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神様転生したはずが赤ん坊の自分に転生していた件  作者: 柿の木


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第7話 先生の目と、見られる側の感覚

 幼稚園生活に少し慣れてきた頃、俺は新しい種類の視線に気づいた。


 子供たちの視線ではない。


 大人の視線だ。


 担任の先生が、時々ほんの少しだけ、俺を長く見るようになっていた。


 もちろん不審者を見るような目ではない。むしろ逆で、好意と関心の混ざった穏やかな視線だ。


 だが、観察はしている。


(まあ、そうなるか)


 俺は幼稚園児としては、多少落ち着きすぎている。


 言葉の理解も早い。周囲の動きにもよく反応する。危ない場面に先に気づくこともある。友達への接し方も、どこか“間”を読んでいる。


 露骨にはしていない。


 それでも、見る人が見れば分かる。


 特に子供を日常的に見ている先生なら尚更だ。


 その日の朝、教室では塗り絵が配られていた。


 季節の花と動物が描かれた、よくある教材だ。


「はみだしてもいいから、すきなようにぬってみようね」


 先生が言う。


 子供たちはそれぞれクレヨンを選ぶ。赤ばかり使う子、何も考えず濃い色を塗りたくる子、細かく丁寧にやろうとして途中で飽きる子。実に性格が出る。


 俺は少しだけ迷った。


(ここも加減だな)


 本気でやれば、光源や色のバランスまで考えて塗れる。前世の美術センスが突出していたわけではないが、少なくとも幼稚園児の平均とは比べものにならない。


 だが、それではまずい。


 なので今回は、丁寧だけど幼い塗り方を目指すことにした。


 花は赤。葉は緑。動物は茶色。色の選択は無難に、ただし線を意識しすぎない。少しだけはみ出し、少しだけ塗りムラを残す。


 自分でやっていて妙な気分になる。


 上手く見せないための技術、というのは妙に神経を使う。


 そんな中、隣で元気な男の子が盛大に空を紫で塗っていた。


「それ、そら?」


「よるのそら!」


「……なるほど」


 発想としては自由でよろしい。


 逆側では静かな女の子が、うさぎを薄い桃色で塗っている。現実にはいない色だが、絵としてはかわいい。


 先生が机の間を回りながら、一人ずつ言葉をかけていく。


 そして俺のところに来て、少しだけ止まった。


「こういちくん、よく見て塗ってるね」


「……うん」


「いそがないの?」


「きれいにしたいから」


 本音の一部だけを出す。


 先生は微笑むが、やはり内側に少しの驚きがある。


 周りの子より、目的意識がはっきりしている。それを感じているのだろう。


 ここで気づく。


 先生というのは、子供を導く立場であると同時に、かなり鋭い観察者でもある。


 子供の些細な違いを見逃さない。見逃せない。


 集団を預かる仕事とはそういうものなのだ。


 つまり俺にとって、先生は最も警戒すべき“善意の観測者”でもある。


 敵ではない。


 だが、気づかれる可能性が一番高い。


 その認識は持っておくべきだった。


 午前の後半、教室内で簡単な並び替えゲームのようなものが始まった。


 背の順ではなく、好きな食べ物ごとに集まるという遊びだ。


「りんごがすきなひとー!」


「はーい!」


「じゃあ、こっちにきてねー」


 単純な遊びだが、子供の自己表現と集団移動を兼ねている。


 そしてこういう時、どうしても混乱は起きる。


 どっちか分からない子。友達に引っ張られて本音と違う方へ行く子。移動の途中で止まる子。


 先生は全体を見ながら進行しているが、当然、完璧ではない。


 そのとき、後ろの方で小さな揉め事が起きた。


「ぼく、そこ!」


「ちがう、わたしがさき!」


 大人から見れば大したことのない場所取りだが、幼児にとっては世界の中心みたいな問題になる。


 言い合いはすぐに強くなる。


 片方は泣きそうだ。片方は引くに引けなくなっている。


(こういうとき、先生はどっちを優先する?)


 俺は少し離れた位置から見ていた。


 先生はすでに別の子を支えながら、こちらにも注意を向けている。だが、まだ一秒二秒かかる。


 そこで俺は、今回は共鳴ではなく、普通の言葉で介入することにした。


「こっち、あいてる」


 二人が一瞬止まる。


 俺が指した場所は、列の端。順番的にも問題がない。


 場所取りの争いは、大抵“自分の場所が奪われる”感覚から起きる。なら、別の着地点を示せばいい。


「……ほんと?」


「うん」


 片方が少し動く。もう片方も、その隙に位置を確保できる。


 結果、衝突は止まった。


 先生がすぐに追いつく。


「ありがとう、こういちくん。助かった」


「……うん」


 子供らしく照れたふりをする。


 だが内心では、かなり大事なことを確認していた。


(やっぱり、言葉だけでもかなり動く)


 幼稚園児の争いは単純だ。だからこそ、着地点が一つ見えるだけで止まりやすい。


 これは将来的にも大きい。


 大人の政治や交渉は複雑だが、本質的には“全員が引けなくなっている状態”をどう解くかに近い。


 子供の喧嘩のほうが、むしろ構造が見やすい。


 昼休み、先生は珍しく俺の隣に座った。


 子供たちの様子を見ながら、何気ない口調で聞いてくる。


「こういちくん、みんなのこと、よく見てるよね」


「そう?」


「うん。どうしてかなーって」


 これは探りだ。


 柔らかいが、確かに探っている。


 ここで変に大人びた答えを返すのは危険だ。


 だが、子供らしすぎても不自然になる。


 俺は少し考えてから答えた。


「……みてると、おもしろいから」


 先生が目を丸くする。


「おもしろい?」


「うん。だれがたのしいか、とか。だれがこまってるか、とか」


 これは本音だ。


 そして、幼い言葉に落としたつもりだった。


 先生は数秒黙ってから、やわらかく笑った。


「そっか。こういちくんは、やさしいんだね」


 その言葉に対して、俺は曖昧に首をかしげるしかなかった。


 やさしい、という評価は便利だ。


 周囲を見ていることの説明になる。


 だが本当にそれだけかと言われると、少し違う。


 俺が人を見るのは、必要だからでもある。情報を取りたいからでもある。未来に備えるためでもある。


 そこに善意はあるが、それだけではない。


 しかし、その複雑さを幼稚園の先生に説明しても仕方がない。


「でも、つかれちゃうときは、ちゃんとおやすみしてね」


 先生はそう言って立ち上がった。


 その言葉に、一瞬だけ心臓が止まりかける。


(……見抜かれた?)


 いや、違う。


 そこまでではない。


 だが先生は、俺が“周囲を見すぎている”ことには気づいているのだろう。


 そして、それが疲れに繋がることも、子供を見ていれば何となく分かるのかもしれない。


 侮れない。


 この人は本当に、子供を見るのがうまい。


 午後の外遊びの時間、俺は意識して少しだけ“普通の子供”に寄せた。


 走る。転びそうになる。笑う。追いかける。


 もちろん全部演技というわけではない。実際、体を動かすのは嫌いではないし、今の身体で感じる風や土の感触は新鮮だ。


 だが、自分の中の“観察者”を少し休ませる意図もあった。


 すると、不思議なことに、逆に周囲の情報がよく入る。


 力を抜いたほうが見えるものもある。


 先生もそれを見て、少し安心したようだった。


(なるほどな)


 見られる側にいると分かる。


 観察する者もまた、安心したいのだ。危険がないか、無理をしていないか、ちゃんと輪に入れているか。それを確認したい。


 つまり、先生もまたこの小さな社会の管理者として、常に責任の中にいる。


 それを理解した瞬間、先生への見方が少し変わった。


 ただの保育者ではない。


 この空間を壊さないために動く、最前線の実務者だ。


 たぶん将来、官僚や政治家や経営者を見る時も、俺は同じような視点を持つのだろう。


 立場によって見える景色がある。


 責任によって歪む判断もある。


 幼稚園の先生を見て学ぶことが、そのまま大人の社会へ繋がる。少し変な話だが、きっとそういうものだ。


 帰り際、先生が母に言っていた。


「こういちくん、周りをよく見てくれるんですよ。助かってます」


 母は嬉しそうで、少し誇らしそうだった。


 その感情を感じながら、俺は小さく息を吐く。


 褒められるのは悪くない。


 だが、印象が固定されるのは気をつける必要がある。


 “しっかり者”は便利だが、便利すぎる子供は時々周囲に無理を期待される。


 それは避けたい。


 幼稚園児としての自由度は、まだ失いたくない。


 夜、布団の中で今日を整理する。


 先生は見ている。


 善意で、鋭く、丁寧に。


 だからこそ危険でもあり、同時に安心でもある。


 俺が多少変わっていても、敵意ではなく理解の方向へ見てくれる。


 そのことは、思っていたよりありがたかった。


(見られる側の感覚、か)


 前世ではほとんど意識しなかった。


 だがこれから先、もっと大きな舞台へ出るなら避けて通れない。


 人は見る。評価する。分類する。


 その視線の中で、何を見せ、何を隠すか。


 幼稚園の先生の穏やかな目は、その練習相手としてはかなり優秀だった。


 そしてたぶん、この“見られる感覚”に早く慣れておくことが、後の人生で大きな意味を持つ。


 そう思いながら、俺は静かに毛布を握る。


 幼稚園編は、ただの子供時代ではない。


 ここで積み上げているのは、きっともっと先で効いてくる。

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