勢い良く手を伸ばしてボタンを押す。
今まで試していく中で、アイコンは手を使わなくても意識するだけで、操作できることがわかっていた。
だけど今だけは、手でひとつひとつ確認するようにゆっくりと操作する。
フレンドリストのウィンドウが開いた。
そこには、今までリーチェと一緒に冒険した仲間たちの名前が――
「え?」
――無い。
「えええええ!?」
一名の名前もない。リストは真っ白になっている。いや、一番下にシステムメッセージが書いてあった。
「え、エラーによるデータロスト……」
じんわりと涙がまた滲んだきた。
上れば穴から出れるロープが、切れてしまったような気分が湧き上がる。
「な、なんで、エラーなんておきているのですか!? よりによってこんな時に……。
一体なにが原因で……あ。ああっ!?」
カエデは、思い出して大きく眼を見開く。一滴だけ雫が落ちた。
「あ、あの時……ミノタウロス戦のあとの部屋崩壊……」
浮かれて部屋の中を転がりまわった結果、棚を倒してしまったあの日のことを。
そのときに壊れたパソコン。そして〈エルダー・テイル〉のデータ。
もう遠い昔のことのように感じる。
「もしかして、それが原因で、ボクはこの世界に……?」
いくらエラーが起きたからって、異世界に移動するなんてありえない。
ありえないのだが、すでにカエデが体験していることが、すでにありえないことなのだ。
なら、今までの常識では、否定する理由としては弱くなっていた。
「ほ、ほかは大丈夫なのですか?」
リーチェのデータは一部欠損している。それは間違いない。
あわてて、他のメニューも開いていき一気にチェックしていく。
「あ、ああ……。〈帰還呪文〉の移動先が……空白になってる」
カエデは、見つけた破損箇所に愕然となる。〈コール・オブ・ホーム〉の魔法のアイコンの色が薄くなり使用不能状態になっていた。
〈コール・オブ・ホーム〉は、最後に立ち寄った本拠地と呼ばれる街へ一瞬で転移して帰ることができる魔法である。
一日一回しか使えないが、緊急時やゲームから落ちるときに使う魔法として、冒険者なら誰でも使えるのだ。
他のゲームでなら、最後にセーブした街に戻る魔法と考えて間違いない。
その魔法が使えない、帰還先が無いという事は。
「今のリーチェにはホームタウンが無い……のです?
それじゃ……もし死んだら、蘇生する場所はどうなるのです?」
〈エルダー・テイル〉は、死亡した場合は経験値が減るペナルティを受けた後、ホームタウンにある大聖堂で復活するようになっている。むしろ、大聖堂がある街がホームタウンと呼ばれているのだ。
そのホームタウンが無いなんてことは、本来起こらない。
ゲーム開始したときに、間違いなく各サーバーごとに設定されたホームタウンからスタートするからだ。
「お、落ち着くのです。そもそも、この世界で死んだらどうなるか、わかんないのです。
試すわけにもいかないです。なので、死ぬわけにはいかないのは、どちらにしろ同じです。
それより、問題は……。
誰とも連絡が取れないし、魔法で他の町に移動することも出来ないってことです」
もうひとつの可能性を思いつくがそれは口に出さない。口に出すとそれが本当になりそうだったからだ。
それは、この異世界にいる冒険者がカエデだけという可能性だ。
それらば、フレンドリストに誰もいないだろうし、ひとりしかいないのならホームタウンなんて設備も必要ないだろう。
だが、それはほぼありえない。
なぜなら、「自分だけが特別」というのは現実ではありえないからだ。
自分が出来たことなら、誰かも出来る可能性がある。誰かが出来たことは、自分にも出来る可能性があるものなのだ。
だから世界中で2000万人もいる〈エルダー・テイル〉のプレイヤーの中で、自分だけこの世界にいるというのは考えにくかった。
あるとすれば……こん睡状態になってみている夢の中だった場合だろうか? でも、その可能性はこの世界のリアルさが否定してくれている。
そうやってカエデは、湧き上がってきた不安を論破して打ち消した。
「はあ……」
開いていたメニューウィンドウを閉じて通常状態に戻す。
そして、自分に言い聞かせるように、把握したことを並べていった。
「ひとつ、ここは〈エルダー・テイル〉の影響を受けた異世界なのです。夢の可能性もあるけど、現実と考えて行動したほうが安全そうです」
夢だと思って無茶をすると、もし現実だった場合に痛い目にあうのは目に見えている。もし逆だとしたら、無駄に労力を払っただけですむからだ。
「ふたつ、ボクはリーチェになっているです。ただし、カエデとしてのボクも混じっているようです。冒険者としての能力や特技もあるのです」
それはモンスターとも戦えることを示唆していたが、今のカエデには戦えそうに無い。
「みっつ、ボクはサブ職業の制限を受けていますです。
〈大地人〉であるだろう村長さんたちは、その制限がないか、薄いみたいです。教えたミートパイをちゃんと作れていましたですし。
もしかすると開拓民というメイン職業が、その手の行動を可能にするのかもしれないのです」
これは、カエデがこの村で生活するのが難しいという意味でもあった。仕事が出来なければ生きていけないのだから。
だが同時に、それはサブ職業を変えることが出来れば解決する可能性も高い。
でも、カエデはワンドマスターを辞めると、リーチェが消えてしまうような気がしてしまう。
「四つ、他の冒険者にすぐに連絡をとることが出来ないのです。
帰還呪文は使えないですし、フレンドリストから会話することができないからです」
他の冒険者がいるかどうかは、確認できていない。けど、世の中『自分だけ特別』なんてものは、無いと思っていい。
まして〈エルダー・テイル〉は2000万人もの人が遊んでいたゲームだ。どんな理屈かはわからないが、同じようにこの世界に来てしまった人たちもきっといると、カエデは考えている。
「つまり他の街に……、特にホームタウンである、ロンデニウムにまで行けば、他の冒険者がいるはずです」
ロンデニウムは北欧サーバーのスタート地点であり、冒険者の交流の中心になってた街だ。もし冒険者が集まっているとしたら、ここ以外は無いだろう。
ロンデニウムまでいくのは、それなりに大変だろうけれども。
「ふう……。わかったことは、このくらいでしょうか。
ボクは……これから、どうするべきなのです……」
体を起こして、切り株を椅子にして座りなおす。〈バグスライト〉は、少し明かりが弱くなりつつもふよふよと漂ったままだ。
「冒険者なのだと、ジェイムスさんやケビン君に言うべきなのです…………いうべきなのですが……」
カエデだって騙したくはないし、嘘はつきたくない。
でも、怖い。冒険者とわかったときの、村のみんなの態度の変化が。
優しかった笑顔が、化け物を恐れる顔になるかもしれないことが。
もし、モンスターを退治してくれと頼まれたら……そう思うと身体が震える。
ゲームなら断わっても別に気にしなかった。他の人がやるだろうし、やらないからと言って、誰かが困ったりはしない。
でも、この世界で断ったら……村の誰かが襲われたりして死ぬかもしれないのだ。断われない、けど引き受けても戦えない。
なら……黙っていてもいいんじゃないか? そう考えてしまう。
へんな期待を持たせるよりも、黙っていて今までどおりのままの方がいい気がしてくる。
「ボクは……冒険者でもリーチェでもないのです。
ボクは、カエデなのです。ただの大学生、なのです……」
痛かった。罪悪感がとても痛かった。でも、黙っていなければ、きっともっと痛い目にあうのだ。
風がわずかに吹いてざわざわと森が鳴る。
遠くからフクロウの鳴き声が聞こえてきた。
どこかで草が揺れている。
「戻ろう、です。
あと五日もすれば、商人さんが来ますです……。それでいいのです……。
それで、お別れなのです」
明かりの魔法を消して、村への戻る道を歩き始める。
逃げているなとは思う。
ダメだなとは感じる。
でも、怖い。どうしようもなく怖い。
もしこの世界に、他の冒険者がいるのなら任せてもいいじゃないか、そんなことさえ考えてしまう。
カエデが、頑張らなくてもきっと誰かが戦ってくれるはずだ。それが冒険者なのだから。
◆
カエデは、重い足取りで、真上から月に照らされた森を抜ける。
村の入り口に、松明を持った人影がひとつあった。
「誰かいるみたいです」
びっくりして、少し急ぎ足で近づいていくと、立っていたのがケビンなのだわかった。右手には杖を、左手にはたいまつを持って、彼はじっとカエデを見つめていた。
「遅かったじゃないか。心配したんだぞ、バカカエデ」
「ケビンくん……」
待ってくれていたことに、れはとても暖かい何かが満たされていった。
カエデは駆け寄り、ケビンを全身でぎゅっと抱きしめる。そうせずには、いられなかった。
「お、おい!? どうしたんだよ?
なにか怖い目にあったのか?」
少年は真っ赤になりつつも、少女の好きなようにさせる。
いつも小さい少女だが、いまは泣いている子供のようにしか見えなかったから。
「ごめんなさい、です」
「何を謝っているんだよ?」
「ごめんなさい、なのです。ごめん……」
「お、おいどうしたんだよ?」
戸惑うケビンに、カエデは謝り続けた。
待たせたことや、心配かけたことに対する謝罪でも、もちろんあった。
でも、それ以上に。
カエデには、ケビンの右足が見えたのだ。
膝から先が無い足が。
そして気がついた。気がついてしまった。
リーチェなら治せるのだと。魔法を使えば治せるのだと。
でも、治させない。治さない。魔法を使うことができない。
冒険者であること隠したいから。怖いから。嫌われたくないから。
ひとりになりたくないから。
少女は、少年に謝り続ける。
弱くて、ごめんなさいと。




