第9話 絵と工作と、漏れ始めるもの
幼稚園には、思っていた以上に“才能が漏れる瞬間”が多い。
勉強ではない。
むしろ勉強がないからこそ、その子が何をどう見て、何をどう作るかが、妙な形で表に出る。
絵、工作、積み木、粘土、歌、会話、遊び方。
そこに隠しきれないものが滲む。
俺にとって、それは少々厄介な事実だった。
この日、教室には段ボールや紙コップ、折り紙、色紙、輪ゴム、ストローといった工作材料が大量に並べられていた。
先生が笑顔で言う。
「きょうは、みんなでじぶんのすきなものをつくってみようね」
自由工作。
これは危険だ。
子供向け活動としては楽しいが、俺みたいな中身を抱えた存在には危険すぎる。
何を作るかの時点で、その人間の頭の中が出る。
しかも俺の《ひらめき》は、こういう“素材を見たとき”に勝手に回りやすい。
紙コップを見れば構造物が思い浮かぶ。ストローを見れば流体やフレームが浮かぶ。輪ゴムを見れば動力の簡易化が見える。
(やめろやめろやめろ)
幼稚園で発明ごっこをするな。
心の中で必死にブレーキを踏む。
周りの子供たちは単純だ。ロボット、家、動物、謎の塔。いい意味で自由。
俺もその流れに乗るべきだ。
そう考えて、最初は“電車”を作ることにした。子供が選びやすいし、形も単純化しやすい。
だが、紙コップを横に使い、ストローを車軸に見立てた瞬間、頭の中に別の像が立ち上がる。
(……軌道車両)
やめろ。
(軽量フレームと低摩擦構造にすれば)
やめろ。
(ミスリルを使えば送電効率と駆動効率を)
やめろ!
危ない危ない危ない。
俺は深呼吸の代わりに、わざと指先を少し雑に動かした。工作の精度を落とす。
それでも、出来上がりは周囲よりやや整ってしまう。
先生が見て、少し感心したように言う。
「こういちくん、タイヤつけたんだねー」
「うん。ころがると、でんしゃっぽい」
「そっかー」
この程度なら、まだいい。
問題は、元気な男の子の方だった。
彼は大量の紙コップを積み上げようとして、途中で全部崩した。
「うわー!」
盛大な音。
彼自身は一瞬固まり、それから少し悔しそうな顔になる。
前にも見たパターンだ。
勢いで始めて、途中で形にならず崩れる。
しかし今日は前より難易度が高い。素材が多いぶん、思い通りにならないストレスも大きい。
「どうやったらいいの……」
半泣きまで行く前の声。
先生は別の場所で対応中。
俺は隣に座って、その崩れた紙コップを見る。
(構造の問題だな)
重心が高すぎる。接地面が小さい。積み方に規則性がなく、すぐ崩れる。
もちろん幼児にそんな説明はできない。
なので、もっと単純に言う。
「した、ひろくしたら?」
「した?」
「うん。いちばんした、おおきく」
彼は数秒考え、それから紙コップを並べ直し始めた。
底面を広くする。
その上に小さくしていく。
ピラミッドのような構造になる。
当然、さっきより安定する。
「……できた!」
顔が明るくなる。
その様子を見て、少し離れたところにいた静かな女の子も、自分の紙の家の壁を少し広げ始めた。こちらも安定感が増す。
(連鎖するな)
一人に示した視点が、他の子にも伝わる。
これは大きい。
技術というのは、結局こういうことなのかもしれない。便利な形が一つ見つかると、人は自然に真似る。
先生が戻ってきて、机の上を見渡し、やはり少し止まった。
「わあ、すごい。みんな工夫してるね」
“工夫してる”という評価に、俺は内心で少し苦笑する。
確かにそうだ。
だが俺がやっているのは、工夫というより“答えを知っている側の調整”に近い。
そこをどれだけ幼児らしく見せるかが難しい。
その後、絵の時間もあった。
テーマは「すきなばしょ」。
これもまた危険だ。
普通の子供なら、公園、家、幼稚園、動物園あたりが無難だろう。
だが俺の中には、一瞬だけ全く別の景色が浮かんだ。
月面。
軌道上から見た地球。
巨大な居住コロニーの内部。
当然だが、描いたら終わる。
(まだだ)
俺は現実へ戻る。
選んだのは家のリビングだった。
母がいて、父がいて、俺がいる。テーブルに唐揚げを描くか一瞬迷ったが、さすがにやめた。前世の死因を幼稚園児の絵に混ぜるな。
ただ、描いているうちに少しだけ気持ちが乗る。
家族の位置。
窓から入る光。
テーブルの上の並び。
見えているものを、そのまま落とし込んでいく。
気づけば、周囲より少しだけ“空間”が出ていた。
先生がまたしても気づく。
「こういちくん、これ、おうち?」
「うん」
「おかあさん、ここ?」
「うん。ごはんつくってる」
「おとうさんもいるね」
「いる」
先生は微笑む。
だが、そこにまたあの感覚がある。
印象更新。
この子は見たものをちゃんと配置して描いている、という認識。
(漏れるなあ)
全部隠すのは無理だ。
だったら、どのくらい漏らすかを管理するしかない。
その日の午後、作品を壁に貼る時間があった。
他の子の絵や工作も並ぶ。
そこで俺は改めて思う。
子供の作品は面白い。
技術的に上手いとか下手とかではなく、何を大事だと思っているかがむき出しだ。
大きな太陽を描く子。
食べ物ばかり描く子。
家族の中で自分だけ極端に大きく描く子。
友達をちゃんと並べる子。
(鑑定より直接的な時もあるな)
作品は、本人の内面の一部だ。
大人の社会でもそうだろう。企画、文章、発言、仕組み。作ったものには思想が出る。
幼稚園児の絵ですらそうなのだから、大人の政策やサービスや企業文化など、もっと強く出るに決まっている。
そう考えると、創作物やプロダクトを“鑑定する”ことは、将来きっと武器になる。
相手が何を大事にしているか。何を見落としているか。どこで嘘をついているか。
それは作品にも出る。
夕方、壁に貼られた絵を見に来た保護者たちの中で、母が俺の絵の前で少し長く立ち止まった。
「これ、うち?」
「うん」
「ちゃんと私もお父さんもいる」
「いるよ」
母は笑った。
だが、目が少し潤む。
そこまで大げさな絵ではない。ただ、家族が家の中にいて、食卓があって、みんなが同じ空間にいるだけだ。
でも、それが嬉しかったらしい。
その感情を感じながら、俺は少しだけ不思議に思う。
前世の俺は、家族というものをここまで日常の中心に置いて考えていたわけではない。
だが今の俺にとって、それはかなり大きい。
守りたい。
安心させたい。
能力を使うかどうかの基準も、結局そこから近いほど甘くなる。
たぶんこれは、赤ん坊からやり直したことで得た一番大きな変化の一つだ。
夜、布団の中で、俺は自分の手を見る。
小さい。
まだ本当に小さい。
だがこの手で、紙コップの塔を少し安定させる方法を教え、幼い絵を描き、周囲から少しだけ“器用な子”と思われる程度にはなっている。
(才能は、漏れる)
完全には隠せない。
ならば、その漏れ方を設計するしかない。
少し器用。
少しよく見ている。
少し落ち着いている。
今はその程度でいい。
それが積み重なった先に、後で必要な信頼や評価に変わるなら、それでいい。
幼稚園の自由工作でそんなことを考える子供はたぶん世界にほとんどいないだろうが、俺は俺だ。
この小さな練習の積み重ねが、きっといつか大きな設計へ繋がる。
そう確信しながら、俺は静かに目を閉じた。
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