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幕間:西涼の若獅子、飛将と華を想う

幕間:西涼の若獅子、飛将と華を想う

風だ。

頬を打つ風の感触が、故郷・西涼のそれとは違う。并州の風は、乾いてはいるが、どこか土の匂いと、芽吹く若草のような、生命の香りがした。

馬超は、愛馬のたてがみが風になびくのを感じながら、ただひたすらに西を目指していた。

体は故郷へ向かっている。だが、彼の魂は、まだ、あの晋陽の城壁に残してきたかのように、熱く、そして昂ったままだった。


(呂布将軍…いや、義父上…!)

まだ口にするには早すぎるその呼び名が、心の内で蜂蜜のように甘く溶ける。

呂布奉先。

あの人は、俺の世界を、根こそぎ破壊し、そして、新たに創造してくれた男だ。

謁見の間で槍を向けた、愚かで、傲慢だった俺。あの時の俺は、あの人をただの「強い敵」としか見ていなかった。だが、あの人は、嵐の中心に立つ大樹のように、俺の全てを受け止め、見透かしていた。


訓練場で、俺の槍は、俺の誇りは、赤子の玩具のように、いともたやすく砕け散った。生まれて初めて知った、完膚なきまでの敗北。だが、それは絶望ではなかった。天そのものを見上げてしまったかのような、畏敬の念。俺が進むべき道の、遥か彼方にある、絶対的な光だった。


「華を、貴様の妻として迎え入れてはくれまいか」

あの言葉が、今も耳の奥で、熱い鐘の音のように鳴り響いている。

あの人は、俺を、ただの同盟相手の息子としてではない。一人の男として、その成長を認め、そして、何よりも大切な宝であるはずの娘を、この俺に託そうとしてくれたのだ。


父・馬騰は、俺にとって常に「馬家の棟梁」であり、いつか超えるべき壁だった。

だが、あの人は違う。

あの人は、俺を「息子」として、家族として、受け入れようとしてくれた。その事実が、誇りと歓喜で、この胸を張り裂けさせそうだ。

(そうだ、俺は、あの人の息子となるのだ…!)


ならば、もう迷うことはない。

西涼に帰り、父上に全てを報告し、この縁談を成し遂げる。そして、西涼の次期当主として、義父上が治める并州と、揺ぎない同盟を結ぶ。それはもはや、ただの政略ではない。家族として、あの人の背中を守るための、俺の生涯を懸けた務めだ。

李傕、郭汜ごとき賊徒が、義父上の背中を脅かすことなど、この俺が断じて許さん。

西涼の全ての民と兵を束ね、俺が、并州の西を守る、最強の盾となる!


その時、ふと、風の香りが変わったような気がした。

土の匂いから、あの甘草の、優しい香りへ。

脳裏に、もう一人の、忘れえぬ人の姿が浮かぶ。


(華殿…)

その名を心で呟くだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられ、頬が熱くなる。

父君の前で、「私のことを、強く、そして優しい男だと…」と、そう言ってくれたという。

あの慈愛に満ちた瞳が、俺を見ていてくれた。その事実だけで、天にも昇る心地だった。


西涼にいた頃、力こそが全てだった。女は、強き男が手に入れるべき「戦利品」であり、一族の血を残すための「道具」でしかなかった。

だが、華は違う。

彼女は、俺の鎧も、錦馬超という名も、西涼の権勢も、何も見ていなかった。

ただ、泥にまみれ、己の未熟さに苦悩する、一人の弱い男としての俺を見て、そして、その痛みに寄り添ってくれた。

彼女の優しさは、俺の魂の、最も柔らかく、最も脆い場所を、温かい光で包んでくれたのだ。


(待っていてくれ、華殿)

馬超は、西の空を見据えた。その瞳には、もはや若獅子の荒々しさはない。愛する人を守ると誓った、一人の男の、深く、そして揺ぎない決意の光が宿っていた。

(俺は、もっと強くならね-ばならん。義父上が示してくれた、本当の強さを手に入れ、お前を迎えに行くにふさわしい男となって、必ず、この道を引き返してくる)


并州の風が、彼の背中を優しく押した。それはまるで、彼を送り出す王と、彼の帰りを待つ花の、二つの想いが一つになったかのようであった。

若獅子は、ただひたすらに、愛馬を駆る。その心には、二つの太陽が、彼の進むべき道を、どこまでも明るく照らしていた。

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