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第二十二話:温かい粥

第二十二話:温かい粥

常山の戦いは、袁紹軍を退けるという、軍事的には完全な勝利で終結した。

だが、并州軍の陣営に、その熱狂はなかった。夕暮れの血のように赤い空の下、武具を片付ける無機質な金属音と、遠くで聞こえる負傷兵の呻きだけが、乾いた風に乗って響いていた。あまりにも大きな代償。その事実は、兵士たちの心に、勝利の味を忘れさせるほど重く、冷たくのしかかっていた。


呂布は、血に濡れた方天画戟を杖のように突き、神馬・赤兎の背の上から動かなかった。彼の視線の先には、かろうじて回収され、泥と血に汚れた粗末な布に包まれた張譲の亡骸がある。顔良・文醜を討ち取ったという、武人としての高揚感は、既に遥か彼方へと消え失せ、彼の世界は無音となっていた。


「なぜだ…?」

彼の唇から、か細い声が漏れた。

「勝ったはずだ。俺は、勝ったはずなのに…なぜ、こんなにも寒い…?この胸に空いた穴は、なんだ…?」

驕りが招いた結果への、まだ形にならない後悔が、冷たい霧のように彼の心を覆い始める。


張遼が馬を寄せ、「将軍、お戻りください。兵たちも、疲弊しております」と声をかけるが、呂布は虚ろな目で空を見つめるだけだった。その瞳には、もはや戦場の光はない。

陳宮は、その姿を見て、静かに馬上で頭を垂れた。この、あまりにも大きな喪失を、主君がどう乗り越えるのか。軍師の知略をもってしても、その答えは見いだせなかった。


晋陽への帰路は、まるで葬列のように静かであった。

そして、城に戻ってからも、呂布は変わらなかった。


晋陽の街を見下ろす丘の上に新しく作られた、張譲の墓前。降りしきる冷たい秋雨の中、呂布は鎧も脱がず、泥にまみれて座り続けていた。雨水が彼の顔を伝い、涙なのか雨なのか、誰にも区別がつかなかった。

彼の脳裏では、張譲との他愛ない思い出が、繰り返し再生されていた。

『奉先様、無茶はいけませんぞ』

『奉先様、また姫様方に叱られますぞ』

その優しかった声が、今は「お前のせいだ」「お前がワシを殺したのだ」という鋭い幻聴となって、彼の心を苛む。彼は耳を塞ぎ、巨体を縮こませ、ただうずくまることしかできなかった。


その父の姿を、三人の娘たちは、それぞれの場所から、それぞれの思いで見つめていた。


長女・暁は、父が立ち入らなくなった書斎に籠もっていた。丁原が使っていた墨の匂いが、まだ微かに残る部屋で、彼女は并州の兵糧台帳と格闘していた。そのあまりの複雑さと、一行一行に込められた父や祖父の苦悩に頭を抱えながらも、「この重みを…私が理解しなければ…」と、涙をこらえながら竹簡を睨む。そこへ様子を見に来た陳宮は、彼女の聡明さと、父を思う健気な姿に、言葉を失った。


次女・飛燕は、訓練場で汗と土にまみれていた。藁人形を「袁紹兵」に見立て、息が切れるまで槍を振るい続ける。「父上のせいじゃない!悪いのは全部、袁紹だ!父上は悪くない!」。彼女の怒りは、父を守るための純粋なもの。その姿を高順が静かに見守り、「姫様、怒りの槍は、穂先が鈍りますぞ」と、不器用ながらも彼女を諭した。


そして、三女の華だけが、毎日、父の元へと足を運んだ。

厨房で、侍女に教わりながら、滋養のあるあわの粥を作る。火傷をしながらも、父の好物だった干し肉を細かく刻んで入れる。「お爺様も、このお粥が好きだった…」。彼女は、父と爺の思い出を、粥という温もりに込めた。


夕暮れ時、空が悲しいほど美しい赤色に染まる。華が粥を置き、去り際に、父の背中が今まで見たこともないほど小さく見え、思わず言葉が漏れた。

「お父様…」

呂布の肩が、ほんのわずかに動いた気がした。

「…張譲のお爺様は、きっと、怒っていませんよ」

華は、嗚咽をこらえながら、言葉を続ける。

「お父様が、こんなに悲しんでいることを、空の上で…きっと、悲しんでいると思います…」


その、震える声が、幻聴に支配されていた彼の世界に、初めて「他者からの温かい言葉」として届いた。

彼はゆっくりと振り返り、涙で歪む視界の中に、心配そうに自分を見つめる末娘の姿を捉える。凍てついていた彼の心に、初めて温かい亀裂が入る。


(…じい。あんたは、俺に怒っているか…? いや、違うな。きっと、悲しんでいる…。俺が、このまま立ち止まっていることを。この子を、悲しませていることを…)


呂布は、無言で、震える手で粥の椀に手を伸ばした。味はしなかった。だが、その温もりだけが、彼の魂に、生きるための熱をわずかに取り戻させた。

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