第二十五話:癒やしの花
第二十五話:癒やしの花
夜明けと共に始まった馬超の鍛錬は、日がな一日続いた。
呂布に完膚なきまでに打ちのめされたあの日から、彼の日常は変わった。
灼けるような悔しさはとうに昇華され、今はただ、遥かなる高みへの純粋な渇望が、彼の若い肉体を突き動かしていた。
焦りも、気負いもない。
ただ、己の槍の軌道を、呼吸を、そして心臓の鼓動を確かめるように、無心で振り続ける。
昼過ぎには、その鬼気迫る様子に、百戦錬磨であるはずの并州の兵士たちですら声をかけることもできず、ただ畏敬の念をもって遠巻きに見守るだけとなっていた。
(まだだ……まだ足りぬ……)
彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、呂布のあの静かな佇まい。
嵐の中心にいながら、その瞳だけは湖面のように凪いでいた、あの絶対的な強者の姿。
(強さとは何だ……? 呂布将軍が持つ、あの山の如き重みは、一体どこから来るのだ……?)
答えのない問いを胸に、ただひたすらに汗を流す。
それが、今の彼にできる、唯一のことだった。
夕暮れが近づき、彼の槍が空気を切り裂く鋭い音だけが響く訓練場に、ふと、涼やかな風が吹き抜けた。
乾いた土埃の匂いに混じって、どこからか、花の蜜のような微かに甘い香りが届く。
その風に乗って、澄んだ鈴を転がすような、柔らかな声が聞こえてきた。
「……大丈夫よ、もう痛くないわ。すぐに、お空に帰れるからね」
馬超は、ハッとして動きを止めた。
滴り落ちる汗を拭うのも忘れ、声のする方へ目をやる。
訓練場の片隅、古びた井戸のそばに、一人の少女がしゃがみ込んでいるのが見えた。
年の頃は、十五、六といったところだろうか。亜麻色の髪を風になびかせ、その立ち姿は柳のようにしなやかで、どこか儚げな雰囲気を漂わせている。
だが、その瞳には、子供とは違う、芯の通った穏やかな光が宿っていた。
呂布の三女、華である。
彼女は、その小さな手のひらの上に、傷ついて飛べなくなった一羽の小鳥を乗せ、そっと息を吹きかけていた。
その眼差しは慈愛に満ち、その仕草の一つ一つが、まるで薄氷に触れるかのように優しい。
「ほら、これを少しだけ食べて。きっと、元気になるわ」
懐から取り出した僅かな穀物を、小鳥の口元へ運んでやる。
馬超は、その光景から目が離せなかった。
西涼という、力こそが全ての世界。弱き者は、強き者に食われるか、あるいは見捨てられるのが当然の理。傷ついた獣がいれば、止めを刺すことはあっても、手当てをすることなど考えたこともなかった。
だが、目の前の少女は違う。
彼女は、その小さな命を、まるで天下の至宝であるかのように、慈しみ、守ろうとしている。
その姿は、馬超がこれまで生きてきた世界の法則とは、全く相容れない、異次元の光景であった。
小鳥が、安心したように彼女の指先で小さくさえずった。
その瞬間、華の顔に、花がほころぶような、無垢な笑みが浮かんだ。
その笑顔を見た馬超の胸に、今まで感じたことのない、雷に打たれたような、しかし温かい衝撃が走った。
彼の、戦いと誇りだけで武装してきた、荒々しく、そして孤独だった魂が、その純粋な優しさの前に、音もなく溶かされていくのを感じた。
まるで、万年雪に覆われた西涼の頂に、初めて春の陽光が差し込んだかのように。分厚い鎧の隙間から、温かい光が差し込んでくるような、不思議な感覚。
これが、「癒やし」というものなのか。
「あ……」
華が、馬超の視線に気づいた。
見知らぬ、しかも鎧を着た偉丈夫が自分を見ていたことに驚き、彼女の肩がびくりと震える。その拍子に、彼女の白い頬が、夕陽の色とは違う、淡い紅色に染まった。
馬超は、自分が彼女を怖がらせてしまったこと、そして見惚れていたことへの恥ずかしさから、慌てて槍を地面に置いた。
「……すまない。邪魔をするつもりはなかった」
彼の口から出たのは、自分でも驚くほど、不器用で、そして穏やかな声だった。
「その鳥……怪我をしているのか」
「は、はい……」
華は、まだ少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「翼を……カラスにやられてしまったみたいで……」
その声は、か細く、しかし芯のある、澄んだ響きを持っていた。
馬超は、ゆっくりと彼女に近づくと、その前に膝をついた。彼の大きな影が、少女と小鳥をすっぽりと覆う。
「……そうか。俺には、何もしてやれん。戦うことしか、知らんからな」
その言葉は、自嘲ではなく、偽らざる本心だった。
華は、目の前の大きな武人の瞳に、怒りや傲慢さではなく、深い悲しみと、そしてどこか子供のような純粋さがあるのを見て取った。
(この人も、きっと、傷ついているのだ)
そう、彼女は直感した。
「……いいえ」
華は、静かに首を振った。その瞳は、彼の鎧ではなく、その奥にある魂を真っ直ぐに見つめていた。
「あなたは、強いお方です。その強さで、きっと、たくさんの人たちを守っておられるはずです。この子のような、弱いものを守るために、あなたは戦っておられるのでしょう?」
その、あまりにも真っ直ぐで、曇りのない言葉。
馬超は、まるで心臓を直接掴まれたかのような衝撃に、言葉を失った。
(守るため……? 俺が? 違う。俺は、ただ、己の武威を示すためだけに槍を振るってきた。守るべきものなど、考えたこともなかった)
だが、この少女は、俺の槍の先に、そんな気高い意味を見出してくれている。
そして、初めて、誰かにそう言われることが、これほどまでに心を揺さぶるものなのだと知った。
「……そう、だといいのだがな」
馬超は、照れくさそうに、そして少しだけ寂しそうに笑った。
華もまた、その不器用な笑顔を見て、つられて、ふふっと小さく微笑んだ。
彼女の胸の鼓動が、少しだけ速くなるのを感じた。
「……そろそろ、夕餉の支度をせねば」
華は、名残惜しそうに立ち上がると、小鳥を大切そうに懐へしまった。そして、馬超に向かって、ぺこりと可憐に頭を下げる。
「お稽古、頑張ってくださいませ。あなた様のように強いお方が、父上の味方でいてくださることが、とても心強いです。……ですが、どうか、ご無理だけはなさらないでくださいね。あなたのその手……とても、痛そうですから」
華の視線が、彼の槍ダコと傷でごつごつになった拳に、一瞬だけ注がれた。
その眼差しには、武への尊敬だけでなく、彼の痛みへの、純粋な共感が宿っていた。
その言葉を残し、彼女は夕陽の中へと歩み去っていく。
その小さな背中が、城の影に消えるまで、馬超はただ、見送ることしかできなかった。
一人残された訓練場に、馬超はただ立ち尽くしていた。
華が去っていった方角を、いつまでも見つめている。
陽はとっくに落ち、空には一番星が瞬き始めていた。
あの少女の笑顔が、声が、そして、陽だまりのような優しい香りが、脳裏から離れない。
「守るため……か」
彼は、自らの掌を見つめた。
呂布に敗れ、ただ虚しさと渇望だけが宿っていたはずのこの手に、今、確かな温もりが残っているような気がした。
その夜、馬超は、眠れずに寝台の上で何度も寝返りを打った。
鍛錬にも身が入らない。槍を構えても、脳裏に浮かぶのは敵の姿ではなく、あの少女の、花がほころぶような笑顔ばかり。
(一体、どうしてしまったのだ、俺は……)
戦場の興奮とは全く違う、胸を締め付けるような、しかしどこか心地よい「心のざわめき」。
彼は、その正体が分からぬまま、ただ、明日もまたあの少女に会えるだろうか、と、生まれて初めて戦以外のことを考えて、長い夜を過ごすのであった。




