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幕間:慈愛の届け物

幕間:慈愛の届け物

馬超が、その誇りであった鎧を脱ぎ、一人の若者として并州の農村へと旅立ってから、十日が過ぎた。

晋陽の城は、表面上は穏やかだったが、華の心には、静かなさざ波が絶えなかった。


(あの方は、今頃どうしておられるのかしら…)

慣れない農作業に、きっと体を痛めているに違いない。日に焼けた肌、泥にまみれた手、そして、孤独な夜…。その姿を思うたび、彼女の胸はきゅっと締め付けられた。


「…姉様」

その夜、華は長姉・暁の部屋を訪れていた。

「父上は、なぜ、馬超様にあのような試練をお与えになったのでしょう?」


暁は、読んでいた書物から顔を上げると、妹の不安げな顔を見て、優しく微笑んだ。

「華。父上はね、馬超様をいじめているわけではないのよ。むしろ、その逆。父上は、馬超様のその強すぎる力と、純粋すぎる魂が、かつての自分と重なって見えたのだと思うわ。だから、ご自分が通ってきた道を、彼にも歩ませようとなさっているの。独りで戦うのではなく、民と共に立つことの本当の意味を、知ってほしくて」


暁の言葉に、華はハッとした。

(あの方も、父上と同じ…独りで戦っておられるのだわ…)

その瞬間、彼女の中で、ただ案じるだけだった気持ちが、確かな「意志」へと変わった。


(私は、姉様のように賢くもない。飛燕姉様のように、強くもない…でも、私にも、できることがある。私の戦い方が、きっとあるはず…!)


翌日から、華の小さな冒険が始まった。

彼女は、薬草の知識が豊富な老侍女に教えを乞い、自ら城の裏山へと分け入った。切り傷に効くヨモギ、打ち身の熱を取るドクダミ、そして疲労回復に効くと言われる甘草…。その小さな手は、すぐに土で汚れ、棘でかすり傷だ-らけになった。

すり鉢ですり潰す薬草の、青く、苦い香り。その香りに混じって、華の脳裏には、あの人の汗と土の匂いが蘇る。(この薬が、あの方の痛みを、少しでも和らげてくれますように…)。侍女が心配そうに「姫様、お手伝いいたします」と声をかけても、「ううん、大丈夫。これは、私がやらなければ意味がないの」と、彼女は譲らなかった。誰かに任せられるような、そんな簡単な想いではなかったのだ。


数日後。旅の薬売りの娘に扮した華は、侍女一人だけを供に、父には内緒で、馬超がいるという村を目指していた。


村に着くと、男たちが汗だくで畑を耕しているのが見えた。その中に、ひときわ大きく、しかし、どこかぎこちない動きで鍬を振るう、見慣れた後ろ姿があった。

華は、偶然を装い、その畑の近くで薬草を広げ始めた。

「お侍様方、お疲れ様です。旅の薬売りでございます。よろしければ、この傷薬を…」


その声に、馬超が泥まみれの顔を上げた。太陽を背にしたその瞳が、華の姿を捉えた瞬間、彼の時間が、止まった。心臓が、鷲掴みにされたかのように大きく跳ねる。なぜ、ここにいる。夢か? 幻か? 灼熱の大地に咲いた、一輪の花。彼の乾ききった世界に、彼女だけが、鮮やかな色彩を持って存在していた。

「…お前は…華、殿…? なぜ、ここに…」

声が、震えた。


華もまた、彼の、日に焼け、さらに精悍さを増した姿に、そして、その瞳に宿る、隠しようのない熱い喜びに、胸が高鳴るのを感じていた。

「まあ、人違いではございませんか?」

そう言って悪戯っぽく微笑むのが、精一杯だった。


休憩の時間、華は用意してきた薬湯を、水筒に入れて馬超に差し出した。

「…温かい…」

馬超は、その甘く、そして優しい味に、思わず声をもらした。乾ききった体に、その温もりがじんわりと染み渡っていく。それは、ただの薬湯ではなかった。それは、彼女の優しさそのものだった。彼の荒れ果てた心の大地に、初めて降り注いだ、慈雨であった。


「あなたは、あなたのやり方で、民を守ろうとしておられるのですね」

華は、彼の、節くれ立ち、マメが潰れた泥だらけの手を、真っ直ぐに見つめながら、静かに言った。その瞳には、深い尊敬の色が浮かんでいる。


「…ああ」馬超は、照れくさそうに頷いた。「だが、あんたも、あんたのやり方で、民を…そして、俺を救ってくれている」

その言葉は、馬超の本心だった。この少女は、俺の鎧の下にある、ただの弱い男の部分を、いともたやすく見抜き、そして、その全てを肯定してくれる。この少女の前では、西涼の錦馬超である必要はないのだ。


夕暮れの農村。

泥にまみれた若獅子と、薬草の籠を抱いた乙女。

二人の間に流れる時間は、どこまでも穏やかで、そして温かかった。この日を境に、馬超の振るう鍬には、もう迷いはなかった。彼の心には、守るべき人の笑顔が、そして、その笑顔を守るためならば、どんな泥にまみれることも厭わないという、真の王の覚悟が、確かに宿っていたからだ。

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