幕間:軍師の値踏み
幕間:軍師の値踏み
陳宮の脳裏には、今もあの男の顔が焼き付いて離れない。
中原の心臓部、兗州の地で出会った一人の英傑、曹操孟徳。その小柄な身体には、天下を飲み込もうとする巨大な野心が宿っていた。弁舌は人を惹きつけてやまず、知略は乱世の霧を晴らすかのようだった。初めて言葉を交わした時、陳宮は確信した。この男こそが、長きにわたる戦乱を終わらせる天命を帯びた者であろう、と。彼の元でならば、自らの知謀を存分に振るい、漢室復興という大義を成し遂げられるかもしれない。その期待に、陳宮の心は確かに高揚した。
だが、共に時を過ごすうち、陳宮はその輝きの裏にある、深い闇をも見てしまった。理想を語るその瞳の奥には、氷のように冷徹な現実主義が潜んでいた。目的のためならば、かつての友ですら躊躇なく切り捨てる非情さ。そして、自らの覇道を突き進むためならば、民草の万の命すら、必要経費として計算するであろう、その恐るべき合理性。
(孟徳殿、あなたの覇道は確かに天下への近道やもしれぬ。だが、その道はあまりにも乾きすぎている…。血も涙も、そして人の温もりさえも、覇業の礎として踏み砕いていくおつもりか…)
理想と現実の狭間で、陳宮は深く苦悩した。乾いた覇道に、自らの理想を重ねることは、どうしてもできなかった。やがて彼は、曹操の前から静かに姿を消し、あてどない放浪の旅に出た。己の知略を、真に捧げるに値する「義」を持つ主君を求めて。
そして、流れ着いたこの北方の地、并州で、彼は実に奇妙な噂を耳にすることになる。
「飛将」呂布奉先。
その武勇は、もはや人の域を超え、鬼神の如しとまで謳われている。だが、陳宮の心を捉えたのは、その武の輝きではなかった。彼が興味を惹かれたのは、その力の裏側にある、驚くほどに人間臭い逸話の数々だった。
育ての親である丁原への、裏切りの欠片もない純粋なまでの「誠」。その忠義は、まるで計算というものを知らぬ子供のようであった。そして、北方の民を異民族から守るため、圧倒的な兵力差をものともせず、単騎で敵陣に突撃するような、無謀としか言いようのない不器用さ。
(あの男は、まるで荒ぶる神だ。人の心を解さぬ、強大すぎる力そのもの。導き方を間違えれば、その力は全てを破壊し、やがては自らをも焼き尽くすだろう。だが…)
陳宮の心に、一つの危険な、しかし胸の躍るような問いが浮かび上がった。
(…もし、その強大な力を、正しく導くことができたなら? 民を守るための盾として、乱世の不義を討つための矛として、振るわせることができたなら、一体何が起きる…?)
それは、曹操の元で天下を取るよりも、遥かに困難で、そして遥かに価値のある大業ではないか。
そんな折、呂布軍が黒山賊の奸計に苦しみ、泥沼の戦いに足を取られているという報せが届いた。陳宮は、これを天が自分に与えた好機だと直感した。あの荒ぶる神が、己の力の限界を悟り、最も絶望している今こそ、自らの存在を示す絶好の機会だ。真に仕えるに値する器かどうか、この陳宮の眼で、とくと値踏みしてやろう。
彼は、旅で汚れた粗末な衣を纏い、ただの旅の学者のふりをして、呂布軍の陣営近くの村に腰を据えた。昼は村人たちと当たり障りのない話を交わしながら、戦況の噂に耳を澄ませ、兵糧に窮する兵たちの囁きを聞き、遠巻きに、しかし鋭く、陣の様子を観察した。規律は取れているが、兵士たちの目には疲労と焦りの色が濃い。将軍たちの間にも、苛立ちが蔓延していることだろう。
そして、あの若き主君だ。彼の性格を噂から推察するに、今夜あたり、必ずや痺れを切らして無謀な単独行動に出るはずだ。その、最も孤独で、最も絶望した瞬間にこそ、軍師の言葉は雷のように魂を撃つ。
夜の帳が下り、冷たい風が吹き始める。陳宮は、村人たちが寝静まるのを待つと、夜の闇に紛れて静かに立ち上がった。彼の頭の中では、既に黒山賊を殲滅するための、完璧な絵図が描かれていた。敵の伏兵の位置、兵糧庫の場所、そして、呂布の武を最大限に活かすための陽動策。全ては、この数日間の観察で、読み切っている。
これは、呂布という男に対する、陳宮からの「面接」である。そして同時に、自らの知略という商品を、最も高く売り込むための、最初で最後の賭けでもあった。
もし呂Pが、自分の策の価値を理解できぬ、ただの猪武者であったなら、このまま見捨てて去るまで。だが、もし、あの男が、己の無力を認め、他者の知恵を受け入れる器を持つならば――。
その時こそ、この陳宮、生涯を賭して、この荒ぶる神を天下に冠たる真の英雄へと導いてみせよう。
陳宮は、冷たい夜気の中で、不敵な笑みを浮かべた。彼の瞳の奥では、乱世の盤面を覆す、壮大な一手が、静かに始まろうとしていた。