幕間ノ四:雌伏の時・江東の若虎
幕間ノ四:雌伏の時・江東の若虎
西暦一九三年、冬。揚州、寿春。
袁術の、悪趣味なまでに華美な宮殿の一室で、一人の若者が屈辱に唇を噛み締めていた。
父・孫堅の死から、一年余り。父が率いた精兵の多くは袁術に吸収され、江東の虎と謳われた父の息子は今、彼の配下の一将軍という立場に甘んじている。孫策であった。
「……伯符」
傍らでは、一人の青年が、静かに茶を差し出しながら、その横顔を案じていた。
年は孫策と同じ。眉目秀麗にして、その瞳の奥には常人ならざる知性の光が宿っている。
この男こそ、舒城の旧家・周家の御曹司、周瑜公瑾。
孫策が父の葬儀のために故郷へ戻った際、「君こそ我が友」と互いの才に魂を共鳴させ、義兄弟の契りを交わした無二の親友であった。
彼は、友の不遇を見かね、自らこの寿春まで訪ねてきていたのだ。
「焦りは禁物です。今は、袁術の下で力を蓄え、時を待つしかありません」
「分かっている、公瑾」
孫策は、吐き捨てるように言った。
「だが、いつまで、こんな蜂蜜好きの成り上がりの下で、飼い殺しにされていればいいのだ!」
父の形見である古錠刀を握りしめる。この刀は、父の無念と、そして袁術への憎悪を決して忘れさせてはくれなかった。
父は、死ぬ前に言っていた。
『北には、我らの常識では測れぬ、鬼神のような男がいる』と。
呂布奉先。その男は、今頃、并州で父の跡を継ぎ、あの袁紹の大軍をも退けたという。
(それに比べて、俺は……)
焦りが、彼の心を焼く。
だが、周瑜は冷静だった。
「兄上。袁術は、いずれ帝を僭称せんとする、ただの愚か者。必ずや、天下の全ての諸侯を敵に回し、自滅します。その時こそ、我らが動く時」
彼の瞳には、友の未来を、そして天下の情勢を完璧に読み切っている、天才軍師の光が宿っていた。
「その日のために、今はただ、牙を研ぐのです。父君が遺された、程普殿や黄蓋殿といった老将たちの信頼を、完全に我らのものとするのです。それこそが、我らが江東に新たな国を築くための、礎となるのですから」
周瑜の言葉に、孫策の心も少しだけ落ち着きを取り戻した。
(そうだ。俺には、公瑾がいる。父が遺してくれた、かけがえのない仲間たちがいる)
「……すまんな、公瑾。少し、熱くなりすぎた」
「いえ」
周瑜は、穏やかに微笑んだ。
「その熱さこそが、兄上の魅力。私が、生涯を賭けてお仕えすると決めた、王の器にございます」
時は流れ、西暦一九五年。
ついに、その「時」が来た。
袁術が、揚州刺史の劉繇を攻めるにあたり、孫策にその先鋒を命じたのだ。
「公瑾、見ていろ。俺たちの戦が、始まるぞ」
孫策は、父の形見であり、袁術が喉から手が出るほど欲しがっていた伝国の玉璽を、袁術の前に差し出した。
「この玉璽を預ける代わりに、父が率いた兵、千余りをお貸しいただきたい」
玉璽に目が眩んだ袁術は、喜んでその申し出を受けた。
千の兵を得た孫策は、もはや檻の中の虎ではなかった。
彼の出陣の噂を聞きつけ、周瑜は一族を挙げてこれを支援。さらに、江淮にその名を知られた二人の賢人、張昭と張紘を口説き落とし、「この方こそ、江東の新たな主君」と、孫策に引き合わせた。
文の張昭・張紘、武の周瑜。若き虎の翼が、ここに揃った。
彼らは長江を渡り、江東の地へと降り立つ。
そこには、父の死後、散り散りになっていた程普、黄蓋、韓当といった老将たちが、涙ながらに若き主君の帰還を迎えた。
若き虎の快進撃が、ここから始まる。
神亭嶺では、江東の勇将・劉繇配下の猛将、太史慈と、互いの武に魂を震わせる壮絶な一騎討ちを演じる。
誰もが固唾を飲んで見守る中、孫策は太史慈の戟を奪い、太史慈は孫策の兜を掴むという、全くの互角。
その戦いを通じて、孫策は太史慈の器に惚れ込み、後日、捕虜となった彼を自ら縄を解いて味方に引き入れた。
若き虎は、ついに檻から解き放たれたのだ。
彼が、父の故郷である江東の地に新たな国を築き、「小覇王」として乱世にその名を轟かせる日は、そう遠くはなかった。




