他人以上、不倫未満。
バタイユの『エロティシズム』という哲学書を読んで、浮かんだ情景を短編小説にしてみました。
午後三時、駅前の小さな図書館にて。
僕は窓際の席に座る。
ネクタイを少し緩めて本を開く。
彼女は三つ隣の席に座る。
年齢は僕より少し若いだろうか。
指輪がきらりと光る。
二人は一言も離さない。
ただ、毎週、同じ時間にそこにいる。
それだけ。
ある日、僕らは本棚の狭間で出会い、目が、合ってしまった。
「今日は混んでますね」
「試験前、みたいですね」
お互い、それ以上会話を広げはしなかった。
次の週、僕は大いに動揺し、動揺した自分に驚くこととなる。
彼女がいつもの席に来なかった。
胸がざわつき、しかしそれはおかしいと自分に言い聞かせる。
僕が図書館に行かない日も、彼女が図書館に来ない日も、これまでだって当たり前にあったのだから。
関係性などない、約束もしていない。
何も始まっていない。
それなのに、僕の心はひどく揺さぶられている。
次の週は雨が降った。
割と雨が好きなほうだ。
靴が濡れるのは少し億劫だが、人の少ない街を一人歩く、あの感覚は替えの効かない感情なように思う。
今日は少し寄り道して帰ろうか。
ガラっとした席を横目に出口に向かうと、困った様子の彼女が立っていた。
「駅まで、送りましょうか。」
彼女は少し考え、頷いた。
傘の下、お互いに片方の肩が少し濡れている。
僕らの肩は、決して触れ合わない。
それは他人の距離感としてはすごく自然なようで、とても不自然であった。
駅までの10分間、僕らは何も話さなかった。
駅に着くと、彼女は一言お礼を言い、去っていった。
ホームを見渡してみたが、彼女は見つからなかった。
また次の週、彼女は当たり前のようにいつもの席にいた。
そして僕も。
本の内容は、ちっとも頭に入らなかった。
その日の帰り。
閉館アナウンスが流れ、二人は同時に立ち上がり、出口に向かう。
鼓動の高まりを感じる。
30歩ほど、隣を歩き、そして、何も言えなかった。
彼女も、何も言わず、違う道に進んでいった。
それから僕は、図書館には行かなかった。
もうあの席には座ってはいけない気がした。
僕達の間には何もなかった。
でも、あの空間に、自分の境界が溶けるような感覚があったことを、確かに覚えている。




