第二十二ノ二話:夢と遺品
第二十二ノ二話:夢と遺品
華が置いていった粥は、もう冷めきっていた。だが、呂布は、その冷たい粥を、一匙、また一匙と、ゆっくりと口に運んだ。味などしない。しかし、その行為だけが、凍てついた彼の心をほんの少しだけ溶かしてくれるような気がした。
その夜、呂布は十日ぶりに自らの寝台で眠りについた。
深い、闇のような眠り。その中で、彼は夢を見た。
見慣れた、晋陽の訓練場。若い頃の自分が、必死に方天画戟を振るっている。重すぎる戟に振り回され、何度も地面に転がる。その度に、傍らで見ていた丁原が、雷のような声で怒鳴る。
「立て、奉先!その程度でへばるのか!天下に、お前の武を示すのではなかったのか!」
厳しい言葉。だが、その瞳の奥には、確かな愛情があった。
そして、その少し後ろで、張譲が、いつもと変わらぬ困ったような、しかし優しい笑顔で、自分に手ぬぐいを差し出してくれる。
「奉先様、少しお休みになられては。丁原様も、口ではああ仰いますが、あなた様のお体を一番に案じておられるのですぞ」
その温かい声に、呂布はふと我に返る。
「じい…?」
夢の中の張譲は、にこりと笑うと、静かに言った。
「奉先様、いつまで寝ておられるのですか。民が、姫様がたが、お待ちですぞ」
その言葉が、霧の中の道標のように、呂布の意識を現実へと引き戻した。
翌朝、呂布は、まるで何かに導かれるように、自らの足で、張譲の遺品が整理されている部屋へと向かった。
部屋には、爺が長年愛用していた武具や、着古した衣類が、主を失い、静かに置かれていた。埃の匂いに混じって、微かに、爺の汗の匂いがするような気がした。
呂布は、壁に掛けられた、一着の古い戦袍に手を伸ばした。それは、彼がまだ若く、戦場で無茶ばかりしていた頃、敵の刃で切り裂かれたものを、張譲が夜なべをして繕ってくれたものだった。
震える手で、その不格好な縫い目を指でなぞる。
「奉先様、武具は己の命。もっと大切になさいませ」
そう言って、少し呆れたように、しかし、どこか嬉しそうに針を動かしていた、爺の背中が、鮮やかに蘇る。
あの時、俺は、ただ「ありがとう」と、ぶっきらぼうに返すことしかできなかった。
本当は、もっと、伝えるべき言葉があったはずなのに。
その瞬間、堪えていた感情が、熱い奔流となって堰を切った。
「う…うう…ああああああっ…!」
天下無双と謳われた男は、その場に崩れ落ち、声を殺すこともできず、ただ子供のように嗚咽した。己の驕りが招いた、取り返しのつかない喪失。その罪の重さが、彼の巨躯を打ちのめした。
長い、長い慟哭の後、呂布はゆっくりと立ち上がった。涙は枯れ果て、その瞳には、底なしの悲しみの色と共に、何かを振り払うかのような、かすかな決意の光が宿り始めていた。彼は、己の不甲斐なさを恥じるように、汚れた顔を腕で拭った。
(…そうだ。いつまでも、子供のように泣いてはいられん。俺は…この并州の父とならねばならんのだ…)
まさに、彼が自らの足で再び歩みだそうとした、その時だった。
「将軍…今、よろしいでしょうか」
背後から、静かな、しかし芯の通った声がした。
呂布が振り返ると、そこには忠臣・李粛が、静かに膝をついていた。彼の表情には、主君の変化を敏感に感じ取った安堵の色が浮かんでいる。そして、その両手には、一つの古びた革製の腕輪が、恭しく捧げ持たれていた。
「李粛か…。それは、爺の…」
呂布は、その腕輪に見覚えがあった。爺が、いつも左腕にはめていた、あの腕輪だ。
「…これは、張譲様からの、最後の…」
李粛が、震える声で、主の最後の言葉を紡ぎ始めた。
「『老いぼれの、最後の諫言にございます…どうか、独りよがりには…そして、どうか、民をお守りくだされ…それが、丁原様の、そしてこのワシの、たった一つの願いにございます』と…」
呂布は、よろめくように立ち上がると、その腕輪を、震える手で受け取った。
長年、人の肌に触れていたのであろう革の温もりが、冷え切った彼の掌に、じんわりと沁みていく。
それは、ただの遺品ではなかった。
育ての親・丁原の魂。
そして、その遺志を継ぎ、生涯をかけて自分を支え続けてくれた、もう一人の父・張譲の魂。
丁原から張譲へ、そして自分へと渡された、三代にわたる、并州を守るという「想い」の証。
その腕輪は、ただの武人であった自分に、「并州の父」としての役割を託す、重すぎる王冠でもあった。
(親父殿…じい…)
呂布は、腕輪を強く、強く握りしめた。
二人の顔が、脳裏に浮かぶ。
一人は、自分に「力」と「誇り」を与えてくれた父。
もう一人は、自分に「優しさ」と「戒め」を与えてくれた父。
そのどちらが欠けても、今の自分はいなかった。
「…俺は、あんたたちの息子だ…!」
彼の唇から、絞り出すような声が漏れた。
「…ただの武人ではない…この并州の父として、生きていかねばならんのだ…!」
呂布は、李粛の前で、ゆっくりと、しかし深く、頭を下げた。それは、一人の将軍が家臣に見せるものではない。一人の息子が、父の遺言を預かってくれた友に捧げる、心からの感謝の礼であった。
「…爺の最後の言葉、確かに、この胸に刻んだ。李粛、ご苦労であった」
李粛は、涙で言葉にならず、ただ、何度も何度も頷いた。
顔を上げた呂布の瞳には、深い悲しみの色と共に、二人の父の遺志を継ぐという、揺るぎない決意の光が、北方の冬空に輝く星のように、確かに宿っていた。
北方の地に、新たな主が、その重すぎる冠を、自らの意志で戴く覚悟を決めた瞬間であった。
彼の、本当の意味での戦いは、この深い絶望の底から、今、始まろうとしていた。




