幕間ノ二:江東の虎、星と墜つ
幕間ノ二:江東の虎、星と墜つ
西暦一九二年、春。江東、長沙。
出陣を明日に控えた孫堅の屋敷は、慌ただしい喧騒の中にあった。今回の標的は、荊州の劉表。盟友であったはずの袁術の、半ば脅迫に近い命令による、気乗りのしない戦であった。
「…策」
夜、自室で武具の手入れをしていた孫堅は、背後に立つ息子の気配を感じ、静かに呼びかけた。
振り返ると、そこには父譲りの精悍な顔つきを持つ、若き獅子が立っていた。まだ若いが、その瞳の奥には、父の血を色濃く受け継いだ、抑えきれぬ野心の炎が揺らめいている。嫡男・孫策であった。
「父上。此度の戦、本当に行かねばなりませぬか。袁術の魂胆は、我ら江東の兵を削ぎ、父上の牙を抜こうというもの。見え透いております」
孫策の声には、若さゆえの憤りと、父を案じる心が滲んでいた。
「分かっておる」孫堅は、愛用の古錠刀を布で磨きながら、静かに答えた。「だが、行かねばならん。今の我らに、袁術と事を構える力はない。今は、耐える時だ」
彼は、ふと手を止め、孫策の顔をじっと見つめた。
「策よ。貴様は、己の武に絶対の自信を持っておろう」
「はっ。父上には及びませぬが、江東にこの孫策を超える者はおりませぬ」
その自信に満ちた答えに、孫堅はフッと笑みを漏らした。
「ならば、話しておかねばならんな。北には、お前やワシの常識では測れぬ男がいることを」
孫堅の脳裏に、あの赤い武人の姿が鮮やかに蘇る。
「并州の呂布奉先。酸棗で、その武を垣間見た。あれは…獣だ。いや、獣ですらない。人の形をした、天災そのものだ」
孫堅の声には、武人としての純粋な畏怖がこもっていた。
「ワシらの武が、鍛え上げた技と駆け引きの上にあるものならば、あの男の武は、ただ、そこにあるだけの理不尽な力よ。策よ、覚えておけ。この天下は広い。我らの知る武勇など、児戯に等しいと思わせるほどの『鬼神』が、北には確かに存在するのだ」
孫策は、父がこれほどまでに他の武人を評価するのを初めて聞き、息をのんだ。呂布奉先。その名が、彼の心に深く刻み込まれた瞬間であった。
「…いずれ、まみえることもあるやもしれん。その時は、決して正面から挑むな。虎が、嵐と戦わぬのと同じことよ」
孫堅はそれだけ言うと、再び刀の手入れに戻った。
そして、数ヶ月後。
荊州、襄陽城近郊の峴山。
冷たい雨が降りしきる中、江東の猛虎・孫堅は、敵の巧妙な伏兵の罠にかかり、無数の矢にその身を貫かれていた。
「ぐ…ぉ…」
血の泡を吹きながら、孫堅はその場に崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、彼の脳裏に浮かんだのは、ただ一つ。
江東の地で、自分の帰りを待っているであろう、息子・孫策の、まだ幼い、しかし野心に満ちた顔。
(…すまぬ、策…父は、ここまでだ…)
(…だが、我が魂は、貴様の中で生き続ける…)
(…行け、我が息子よ。この父を超え、天下をその手に…)
江東の虎は、最後に、我が子の輝かしい未来を夢見ながら、静かに息絶えた。その赤い兜は、降りしきる雨と、自らの血で、さらに深く、赤黒く染まっていた。
この日、江東の地に巨星墜つ。
その報せは、やがて、父の兵を継ぐことも許されず、袁術の下で雌伏の時を過ごすことになる若き獅子、孫策の魂に、復讐と独立という、新たな炎を燃え上がらせることになるのであった。
乱世は、一人の英雄の死を悼む間もなく、次なる英雄の誕生を、静かに促していた。




