幕間:西涼の風、北の鬼神を想う
幕間:西涼の風、北の鬼神を想う
西涼、金城。
漢の都・長安の華やかさとは対極にある、乾いた風と、砂と、そして鉄の匂いが支配する、武骨な城。その城主である馬騰は、一人、広大な地図を前に、深い思索に沈んでいた。彼の顔に刻まれた深い皺は、西涼の厳しい自然と、絶え間ない羌族との戦いが刻んだ、年輪そのものである。
(李傕、郭汜め…董卓という虎がいなくなり、己らが狼の王にでもなったつもりか…)
馬騰の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。長安を牛耳る同郷の者たちへの侮蔑と、その勢いを座視できぬという焦り。それが、并州との同盟を考えさせた、直接のきっかけであった。
彼の指が、地図の上を滑る。長安、并州、そして自らのいる西涼。この三つの土地の力関係こそが、今後の西の安寧を左右する、と馬騰は読んでいた。
(李傕・郭汜は、いつ我が西涼に牙を剥くやも知れぬ。奴らを牽制するには、奴らの背後を脅かす存在が必要だ)
その存在こそが、并州の呂布。
呂布は、先の戦で袁紹という巨大な敵を東に退けた。彼にとっても、背後を脅かす李傕・郭汜は厄介な存在のはずだ。
(敵の敵は味方。呂布と手を結び、互いの背中を守り合う。これぞ、乱世を生き抜くための定石よ)
軍事同盟を結び、李傕・郭汜が動けば、東西から挟撃する。その形さえ作れれば、奴らも迂闊には手出しできまい。この同盟は、我が馬家が生き残るための、必要不可欠な一手であった。
だが、彼の思考は、それだけでは終わらない。彼の視線は、地図の上から、城の訓練場の方角へと向けられていた。
そこでは、今日も、息子・馬超の、常人離れした雄叫びと、槍が風を切る鋭い音が響いているはずだ。
我が息子、馬超。
その武は、まさしく神童。西涼広しといえども、その右に出る者はいない。白銀の鎧を纏い、獅子の如く戦場を駆けるその姿は、我が馬家の誇り。
(…だが、それ故に、危うい)
馬騰は、誰に言うでもなく呟いた。
息子は、まだ「力」しか信じていない。強き者が弱き者を支配し、全てを奪う。それが、この西涼の掟であった。だが、それでは駄目なのだ。反董卓連合の醜態、そして呂布のその後の義挙は、馬騰に、この乱世を勝ち抜くためには、武力だけでは足りぬことを痛感させていた。
力は、いつか、より大きな力に打ち砕かれる。
驕りは、いつか、思わぬ罠によって足元を掬われる。
今の馬超は、あまりにも鋭く、あまりにも脆い、抜き身の宝剣そのもの。その輝きは、いつか我が馬家そのものを、滅びへと導きかねない。
(誰か…誰か、この息子の、天狗になった鼻をへし折ってくれる者はいないものか…)
その時、彼の脳裏に、一つの噂が閃光のように蘇った。
并州の呂布奉先。
天下無双と謳われる、北の鬼神。
だが、馬騰が注目したのは、その武勇だけではない。彼が最近、長安や并州との間を行き来する商人たちから、奇妙な話をしきりに耳にするようになっていたのだ。
「并州の様子が、どうも変わってきた」
曰く、先の袁紹との大戦の後、并州は荒廃するかと思いきや、むしろその逆。新しい領主・呂布の下で、厳格な法が敷かれ、領内の治安が驚くほど安定しているという。これまで并州との交易を妨げてきた山賊や小規模な異民族の略奪が、ぴたりと止んだ。
曰く、并州の関所では、不当な通行税を要求されることがなくなり、公正な取引ができるようになった。
そして、何よりも商人たちが驚いていたのは、飢えていたはずの民の顔に、少しずつではあるが、活気が戻り始めているという事実であった。
(あの呂布が…? ただの猛将ではなかったのか…?)
馬騰は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
武の頂点を極めた男が、その力を、民を威圧するためではなく、その暮らしを守り、豊かにするために使い始めた。それこそが、真の「強さ」ではないのか。民の心を得ることこそが、真の「領主」の姿ではないのか。それこそが、我が息子に、最も欠けているものではないのか。
(…この男しかいない)
馬騰の心は、決まった。
息子・馬超を、呂布の元へ送る。
この一手は、西涼の安全保障という戦略的な利益と、息子の教育という個人的な願いを、同時に叶える、まさに一石二鳥の妙手であった。
あの呂布という男ならば、息子のその傲慢な牙を、力で、そして器で、へし折ってくれるに違いない。
そして、その過程で、馬超が呂布という「本物」に心服し、両家の間に確固たる信頼関係が生まれれば、この同盟は、ただの軍事協定を超えた絆となるだろう。
それは、父として、そして君主として、一族の未来に投じることができる、最高の布石であった。
「…超よ。并州の風に吹かれて、少しは大人しくなって帰ってこい。そして、真の王の器とは何かを、その目に焼き付けてくるのだ」
馬騰は、遠い并州の空を見上げ、独りごちた。その顔には、一族の未来を案じる君主の顔と、どうしようもなく手がつけられぬ息子を、より大きな存在に委ねようとする、一人の父親の顔が、複雑に浮かんでいた。
西涼の乾いた風が、彼の深謀遠慮を、北の大地へと運んでいくかのようであった。




