幕間ノ三:若獅子の不在
幕間ノ三:若獅子の不在
馬超が并州の農村で試練を始めてから、一月が過ぎた。
使者として訪れた西涼の若獅子が、領主の命で鍬を握っているという異例の事態。その事実は、様々な場所に、様々な憶測という名の波紋を広げていた。
并州、晋陽城。
夜の軍議の後、陳宮と張遼は、二人きりで酒を酌み交わしていた。
「…なあ、陳宮殿」張遼が、怪訝な顔で切り出した。「殿は、一体何をお考えなのだ? 西涼の御曹司に、農村で鍬を握らせてから、もう一月が過ぎた。使者として来た若君を、いつまでも并州に留め置くなど、前代未聞だ。下手をすれば、馬騰殿の不信を買いかねんぞ」
陳宮は、静かに杯を傾けると、ふっと息を吐いた。
「…殿は、馬超殿を『人質』に取っておられるのではない」
「では、何だというのだ」
「殿は、あの若獅子の中に、かつての己を見ておられるのだ。そして、育てようとしておられる。我らでは計り知れぬ、王のやり方でな」
陳宮の瞳には、主君の深慮への畏敬と、その危ういまでの器の大きさへの、一抹の不安が浮かんでいた。
長安、未-央宮。
李傕と郭汜の元にも、その報は届いていた。
「馬超が、まだ并州にいるだと?」郭汜が、苛立たしげに卓を叩く。「呂布の奴、馬超を人質に取り、馬騰を脅迫するつもりか! あの男ならば、やりかねん!」
「いや、待て」李傕が、その無骨な顎髭を撫でながら、冷静に制した。「別の噂では、馬超は呂布の武と器に完全に心服し、自ら并州に留まることを願ったともいう。もしそれが真実ならば…事態はより深刻だ」
呂布と馬騰。北と西の二大勢力が、もし、単なる軍事同-盟を超えた、固い信頼で結ばれたとしたら。自分たちは、完全に東西から挟み撃ちにされる形となる。
「…并州への警戒を、一層強めよ。間者を放ち、呂布の真意を探らせろ」
李傕の目に、猜疑と恐怖の光が、暗く揺らめいた。
そして、西涼、金城。
馬騰の元に、呂布からの使者が、一通の書状を届けたばかりであった。そこには、呂布が宣言した通りの言葉が、力強い筆跡で記されていた。
『貴殿の嫡男・孟起、我が并州と西涼の、未来の懸け橋となるべき器。故に、今しばらく、我が元で預かり、帝王学を学ばせる』
馬騰は、その短い文面を何度も読み返し、やがて、声を上げて豪快に笑った。
「はっはっは! やはり、ワシの目に狂いはなかったわ!」
その笑い声は、城中に響き渡った。
「呂布奉先! あの男、まさしく天下の器よ! 堂々と『帝王学』を授けると言い放つか! それでこそ、我が息子を、我が西涼の未来を託した甲斐があるというものよ!」
馬騰は、上機嫌な様子で、傍らに控える老臣に命じた。
「并州へ、礼の品を送る準備をせよ! 我が西涼が誇る、最高の馬と、極上の毛皮をな! 我らの絆は、もはや揺るがぬと、天下に示すのだ!」
一人の若者の不在は、天下の英雄たちの心を、それぞれの思惑で大きく揺り動かしていた。
だが、その中心にいる若者自身は、そんなこととは露知らず、ただひたすらに、土の匂いと、人の温もりの中で、真の強さの意味を学び続けていた。




