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召喚

王都アールヴァンは、雨が降るようにため息を吐いていた。

東の城壁では火の手が上がり、鐘が三度、そして四度鳴る。魔王軍はもう外堀まで来ている。

玉座の間には、国王と老魔導、騎士団長、そして白いドレスの第一王女――セレスティア。

最後の切り札として、禁じられた異世界召喚陣が床いっぱいに刻まれていた。


「――名を呼ぶ。勇者よ、理の外から来たる者よ。我らに勝利の技を」


老魔導が詠唱を締めくくると、幾何学模様が星空のように点滅した。

光が膨らみ、空気が押し返され、玉座の間に“誰か”が置かれるように現れる。


ジャージ姿。首には小さなタオル、手にはスポーツボトル。

髪をひとつに結んだ女性は、周囲を見回してから、すこし困った顔で言った。


「…あ、私ですか? 吉田沙保里です。えっと、ここはどこでしょう」


玉座の間が静まり返る。王女が最初に口を開いた。


「ようこそ、異邦の吉田殿。我らは滅亡の淵にあり、あなたを勇者としてお招きしました」


「勇者?」

沙保里は小首を傾げ、ふっと笑う。「あ、でも戦うことは慣れてます。レスリングしかしてきませんけど」


「レ、レスリング……?」騎士団長が眉をひそめる。「素手の武芸か」


老魔導が慌てて鑑定の水晶を持ち出す。青い光が沙保里を走査し、文字が浮かぶ。


種族:ヒューマン(霊長類)

職能:レスラー

レベル:――表示不能

能力値:――観測不能

備考:観測行為が弾かれました。安全距離を置いてください。


「観測不能だと?」国王が身を乗り出す。


「ま、まあまあ。とりあえず状況を教えてください」

沙保里は落ち着いた声で言い、ボトルのキャップを開ける。その動作の滑らかさに、場の緊張がわずかにほぐれた。


老魔導が地図を広げる。

「魔王軍が北から南下し、明後日には王都に雪崩れ込む。こちらの切り札はもはや古い飛竜が三頭と、半壊した攻城槌のみ。勇者殿、あなたの剣はどちらに?」


「剣は持ってないです。代わりに――」


沙保里は右手を軽く上げ、小さく握り、小指の第一関節を“コキッ”と鳴らした。


音は本当に小さかった。

だが同時に、玉座の間の柱に刻まれていた古い亀裂が、すっと消えた。

彫られていた王家の紋章の一部も、チョークで描かれた線のようにどこかへ“拭き取られて”いる。


「――っ!」老魔導が息を呑む。「結界の残響が…無音で消滅した……」


「すみません、クセで鳴らしちゃって。こっちの世界だとあんまり良くないですか?」

沙保里は申し訳なさそうに眉を下げる。


「い、いえっ! いえ、その……」王女セレスティアが慌てて笑みを作る。

「あなたの小指の健康と機嫌は、この王国が最も大切にすべき資源になりました」


騎士団長が訝しげに剣の柄を握る。「幻術かもしれん。実戦で確かめねば――」


「団長」王女が制す。「疑うのはわかるけれども、希望にすがるのも人の務めです」


沙保里は二人の間に軽く手を上げた。「大丈夫です。試しが必要なら、やりましょう」


「では明朝、闘技場で王国最強の剣士が相手を務める」騎士団長の声には、どこか安堵と不安が混ざっていた。


準備のため、侍従たちが客間へと沙保里を案内する。

王女が少し遅れて、廊下で並んだ。


「異邦の吉田殿。あなたには酷なお願いをしています。私たちは、背に腹は代えられないのです」

セレスティアの声は、夜明け前の空みたいに冷たく、そして澄んでいた。


「気にしないでください。やれることをやるだけですから」

沙保里は笑ってみせる。「それと、一つお願いしてもいいですか」


「何でも」


「床が石だと、足が滑ってちょっと怖いんです。明日の闘技場、マット――いや、敷物でもいいので、滑りにくい素材にしてもらえると助かります」


王女は瞬きをしたあと、微笑んだ。「わかりました。王都中の絨毯を剥がしてでも、整えます」


客間は簡素だった。窓からは戦火の赤が遠くちらつく。

沙保里は畳の代わりに敷かれた毛布の上で、深く息を吐き、身体をほぐす。

肩、股関節、足首――最後に小指。

“コキ”と鳴らしかけて、ふと手を止めた。天井の梁が心持ち薄くなるような気配がしたからだ。


「……やっぱりこの世界、空気が軽いな」


ドアがノックされ、若い侍女が顔を出す。

「失礼します、吉田様。湯の用意と、軽食を――」


「ありがとう。あとでいただきますね」

沙保里は立ち上がり、侍女の足運びを一目で観察して微笑む。

「明日、あなたたちは観客席の中央より後ろにいてください。前列は……少し風が強いかもしれません」


侍女は意味がわからないまま、こくりと頷いて去っていった。


夜。

城の屋上に上がると、風が頬を撫でる。遠くで狼煙が上がり、火花のように星が瞬く。

沙保里は両手を腰に当て、空を見上げた。


(練習と同じ。相手がどれだけ大きくても、やることは変わらない)


「構え、入り、崩し、タックル」

小さく口に出すと、身体がそれに呼応する。

長年染みついたルーティンは、世界が変わっても裏切らない。


足元の石畳に、砂粒ほどの黒い穴がぽつりと開いた。

さっき止めたはずの小指が、ほんの少しだけ動いたのだ。

穴はすぐに閉じたが、その間、夜風が一拍だけ失われた。


「……気をつけよう」

沙保里は苦笑して、指をさすった。「明日までは、なるべく鳴らさない」


そのとき、階下で慌ただしい足音。騎士団長が屋上に駆け上がってくる。

「勇者殿、失礼。明日の相手が決まった。名は――獅子のレグルス。この国で最も剛腕の剣士だ」


「よろしくお願いします、と伝えてください」

沙保里は素直に頭を下げる。


団長はその礼に戸惑いながら、咳払いをした。

「もう一つ。もし勝敗がついたあとでも、彼を……できれば生かしておいてもらえるとありがたい。我が軍の士気に関わる」


「任せてください。壊さないように、優しくやります」


団長は安心したようにうなずき、立ち去る。

沙保里は再び空を見上げた。星が一つ流れ、尾を引く。

さっきの一拍失われた風が、遅れて頬を撫でる。


(優しく、か)


彼女は靴紐を結び直し、肩をすくめて微笑んだ。

明日、王国は“優しさ”の定義を更新することになるだろう。


――夜明けまで、あと少し。

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