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幕間ノ二:二人の姉の眼差し

幕間ノ二:二人の姉の眼差し

その夜、晋陽城の一室。

窓から差し込む月明かりが、卓上に広げられた并州の地図を、青白く照らし出していた。


長女・暁は、昼間、陳宮と議論を交わした屯田制の新たな問題点について、一人、静かに思考を巡らせていた。だが、その集中は、不意に、妹を案じる想いによって断ち切られる。


(華…今頃、無事にしているかしら…)


侍女から、妹が「薬売り」に扮して、父に内緒であの村へ向かったと聞いた時、暁は肝を冷した。領主の娘が、供もろくに付けずにお忍びで村へ行くなど、あってはならないことだ。すぐにでも止めるべきだったのかもしれない。

だが、止められなかった。


「私にできることを、しに行きます」


そう言った時の、妹の、あの強い瞳。それは、ただの子供の感傷ではなかった。一人の女性が、自らの意志で、愛しい人のために立ち上がろうとする、気高い決意の光が宿っていた。

(あの子は、もう、私たちがただ守るだけの、か弱い妹ではないのだわ…)


暁は、筆を置くと、静かに息をついた。

妹の恋。それは、姉として喜ばしい。だが、その喜びと同時に、彼女の胸には、名状しがたい、一抹の寂しさが広がっていた。

華には、馬超様がいる。

飛燕には、槍という、生涯を捧げる道がある。


(…では、私には…?)


彼女の視線が、机に積まれた難解な書物や、複雑な計算が記された竹簡へと落ちる。これが、私の戦う場所。父のため、并州の民のため、この知略を磨くことこそが、私の道だと信じてきた。

だが、その道は、あまりにも孤独だ。

この国の未来を憂い、夜通し議論を交わせる相手は、陳宮様くらいしかいない。そして、その陳宮様も、師ではあっても、友ではない。


(…この并州に、私と同じ言葉を話せる人は、他にいないのだろうか…)

それは、まだ見ぬ誰かへの、淡い、そして切ない憧れであった。妹の恋が、期せずして、彼女自身の心の内にあった「知的な孤独」を、くっきりと浮かび上がらせたのだ。


(頑張りなさい、華)

暁は、自らの感傷を振り払うように、首を振った。

(あなたのその真っ直ぐな想いが、とても羨ましい。姉も、負けてはいられないわね)

姉は、妹の恋路を祝福しながらも、自らが立つべき場所と、向き合うべき未来を、月明かりの下で、静かに見つめ直していた。


その頃、訓練場では、闇の中に、一つの影が躍っていた。

次女・飛燕である。

彼女は、昼間、高順との稽古でつけられた、腕の痣の痛みに耐えながら、一人、黙々と槍を振るっていた。


(…華の奴、馬鹿なことしてるわね)

侍女たちの噂話で、妹の行動は、彼女の耳にも届いていた。

薬売り? 恋?

飛燕には、理解できなかった。男と女の色恋沙汰など、国を守るための武技に比べれば、児戯に等しい。

(あんな西涼の若造にうつつを抜かして…父上が見たら、きっと嘆くわ)


だが、その一方で、彼女の心には、別の感情も渦巻いていた。

それは、羨望にも似た、一種の焦りであった。

姉・暁は、その知性で、父の右腕である陳宮と対等に渡り合い、この并州の未来を論じている。

妹・華は、その優しさで、西涼の若獅子の心を掴み、両国の絆を、血よりも濃いものにしようとしている。

二人とも、それぞれのやり方で、この并州の、そして父のための「力」となっている。


(それに比べて、私は…?)

ただ、槍を振るうだけ。父の武を受け継ぐと言いながら、まだ一度も、本物の戦場で、その力を示したことはない。


(このままじゃ、駄目だ…!)

彼女は、気合と共に、渾身の一突きを放った。槍が、夜の空気を切り裂き、鋭い音を立てる。

(私も、強くならなきゃ。姉様や、華に、負けてなんていられない…!)

(いつか、父上が、姉様が、そして華が…本当に危険な目に遭った時、この槍一本で、全てを守れるくらいに!)


妹の恋は、彼女の武人としての魂に、新たな、そしてより強烈な火をつけた。

それは、嫉嫉ではない。姉妹として、互いを認め合うが故の、健全な競争心。

知の姉は、妹の恋に自らの孤独を重ね、未来を想い。

武の姉は、妹の恋を糧に、さらなる高みを目指す。


華の、たった一つの小さな冒険は、期せずして、二人の姉の心をも、それぞれの形で、強く、そして大きく成長させていた。

并州の三つの花は、寄り添いながらも、それぞれの場所で、自らが咲き誇るべき未来へと、確かに根を伸ばし始めていた。

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