幕間:若獅子の葛藤
幕間:若獅子の葛藤
夜の闇は、勝者の安らぎも、敗者の呻きも、等しく無慈悲に飲み込んでいく。
晋陽城で馬超にあてがわれた客室は、西涼の武骨な彼の居城とは比べ物にならぬほど豪奢だった。上質な絹の寝具、磨き上げられた卓。だが、その全てが、今の彼には己の敗北を嘲笑うかのような、冷たい輝きを放っているようにしか見えなかった。
彼は、力なく寝台に腰掛けていた。
傍らには、彼の魂の半身であるはずの白銀の長槍が、主の心を映すかのように光を失い、今はただの重い鉄の棒として、壁に無造作に立てかけられている。
目を閉じても、開いても、脳裏で同じ光景が繰り返し再生される。
夕暮れの訓練場。自分の渾身の突きが、まるで子供の戯れのように、コン、コン、と軽い音を立てて弾かれた、あの乾いた感触。最後の力を振り絞った一撃が、水面に映る月を掴もうとするかのように虚しく空を切り、気づけば喉元に突きつけられていた木槍の、冷たい穂先。
「なぜだ…?」
絞り出すような声が、静かな部屋に虚しく響いた。
「なぜ、俺の槍は届かなかった…?」
西涼では、敵なしだった。羌族の猛者も、同盟部族の勇士も、この錦馬超の槍の前には誰もがひれ伏した。その絶対的な自信が、今日、音を立てて砕け散った。并州の鬼神、呂布奉先。あの男の前で、自分はまるで、初めて槍を握った幼子同然だった。
無意識に、鍛え上げた右腕を強く握りしめる。そこには、西涼最強を自負してきた、鋼のような筋肉が確かにある。だが、この力が、あの男の前では何の役にも立たない。その絶対的な事実が、彼がこれまで生きてきた世界の法則そのものを、根底から破壊していた。
「ぐっ…!」
込み上げる苛立ちに、彼は寝台から立ち上がり、獣のように部屋の中を歩き回る。その時だった。まるで熱した鉄を耳に突っ込まれたかのように、呂布の言葉が、脳内で鋭く響き渡った。
『お前のその槍は、何のために振るう?』
『お前の父、馬騰殿も、それを案じているのではないか…』
ハッとして、馬超の足が止まる。
そうだ。父上は、言っていた。并州へ旅立つ直前、自分にこう告げたのだ。
『超よ、良いか。并州の呂布殿は、ただの武人ではない。その目に、耳に、彼の為すこと、言うことの全てを焼き付けてこい。それこそが、我が馬家にとって、千の兵に勝る財産となるだろう』
あの時の自分は、父の言葉の真意を理解していなかった。「俺ほどの武人がいれば十分だろう」と、その心のどこかで、偉大な父を侮ってさえいた。だが、今なら分かる。
父上は、全て、分かっていたのだ。
「まさか…」
馬超の唇が、わななく。
「父上は、初めから…俺が、呂布将軍に敗れることを見越して…? いや、違う。俺を、この人に打ちのめさせるために、この并州へ…?」
その気づきは、雷光のように彼の魂を貫いた。
父が自分に託したのは、同盟の使者という役目だけではなかった。それは、驕り高ぶる息子に、世界の広さと、真の強さとは何かを学ばせるための、あまりにも厳しく、そして深い愛情に満ちた「試練」だったのだ。
父の真意を悟った瞬間、馬超の心を満たしていた灼熱の悔しさが、すうっと潮が引くように消えていく。そして、その後に残されたのは、己の未熟さに対する、どうしようもないほどの恥じらいと、一つの強烈な「渇望」だった。
彼は、吸い寄せられるように窓辺へ歩み寄った。
月明かりに照らされた晋陽の城壁は、彼が故郷で見てきたどんな城よりも、堅牢で、そして、民の暮らしを守っているという温かみに満ちているように見えた。
「呂布将軍…」
自然と、その名が口をついて出る。
「あの人は、ただ強いだけではない。民を思い、俺のような若造の心まで見抜く、計り知れない器がある…。あれが、真の『王』の姿なのか…」
西涼で最強であることだけを目指してきた自分が、ひどく矮小で、そして空っぽな存在に思えた。
生まれて初めて、彼は己の槍が「何のためにあるのか」を、本気で考え始めていた。父のため、一族のため。だが、その先にあるべきものは、一体何なのだ? 呂布将軍が見ている景色、背負っている重みとは、一体、どれほどのものなのか。
「俺も、あの人のようになりたい。いや、ならねばならない…!」
父が、自分に本当に継がせたかったもの。それは、西涼最強の武人の名ではなく、西涼の民を導く、真の「王」としての道だったのだ。
馬超の瞳から、悔し涙の代わりに、夜明け前の星のような、静かで、しかし強い決意の光がこぼれ落ちた。
東の空が、暁の色に染まり始める。
馬超は、無造作に立てかけていた白銀の槍を、今度は両手で丁寧に、そして深い敬意を込めて手に取った。その冷たい感触が、彼の燃える魂を、心地よく鎮めてくれる。
彼は部屋を出て、まだ誰もいない、朝霧に包まれた訓練場へと向かった。
誰に命じられたわけでもない。ただ、己の未熟さと向き合い、それを克服するために。
訓練場の真ん中で、朝日を浴びながら、彼は一人、槍を構えた。その姿は、昨日までの自信に満ちた若獅子ではない。己の弱さを知り、それでもなお、遥かなる高みを目指して、最初の一歩を踏み出した、一人の求道者の姿であった。
この孤独な鍛錬が、やがて彼を新たな出会いへと導くことになるのを、彼はまだ知らない。ただ、今は無心に、槍を振るう。その一振り一振りが、過去の自分を殺し、新たな自分を形作っていく、神聖な儀式であるかのように。




