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幕間ノ二:軍師の思惑

幕間ノ二:軍師の思惑

呂布が、まるで何かに取り憑かれたかのように城を出てから、五日が過ぎた。

晋陽城には、主君不在という、これまで経験したことのない静けさと、そして隠しきれない不安が、濃い霧のように漂っていた。


軍議の間。空席となった玉座を前に、将たちの間からは、心配と苛立ちの混じった声が漏れていた。

「将軍は、一体どこへ行かれたのだ…」

「また、黒狼族の時のように、独りで無茶をなされておるのではあるまいな…」

「このままでは、兵たちの士気にも関わるぞ!」


その喧騒の中心で、陳宮だけは、まるで嵐の目の中にいるかのように、静かに目を閉じていた。彼は、将たちの不安を一手に受け止めながらも、その表情には一切の動揺を見せない。やがて、彼はゆっくりと目を開くと、その怜悧な光で、その場にいる全ての将を見渡した。


「静まられよ」

その声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。

「将軍は、今、我らには見えぬ敵と戦っておられる。この并州の、最も手強く、そして最も重要な敵と、だ。我らにできることは、ただ一つ。将軍が、後顧の憂いなくその戦に集中できるよう、この城を、この国を、鉄壁の如く守り抜くこと。そして、主君の帰りを、ただ信じて待つこと。それだけだ」

陳宮の、揺るぎない確信に満ちた言葉に、将たちは反論できず、それぞれの持ち場へと戻っていった。


一人残された軍議の間で、陳宮は、主のいない空の玉座を見つめた。

(見えぬ敵、か…)

彼は、自嘲気味に呟いた。

(それは、某が将軍に突きつけた刃でもあったな…)

『あなたの武は、この敵を倒せますか』

あの時、自分は、この不器用で誇り高い主君が、必ずや自らの目でその「敵」を見に行くだるうことを、確信していた。そして、主君自身もまた、その必要性を、言葉にはせずとも理解されていた。二人の間で交わされた無言の合意。それは、軍師として、主君を真の王へと導くための、危険な、しかし必要不可欠な一歩であった。


自室に戻った陳宮は、机の上に広げた二つの地図を、交互に睨んでいた。

一つは、并州と冀州の国境線が引かれた、軍事地図。東の袁紹は、先の敗戦の痛手から、大きな動きは見せていない。だが、あの名門の誇りをズタズタにされた男が、このまま黙っているはずがない。斥候からの報告によれば、国境沿いの砦では、兵の入れ替えが少しずつ行われているという。それは、攻めるためではなく、守りを固めるための動きだろう。だが、それは同時に、我らへの警戒を解いていない証拠でもあった。

そして、もう一つは、并州全土の、各郡の収穫高と人口が記された、内政地図。そこには、赤インクで無数の印がつけられている。水不足に悩む村、凶作で流民が出ている郡、戦で働き手を失い、荒れ果てたままの土地…。


(将軍…あなたは今、こちらの地図の上を、歩いておられるはずだ)

(戦場で敵の首を獲ることの容易さと、民の腹を満たすことの難しさを、その肌で、その心で、感じておられるはず)

陳宮は、目を閉じた。脳裏に、呂布の、あの苦悩に満ちた顔が浮かぶ。

張譲殿の死は、あなたに深い傷を与えた。だが、その傷こそが、あなたを真の君主へと変える。その傷口から、民の痛みを知る心が、流れ込んでくるはずなのだ。


これは、賭けではない。

陳宮は、自らの心を戒めるように、首を振った。

これは、主君の成長を信じるが故の、軍師としての、深き「思惑」。


(どうか、将軍。民の声に、大地に刻まれた痛みに、その耳を、その心を傾けてくだされ)

(そして、見つけ出してくだされ。あなたのその天賦の武を、真に振るうべき理由を)


もし、呂布が、この試練に耐えきれず、ただの暴君と化すか、あるいは絶望に沈んでしまえば、この并州は終わる。自分もまた、主君選びに敗れた、ただの愚かな軍師として、歴史の闇に消えるだけだ。


(だが…)

陳宮の口元に、ふっと、乾いた笑みが浮かんだ。

(…もし、あの方が、この国の全ての痛みをその背に負う覚悟を決めて戻ってこられたなら…)

その時こそ、この并州に、そしてこの乱世に、真の王が誕生する。

その瞬間に立ち会えるのなら、この身を賭すに値する。


軍師の冷徹な計算は、いつしか、一人の男の成長を信じる、純粋な祈りへと変わっていた。

陳宮は、主君の帰りを、ただ静かに、そして確信をもって待ち続けていた。

彼の思惑通り、主君は今、并州の乾いた大地の上で、自らの運命を、その手で掴み取ろうとしていた。

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