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第二十七話:中原からの逃亡者

第二十七話:中原からの逃亡者

西暦一九五年、秋。


并州へいしゅう南部の関所は、中原からの避難民でごった返していた。

曹操が兗州えんしゅうで繰り広げる激しい戦乱。それに伴う飢饉と略奪。

多くの民が、呂布が治めるという平和な土地を目指して、故郷を捨ててきたのだ。


痩せた老人、幼子を抱いた母親、疲れ果てた男たち。

その誰もが、明日への希望よりも、昨日までの絶望をその目に色濃く宿していた。


その、人の流れの中に、一人、場違いなほど落ち着き払った青年がいた。

年の頃は、二十代前半。着古した学徒の服を纏い、背には書物を詰めた古びた袋を背負っている。

その顔立ちは端正だが、瞳の奥には、年齢にそぐわぬ深い思慮と、そして、どこか拭いきれない憂いの影が宿っていた。


「止まれ! 次の者!」

関所の役人が、槍の石突で地面を突きながら、尊大な態度で青年を呼び止めた。

「名は。どこから来た」


「……」

青年は、一瞬だけ躊躇ためらいを見せた。だが、すぐに覚悟を決めたように、静かに口を開いた。

「……単福たんぷくと申します。あざなはございません。潁川えいせんの出身ですが、戦乱を避け、学問を続けるために、この并州を目指してまいりました」


青年――徐庶じょしょは、自らの本名を心の奥底に封じ込め、用意していた偽名を名乗った。


「ふん、学徒か」

役人は、値踏みするように単福の全身を眺めた。

「近頃は、そんな輩に紛れて、曹操の間者も入り込んでくる。怪しい奴め」


役人が、さらに詰問を続けようとした、その時だった。


「待て」


静かだが、有無を言わせぬ威厳を帯びた声が、その場を制した。

振り返ると、そこに立っていたのは、并州の軍師・陳宮であった。彼は、領内の視察の帰り道、偶然この関所に立ち寄っていたのだ。

役人たちは、陳宮の姿を認めるなり、慌てて頭を下げる。


陳宮は、それに目もくれず、真っ直ぐに単福の前へと歩みを進めた。

「……単福、と申したか」


陳宮は、単福の瞳をじっと見つめた。その眼光は、まるで魂の奥底まで見透かすかのように、鋭く、そして深い。

「その目……ただの学徒のものではないな。お主、その名の裏に、何か重いものを背負っておるな?」


単福は、陳宮の言葉に、全身の血が凍るのを感じた。

(この男には、嘘も、誤魔化しも、一切通じない。己の過去も、この偽名さえも、全て見抜かれている)


彼は、観念したように、その場で深く膝をついた。そして、自らの罪を、震える声で告白した。

かつて、友人の仇を討つために人を殺めたこと。それ以来、追われる身となり、名を捨て、ただ学問の世界に救いを求めて生きてきたこと。


「……私は、罪人です。ですが、この一身に宿した学問で、どうか、この乱世の民のために、お役に立ちたい。それだけが、私の贖罪であり、願いにございます」


陳宮は、その悲痛な告白を、ただ黙って聞いていた。

やがて、深く、長い息をつくと、言った。

「……顔を上げよ、単福。人は誰しも過ちを犯す。重要なのは、その過去をどう背負い、これからをどう生きるかだ」


彼は、単福の肩に、そっと手を置いた。

彼が偽名を名乗っていることを知りながら、あえて、その「単福」という名で呼んだ。それは、彼の過去を不問に付すという、陳宮なりの最大限の配慮であった。


「お主のその知、この并州のために使ってみる気はないか。この陳宮が、お主の師となり、その道を示してやろう」


それは、単福にとって、暗闇の中で差し伸べられた、一筋の蜘蛛の糸であった。

彼は、込み上げる熱いものを堪えながら、床に額をこすりつけ、深く、深く頭を下げた。


「……先生……! このご恩、生涯、忘れませぬ……!」


こうして、「隠者の懐刀」は運命に導かれ、北の大地に、その刃を預けるべき主君を見出した。


だが、彼の前には、この地の主である、あまりにも強大で、そして、何よりも『義』の道を重んじるが故に罪人の存在を許さぬであろう、「武」の化身――呂布という、巨大な壁が立ちはだかっていることを、彼はまだ知らなかった。

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