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第二十三話:土に触れる日

第二十三話:土に触れる日

張譲の死という深い悲しみを乗り越え、呂布が領主としての覚悟を決めてから数日が過ぎた。晋陽城を覆っていた重苦しい空気は、主君の覚醒と共に少しずつ、しかし確実に晴れつつあった。だが、呂布の本当の戦いは、ここから始まる。


彼の私室。かつて壁際に無造呈に立てかけられていた武具は片隅に寄せられ、代わりに机の上には竹簡の山が築かれていた。窓から差し込む朝日に部屋の埃がキラキラと舞っている。呂布は、左腕にはめられた張譲の腕輪を右手の指で静かになぞっていた。その革の感触が、二人の父の存在を今もすぐそばに感じさせてくれるようだった。


そこへ、陳宮が音もなく入室してきた。

「将軍、お加減は」

「ああ」呂布は短く応えると、顔を上げた。その瞳にもう迷いの色はない。「陳宮、よく来てくれた。ちょうど、貴様に聞きたいことがあった」


陳宮は呂布のその変化に安堵しつつも、敢えて労いの言葉はかけなかった。主君が真に立ち上がった今こそ、軍師として厳しい現実を突きつける時だと覚悟していたからだ。

彼は一枚の羊皮紙を呂布の前に広げた。そこには先の戦の死傷者数、残存兵糧、そして領内の村々から寄せられた悲痛な陳情が、冷たい、しかし揺るぎない事実として記されていた。


「将軍、袁紹は去りましたが、本当の敵はここにいます」

陳宮は羊皮紙の一点を指さした。

「飢えと、絶望です。あなたの武は、この目に見えぬ敵を倒せますか」

その声は非情なほどに冷静だが、奥には主君の真の覚醒を願う熱がこもっている。


呂布は反論しなかった。ただ、羊皮紙に書かれた「餓死者」「流民」という文字を睨みつけ、唇を強く噛みしめる。常山の戦場で感じた無力感が、別の形で、しかし、より重く彼の肩にのしかかってきた。顔良の首を獲ったこの腕も、文醜を屠ったこの戟も、飢える民の前には何の役にも立たない鉄の塊でしかない。


「…分かった」

呂布は深く息を吸い込むと、決然と言った。

「俺の目で、その敵を見てくる」


お忍びでの視察。それは、呂布にとって初めての経験であった。

領主としての威光を示すための巡察ではない。ただ一人の男として、この并州の真の姿を見るための旅。供には、張遼一人だけを連れた。


質素な旅装束に着替える呂布の傍らには、三人の娘たちがいた。

暁は心配そうな顔で、「お気をつけて」と、自分で調合した薬包を渡す。「父上、民の声を聞くことは大切です。ですが、その声に惑わされてはなりませぬ。真に必要なものを見極める、父上の眼を信じております」。彼女は父を心配しつつも、領主としての厳しい判断を促すことを忘れなかった。

飛燕は「父上がいなくても、并州は私が守るわ!」と、父から贈られた木製の槍を掲げて息巻く。その姿に、呂布は「ああ、頼んだぞ」と、初めて父として娘に頼る言葉を口にした。飛燕は驚きと喜びで顔を赤らめる。

華は何も言えず、ただ黙って旅の無事を祈り、父の上着の裾をぎゅっと握っていた。その小さな手の温もりに、呂布は守るべきものの重さを改めて感じ、その頭を優しく撫でた。


晋陽の城下町を離れると、風景は一変した。

豊かな都の姿はすぐに消え、目の前に広がったのは、呂布がこれまで目を背けてきた并州の厳しい現実であった。

家は傾き、畑はひび割れ、人々は生気を失っている。道端では、痩せこけた子供たちが泥水を啜っていた。戦勝の熱など、どこにも届いていない。


「これが…」呂布の喉が、乾いた。「これが、俺が守ったはずの并州の姿か…?」

彼の武人としての誇りが、ガラガラと音を立てて崩れ去る。袁紹の猛将を討ち取った腕が、この子供たちを救うためには何の役にも立たないという現実に、彼は打ちのめされた。

隣を歩く張遼も、その光景に言葉を失い、ただ拳を強く握りしめることしかできなかった。


やがて、一行はとある農村にたどり着く。村の入り口で、人々が何かを囲んで泣いていた。近づくと、それは飢えと病で息絶えた老人だった。人々は呂布たち旅人を見ても、警戒する気力すらない。その目は、生きる希望そのものを失っていた。

その中で、一人の老婆が呂布の前に進み出た。


「旅のお方…」

老婆は震える手で、一杯の濁った白湯を差し出した。

「…こんなものしかねえが、飲んでくだされ。旅の疲れも、少しは癒えましょう」


呂布は、その老婆の手の骨張った感触と、深く刻まれた皺に、遠い昔に死に別れた自らの母の面影を重ねた。

なぜ、自分たちよりも苦しいはずのこの老婆は、見知らぬ自分に情けをかけるのか。その無償の優しさが、彼の心をさらに揺さぶった。

呂布が白湯を飲み干し、深く頭を下げて礼を言うと、老婆はぽつりぽつりと語り始めた。

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