第六話:軍師の初策
第六話:軍師の初策
「陳宮公台と申されたな」呂布は、地に着いた低い声で尋ねた。無力感に打ちひしがれた彼の瞳が、目の前の男を値踏みするように鋭く光る。「聞かぬ名だが…何の用向きで参られた? まさか、黒山賊の使者ではあるまいな?」
「はは、滅相もございません」陳宮は、呂布の刺すような視線を受けても臆することなく、軽く笑った。「それがしは、ただのしがない旅の者。天下の趨勢を憂い、真の『義』を持つ将を探し求めて、諸国を巡っておりました。そして、呂布将軍の噂を耳にしたのです」
陳宮の瞳が、呂布を真っ直ぐに見据えた。
「并州の飛将、呂布奉先。その武勇は天下に鳴り響いております。しかし、それがしが最も心を動かされたのは、武勇そのものよりも、育ての親である丁原様への純粋なまでの『誠』でございます。そして、将軍のその『誠』に、この陳宮、一縷の望みを託してみたくなったのです。今、将軍が黒山賊の奸計に苦しんでおられると聞き及びました。微力ながら、この陳宮がお力添えできればと、こうして参上した次第でございます」
よどみなく語る陳宮。その「眼」から、呂布は偽りのない想を感じ取っていた。自分に欠けている「智」というものを、この男が補ってくれるかもしれない。
「…貴公が、この状況を打開できると申すか?」呂布は、試すように、そして僅かな希望を込めて尋ねた。「敵の軍師、于毒は相当な知恵者と聞くが」
「ふふ…」陳宮は、今度は不敵な笑みを浮かべた。「于毒ごときの小賢しい策、この陳宮の目には子供の戯れに等しゅうございます。ご安心めされよ。策には、策を以て応じるまでのこと」
彼は、傍らにあった枯れ枝を拾うと、地面にこの辺りの山々の地形を驚くほど正確に描き始めた。その記憶力と状況把握の的確さに、丁原や張譲も目を見張る。
「敵の狙いは、我らをこの狭い谷間に誘い込み、兵糧攻めで消耗させ、我らが焦れて無謀な突撃を敢行するか、あるいは疲弊しきって撤退しようとしたところを、満を持して配置した伏兵で一気に殲滅すること。ならば、その誘いにあえて乗ったと見せかけ、敵の背後を突くのです」
陳宮の策は大胆かつ緻密であった。まず、山中の猟師から聞き出したという、ほとんど知られていない獣道を使う。その道から、并州軍きっての勇将である張遼に精鋭五百を率いさせ、敵の兵糧が集積されているであろう廃寺を奇襲する。その間、呂布は正面から大々的に総攻撃をかけ、敵の注意を完全に引きつける陽動役を務める、というものだった。
だが、呂布はすぐには頷かなかった。彼は、腕を組み、険しい表情で黙り込んでいる。
「陽動、か…」しばらくして、彼は重い口を開いた。「つまり、俺は囮となり、敵を欺け、と。それは、親父殿の教えられた『義』にかなうのか?」
その声には、彼の根本的な価値観を揺さぶられたことへの、純粋な疑問と抵抗感が滲んでいた。力と力で正面からぶつかり、敵を打ち破ることこそが、武人の本懐であり、正々堂々とした戦い方だと信じてきた。欺瞞や奇策は、卑怯者のやることではないのか。
その呂布の葛藤を、陳宮は見抜いていた。彼は、諭すように、しかし力強い眼差しで応じた。
「将軍。将の『義』とは、一体何でございましょうか。己の武を示すことですか? それとも、正々堂々と戦い、たとえ敗れても名誉を守ることですか? それも一つの『義』かもしれません。しかし、それがしが思うに、将が持つべき最大の『義』とは、己が預かる兵の命を最大限に救い、守るべき民の暮らしを安んじることにある、と。そのためには、時には泥を啜り、時には敵を欺き、いかなる手段を用いてでも『勝利』をもぎ取ることこそが、真の『義』ではないでしょうか」
陳宮はそこで言葉を切り、呂布の目を見据えた。
「将軍の『誠』は、そのような狭い武人の意地に留まるものではないと、それがしは信じております。多くの命を救うための策が、どうして『義』に反しましょうか」
陳宮の言葉は、呂布の心の奥深くに突き刺さった。先の匈奴戦で失った三十人の兵の顔が、脳裏をよぎる。
(そうだ…俺はもう、無駄に部下を死なせたくはない…)
長い、重い沈黙の後、呂布はついに顔を上げた。その瞳には、葛藤を乗り越えた、新たな決意の光が宿っていた。
「…よし、分かった! 陳宮殿、その策、採用しよう! 貴公の言う『大きな義』とやらを、信じてみる!」
呂布は力強く宣言した。
「張遼!」
「はっ!」
「貴様に精鋭五百を預ける! 陳宮殿の指示通り、獣道を抜け、奴らの兵糧庫を叩け! この戦の帰趨は、お前の双肩にかかっている!」
「御意! この張文遠、必ずや期待に応えてみせます!」張遼は、この重要な任務への責任感と、主君からの信頼に身を引き締めた。
「そして俺は…」呂布は方天画戟を手に取り、不敵な笑みを浮かべた。「奴らの目を、存分に引きつけてやる! 俺が最高の囮になってみせようぞ! 赤兎、俺たちの新しい戦い方だ!」
軍議の場は、にわかに活気づき、兵士たちが準備のために慌ただしく動き始めた。その喧騒の中、丁原は静かに陳宮のそばへ寄った。
「陳宮殿」
「はっ、丁原様」
「失礼ながら、お主の故郷はどちらかな。その兵の動かし方、情報の使い方…まるで中原で叩き上げられた、練達の士のようだ。とても、ただの旅の者とは思えん」
丁原の鋭い目が、陳宮の心の奥底を探るように光る。
陳宮は、その視線を正面から受け止め、静かに微笑んだ。
「…故郷は、とうに捨てた身にございます。今はただ、この并州こそが、それがしの骨を埋める場所と信じております」
彼はそう言って深く一礼すると、兵たちに指示を与えるため、幕舎の外へと歩み去った。残された丁原は、腕を組み、その謎めいた軍師の後ろ姿を、いぶかしげに、しかしどこか頼もしげに見送っていた。
翌朝、夜明けと共に、進軍の銅鑼が鳴り響いた。呂布は赤兎に跨り、軍の先頭に立つ。
「者ども、進め! 目指すは敵の本陣! 今日こそ、賊徒どもを根絶やしにするぞ!」
「応!」
鬨の声と共に、呂布軍は正面の谷へと、怒涛の如く進軍を開始した。それは、呂布軍が、武勇と知略という二つの翼を得た、最初の瞬間であった。