黒紫の雷
「いい加減、諦めたらどうだ」
男の声は静かだった。夜の石畳に紫の光が滲む。刻印式魔法陣が展開されるたび、空気が微かに震えている。ここはアストリア学府外縁区、訓練用の旧街区。今は立ち入りが禁じられている区域だった。
レオン・ヴァルハイトは膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。目の前に立つ男――カイル・ノクティス。帝国上位魔導士。そして今は、帝国に追われる異端。
両手の前に浮かぶ魔法陣は異様だった。通常の雷魔法は青白い。風属性の派生、電荷操作による高出力放電。しかし今、そこに展開されている陣は違う。黒い円環の内側に、紫の文字列が幾重にも重なり、脈打っている。それは雷の術式ではなかった。
「……それは、雷じゃない」
レオンの喉が震える。カイルはわずかに笑った。
「そうだ。これは雷ではない」
魔法陣が完成した瞬間、黒紫の閃光が走った。速い――そう思ったときには、胸が焼けていた。悲鳴が遅れて喉を裂く。雷鳴はさらに遅れて届いた。
だがそれは感電の痛みではなかった。体内を流れる魔力が、何かに触れた瞬間から断たれていく。魔法回路が焼き切られ、存在そのものが削られる感覚。後方の苔むしたレンガ壁へ叩きつけられ、肺の空気が強制的に吐き出された。
カイルがゆっくりと歩み寄る。
「世界は完成していない。魔法は万能ではない。だが帝国は、それを認めない」
レオンは血を吐きながら睨み返した。「だから壊すのか」
「違う。修正する」
その瞬間、カイルの身体に亀裂が走る。黒紫の光が内側から溢れ出し、肉体が耐えきれず崩れ始める。時間がない、と彼は呟いた。
「お前は魔法に拒絶されているのではない。魔法を拒絶する側だ」
光が爆ぜる。黒紫の閃光が収束し、世界の構造そのものが軋む音がした。崩壊するカイルの身体から流れ出た光が、抵抗もなくレオンの胸へと吸い込まれる。
世界が裏返った。
色が薄れていく。赤が消え、青が淡くなる。残るのは紫。石畳の下に刻まれた微細な魔法陣が見える。空気中を流れる魔力の経路が見える。そして、それらのすべてに欠陥があることが理解できた。
「……なんだ、これ」
立ち上がると、胸の痛みは消えていた。遠くで警鐘が鳴る。帝国の魔導部隊が接近している。その足元に展開された索敵魔法陣へ、無意識に意識を向けた。
黒紫の火花が走る。
触れていない。だが術式が崩れ、魔法は成立しなかった。消したのではない。構造が解けたのだ。
空間がわずかに歪む。雷が落ちる。しかし青ではない。黒紫。そして一瞬、紫の文字が浮かび上がる。
――断式。
それは雷ではない。魔法の終端。世界にただ一つの異端。《紫電》。
視界の端で、さらに色が失われる。代償がある。それでも、焼き切るためではない。修正するためだ。
夜空を見上げる。雷は落ちない。ただ空気だけが震えている。
その中心に、レオンは立っていた。
紫電の継承者として。




