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第五話:泥中の獅子

第五話:泥中の獅子

黒山賊の執拗なゲリラ攻撃は、昼夜を問わず続いた。峻険な山岳地帯に巧みに身を潜め、呂布軍の進軍路には巧妙な落とし穴が掘られ、夜になれば、少数の精鋭部隊が物音もなく陣営に忍び寄り、放火や奇襲を仕掛けては、闇に紛れて姿を消す。指揮しているのは、姿を見せない軍師・于毒であろう。彼の張り巡らした悪意の網は、じわじわと并州の精鋭たちを蝕んでいった。


夜襲で負傷した兵が、薬もなく苦しみながら死んでいく。乏しい兵糧を分け合う兵たちの、沈んだ目。呂布の焦りは、兵を思う気持ちから来ていたが、それが空回りし、彼の心をさらに追い詰めていた。


「奉先様、兵糧が…! このままでは、あと三日も持ちませぬぞ!」老将・張譲が、やつれた顔で悲痛な報告を上げた。ゲリラ部隊によって後方の補給線が寸断され、輸送が完全に滞ってしまっているのだ。


「何だと!?」呂布は苛立ちのままに叫んだ。「奴らの拠点が近くにあるはずだ! 俺が赤兎と共に見つけ出し、叩き潰してくれる!」


「待て、奉先!」軍議の席で地図を睨んでいた丁原が、鋭い声で制した。「それは敵の思う壺だ。下手に突出すれば、それこそ全滅の罠にはまるやもしれんぞ」

「では、どうしろと!? このまま指をくわえて、飢え死にを待てと申されるか!」呂布は食ってかかった。

「落ち着け、奉先」丁原の声は静かだったが、有無を言わせぬ威厳があった。「今は耐える時だ。焦りは判断を鈍らせる。于毒という男、相当な知恵者と見える。こちらも策を練ねばならん」


だが、有効な策は見いだせないまま、時間だけが過ぎていく。兵たちの間からは、囁き声が聞こえ始めた。「奉先様の力押しだけでは、この戦は勝てんのではないか…」


「なあ、聞いたか? この先の麓の村に、旅の学者先生がいるらしい。何でも、俺たちの動きや賊の罠の位置を、まるで見てきたかのように言い当ててるって話だ」

「馬鹿言え、そんな奴がいるもんか。どうせ賊の間者だろう」


そんな真偽不明の噂すら、藁にもすがりたい兵たちの間で囁かれていた。そして、そうした声は呂布の耳にも届き、自らの無策を責められているようで、彼のプライドを深く傷つけた。


その夜、呂布はついに痺れを切らし、密かに陣営を抜け出そうとした。赤兎に跨り、単独で敵の拠点を探し出すつもりだった。(俺の武があれば、たとえ罠であろうと突破できるはずだ!)


しかし、陣営の出口で、彼は丁原と、そして厳しい表情の張譲に行く手を阻まれた。

「奉先! 何をしておる!」丁原の声は、怒りに震えていた。

「…!」呂布は言葉に詰まり、バツが悪そうに視線を逸らした。

「お前の気持ちは痛いほど分かる。だが、総大将がこのような軽率な行動を取ってどうする! それでは、先の匈奴戦の反省が全く活きておらぬではないか! あの時、何を学んだのだ!」


丁原の叱責は、雷のように呂布の心に突き刺さった。そうだ、自分は反省したはずだ。力だけでは駄目だと、智の重要性を痛感したはずだ。それなのに…。


「お前の気持ちは痛いほど分かる。ワシも若い頃、同じ過ちを犯した。だからこそ、お前には同じ轍を踏んでほしくないのだ!」丁原の口調が、怒りから悲痛なものへと変わる。


呂布は、ぐっと唇を噛みしめ、馬上から下りると、丁原の前に膝をついた。

「……申し訳、ございません、親父殿。俺が、浅はかでございました」


返す言葉もなかった。傍らに立てかけられた方天画戟が、今はただの重い鉄の棒にしか見えない。信頼する相棒、赤兎のいななきすら、己の無力さを嘲笑うかのように聞こえた。彼は、泥のついた自らの拳をただ強く握りしめる。この拳は、一体何人の敵を屠ってきた? だが、今、この見えざる敵の前には、赤子の腕ほどにも役に立たない。深い無力感が、彼の巨躯を打ちのめした。彼は、初めて本気で「智」を渇望した。自分の武を、正しく導いてくれる「知恵」を。


その時だった。陣営の入り口で見張りをしていた兵士が、困惑した様子で駆け寄ってきた。

「申し上げます! 陣門の外に、呂布将軍にお目通りを願いたい、と申す怪しい男が一人…」

「怪しい男?」

「身なりは粗末ですが、妙に落ち着いておりまして…名を、陳宮、字は公台と名乗っております」


陳宮公台…? 聞き覚えのない名だった。だが、呂布は、何かに引かれるように言った。

「…会ってみよう」


陣幕の中に通された男は、年の頃は四十前後か。痩せた体に、埃っぽい旅装束。しかし、その眼光は、暗がりの中でも炯々(けいけい)と鋭く光り、尋常ならざる知性を感じさせた。彼は、物陰からじっと呂布軍の様子――疲弊した兵士、呂布と丁原のやり取り――を観察していたのだ。呂布という人物を値踏みし、仕えるに足るかを見極めに来た「面接」の場であった。


「夜分遅くにまかり越しまして、失礼仕つかまつります。それがし、陳宮ちんきゅう、字を公台こうだいと申す者。呂布将軍に、お目通りを願いまかり越しました」


その声は落ち着いており、不思議な説得力があった。呂布の、そして并州の運命を変える出会いが、この泥中の陣営で、静かに始まろうとしていた。

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