第二十五ノ三話:飛将の道標
第二十五ノ三話:飛将の道標
庭園でのぎこちない逢瀬から、数日が過ぎた。
馬超の日々は、静かな、しかし確かな変化の最中にあった。彼の槍から、かつてのような刺々しいまでの殺気は消え、代わりに、何かを守るための、重く、そして静かな力が宿り始めていた。
その変化を、呂布は城壁の上から、静かに見下ろしていた。その瞳には、かつての自分に似た若者の、青臭いが確かな成長の兆しを見て取る、満足げな光が宿っていた。
(だが、それだけでは足りん…)
呂布は知っていた。恋という感情は、人を強くもするが、時にその視野を狭め、判断を誤らせる諸刃の剣でもあることを。今の馬超に必要なのは、一人の少女を守るという小さな覚悟ではない。いずれ西涼の民数万の命を背負って立つ、「王」としての覚悟だ。
(ならば、俺が、その道を示してやらねばなるまい。父・馬騰殿に代わり、この俺がな)
彼は、伝令を送り、馬超を自らの私室へと呼び出した。
部屋に入るなり、馬超は以前の無礼な態度とは打って変わって、深く、そして敬意を込めて一礼した。
「呂布将軍、お呼びと伺い、参上いたしました」
「うむ」
呂布は、机に積まれた竹簡から目を上げ、静かに頷いた。その視線は、まるで馬超の心の奥底まで見透かしているかのように、鋭く、そして深い。
「馬超よ。この数日、貴様の槍筋は変わったな。殺気が消え、代わりに重みが増した。何か、良いことでもあったか」
その問いに、馬超は思わず華の笑顔を思い浮かべ、顔を熱くした。図星を突かれ、言葉に詰まる。
呂布は、その様子を見て、ふっと口元を緩めた。
「…良い眼をするようになった。だが、それだけでは足りん」
呂布は、立ち上がると、窓の外、遥か彼方に広がる并州の大地を指さした。
「お前の武は、まだ脆い。それは、お前がまだ、本当の『重み』を知らぬからだ。真の強さを知りたければ、我が下で、もう一つの戦いを学んでいくか?」
その言葉に、馬超の瞳が輝いた。
「はっ! 望むところであります! いかなる武のご指導も、謹んでお受けいたします!」
彼は、呂布から直接、あの神の如き武技を伝授してもらえるのだと、胸を高鳴らせた。
だが、呂布の口から出た言葉は、彼の予想を遥かに超えるものだった。
「俺が教えるのは、武の技ではない」
呂布は、厳かに告げた。
「これより三月、お前には、その錦の鎧を脱ぎ、槍を置いてもらう。そして、この并州の、とある農村で、民と共に暮らせ」
「なっ…!?」
馬超は、耳を疑った。鎧を脱ぎ、槍を置け、だと? 農民と共に暮らせ、だと? それが、強くなるための修行だというのか。
「呂布将軍、それは、一体…?それに、私は父からの使者。これ以上、長居することは…」
「お前の父には、俺から文を送る」
呂布は、馬超の懸念を、こともなげに遮った。
「こう伝える。『貴殿の嫡男・孟起、我が并州と西涼の、未来の懸け橋となるべき器。故に、今しばらく、我が元で預かり、帝王学を学ばせる』と。――これならば、誰も文句は言うまい」
その言葉に、馬超はハッとした。呂布は、自分の修行のためだけでなく、この長期滞在を、両国の外交問題に発展させないための「大義名分」まで、既に用意していたのだ。
「良いか、馬超。民と共に鍬を握り、同じ飯を食い、同じ屋根の下で眠れ。彼らの喜びを、そして、その痛みを、お前のその肌で感じるのだ」
呂布は、自らの掌を馬超の前に広げて見せた。そこには、今もまだ、硬いマメの跡が残っている。
「このマメの痛みが、俺に本当の『重み』を教えてくれた。俺は、顔良・文醜の首を獲った。だが、その腕で、飢えた民の腹を満たすことはできんかった。戦場で流す血よりも、民が畑で流す汗の方が、国を支える上では、遥かに尊いことを知ったのだ。お前の槍に足りぬのは、技ではない。その槍で、一体何を背負うのかという、覚悟の重みだ。それが分からねば、お前の槍は、生涯、ただの鉄の棒のままだ」
呂布の言葉は、まるで雷のように、馬超の魂を撃った。
民と共に暮らす。鍬を握る。その痛みを知る。
それは、呂布自身が、あの深い絶望から立ち上がるために通った道。彼は、その最も大切な経験を、自分に分け与えようとしてくれているのだ。父・馬騰が自分に学ばせようとした「真の強さ」の答えが、そこにある。そう、馬超は直感した。
戸惑いは、もうなかった。
代わりに、彼の胸には、この偉大な王への、揺るぎない尊敬の念が、熱い奔流となって込み上げていた。
馬超は、その場に深く膝をつき、力強く答えた。
「…御意。この馬孟起、必ずや、将軍のご期待に応えてみせます」
その日、西涼の若獅子は、誇りであった白銀の鎧を脱ぎ捨て、一人の若者として、并州の土を踏みしめる旅に出た。
彼の背中を、城壁の上から、三人の姉妹が見送っていた。
暁は、父の深慮に静かに頷き、飛燕は、「槍も置くなんて、つまらない」と唇を尖らせ、そして華は、遠ざかっていく馬超の背中を、胸を押さえながら見送っていた。傍らの侍女に、「あの方が向かう村を、そっと調べておいてちょうだい」と、小さな、しかし決意に満ちた声で囁く。彼女の瞳には、ただ待つだけではない、自らもまた行動しようとする意志の光が宿っていた。




