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第二十六話:飛将の決断、華の覚悟

第二十六話:飛将の決断、華の覚悟

三月の月日は、瞬く間に過ぎ去った。

并州の農村から、一人の若者が晋陽の城へと帰還した。

その若者は、西涼を発つ時の、輝くような白銀の鎧を纏った「錦馬超」ではなかった。日に焼け、その顔には精悍さと共に、民の暮らしを知る者だけが持つ、穏やかな落ち着きが加わっている。その手には、硬いマメの跡が残り、それはどんな名槍よりも、彼の成長を雄弁に物語っていた。


呂布は、帰還した馬超の姿を一目見るなり、満足げに大きく頷いた。

「…良い顔になったな、馬超。もはや、お前の槍は、ただの鉄の棒ではあるまい」

「はっ。全ては、呂布将軍のお導きのおかげにございます」

馬超は、その場に深く膝をつき、心からの敬意を込めて礼を述べた。彼の瞳には、もはやかつての傲慢さの欠片もなく、師に対する、揺ぎない信頼の光だけが宿っていた。


その日の夕暮れ。呂布は、馬超ではなく、三女の華を自らの私室に呼び出した。

部屋には、窓から差し込む夕陽が、優しい光の帯を作っている。


「華か。まあ、ここへ座れ」

呂布は、娘を前にすると、いつも少しだけぎこちなくなる。戦場で見せる鬼神の如き威厳はどこへやら、ただの不器用な父親の顔がそこにあった。


「…父上、どうかなさいましたか?」

華は、父の珍しい様子に、少し戸惑いながらも、その前にちょこんと座った。


「…うむ」呂布は、何度か言い淀んだ後、意を決したように切り出した。「華よ。お前も、もう十六。いずれは、誰ぞに嫁ぐ身だ」


「はい…」


「…西涼の馬超という男。お前は、あの男を、どう思う?」


父からの、あまりにも直接的な問い。華の白い頬が、一瞬で林檎のように赤く染まった。脳裏に、あの泥だらけの、しかし真っ直ぐな瞳が蘇る。彼女は、俯き、衣の裾をぎゅっと握りしめた。

「…馬超様は、とても、お強い方だと思います。そして…とても、お優しい方だと…思います」


か細い、しかし、凛とした声。その中に、呂布は、娘の隠しきれない恋心と、そして、領主の娘として、この縁談が并州にとってどれほど重要かを理解しているであろう、健気な覚悟を感じ取った。

(…大きくなったな、華)

彼は、安堵と、そして娘を嫁がせる父親特有の、どうしようもない寂しさが入り混じった、複雑な表情で深く息をついた。

「…そうか。ならば、良い」

呂布は、娘の頭を、大きな手で優しく撫でた。


「父が、勝手に決めることではないからな。お前の気持ちを、聞いておきたかった。…辛くは、ないか。西涼は、遠いぞ」

その、不器用な問いかけに、父の深い愛情を感じ、華の瞳に涙が浮かんだ。

「…寂しくない、と言えば嘘になります。ですが…あの方の隣でなら、きっと…。それに、私は、父上の娘ですから。この縁談が、父上と、并州の助けになるのであれば、華は、どこへでも参ります」


その言葉に、呂布は胸を突かれた。娘は、ただ恋に浮かれるだけでなく、自らの運命を、この国の未来と重ねて受け入れようとしている。

「…馬鹿め」呂布は、絞り出すように言った。「お前の幸せが、何よりの助けだ。…無理は、するなよ」

彼は、それ以上何も言えず、ただ、力強く頷くことしかできなかった。


その夜、呂布は改めて馬超を私室に招き、二人きりで酒を酌み交わした。

農村での暮らし、民の強さ、そして、槍の重み。馬超が熱っぽく語るその成長を、呂布は我が事のように聞き入っていた。


やがて、呂布はおもむろに切り出した。

「馬超よ。貴様と我が并州は、もはや単なる同盟相手ではない。俺は、貴様を弟のように、息子のように思っている」

「…もったいなきお言葉」

「そこでだ」呂布は、真剣な眼差しで続けた。「我が娘、華も、貴様のことを、強く、そして優しい男だと申しておった。――華を、貴様の妻として迎え入れてはくれまいか」


「―――え」

馬超は、息を呑んだ。信じられない、という表情で、呂布の顔をまじまじと見つめる。

華殿も、俺のことを…?

喜びと、そして驚きで、言葉が出てこない。


呂布は、そんな馬超の様子を見て、悪戯っぽく笑った。

「どうした。不満か?」


「い、いえ!滅相もございません! この馬超にとって、これ以上の誉れはございません! 謹んで、お受けいたします!」

馬超は、慌てて立ち上がると、再び床に額をこすりつけんばかりに、深く頭を下げた。その声は、喜びで震えていた。


「よし、決まりだな」呂布は、上機嫌に酒を呷った。「ただし、これはまだ俺と貴様の間での話だ。正式な縁談は、お前が西涼に戻り、父君・馬騰殿の許しを得てから進めることとしよう。それが筋というものだ」

「ははっ! 父も、必ずや喜んでくれると信じております!」


二人の間には、もはや君主と客将という隔たりはない。ただ、未来を語り合う、義理の親子としての温かい時間が、静かに流れていくのであった。

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