第二十一ノ二話:慟哭
第二十一ノ二話:慟哭
張譲たちの決死の突撃は、巨大な波に投げ込まれた小石のように、ほんのわずかな波紋しか生まなかった。
老将は数人の敵兵を道連れにしたが、やがてその体に無数の槍が容赦なく突き刺さる。
「ぐ…ふっ…」
血反吐を吐きながら、張譲はその場に崩れ落ちた。
「張譲殿が、討ち死にー!」
その絶叫は、ついに、遠くで戦う呂布の耳にも届いた。
「……何?」
呂布の動きが、止まった。今、何と言った?
じいが…死んだ…?
ありえない。あの爺は、いつも俺の後ろで心配そうに、しかし必ずそこにいてくれたではないか。
「じい!」
呂布は我に返ると、目の前の敵には目もくれず赤兎を反転させた。
「どけええええええっ!」
彼の咆哮は、もはや人のものではなかった。傷ついた獣の、魂からの叫びであった。
進路を塞ぐ袁紹兵は、その怒りの奔流の前に一瞬で肉塊と化す。
敵軍の多くは呂布の反転に混乱し敗走を始めており、彼が本陣に駆け戻った時には、戦いの趨勢は決していた。
陳宮が兵をまとめ、かろうじて戦線を維持している。
そして、その中央に、無数の槍に貫かれ、血の海の中に静かに横たわる、見慣れた老将の姿があった。
「……じい…?」
呂布は赤兎から転がり落ちるように下りると、よろよろと亡骸に近づいた。
その顔は安らかだった。まるで、全ての役目を終えて満足して眠りについたかのようだ。
「…嘘だ…」
呂布はその場に膝をつき、震える手で張譲の頬に触れた。
冷たい。
もう、あの時のような温もりはなかった。
「ああ…あああああああああああああっ!」
「じいいいいいいーーーーーーーーっ!!」
呂布の慟哭が、勝敗の決した戦場に虚しく、そしてどこまでも悲しく響き渡った。
俺のせいだ。俺が、独りで全てを背負おうとしたからだ。爺の言葉を聞かず、仲間を信じきれなかったからだ。
自分の「守る」という独りよがりな覚悟が、最も守りたかったはずの家族を殺した。
取り返しのつかない後悔と自らへの激しい憎悪が、彼の心をずたずたに引き裂いていく。
(なぜだ…俺は、守りたかっただけなのに…!)
その時、彼の脳裏に、二人の父の声が雷鳴のように響き渡った。
『奉先…独りよがりになっては、ならんぞ…』
――それは、今は亡き丁原の、最後の遺言。
『奉先様…あなたの背中には、いつも、我らがいることを…』
――それは、今、目の前で冷たくなった張譲の、最後の祈り。
「…ああ」
呂布の慟哭が、ぴたりと止んだ。
涙に濡れた瞳が、大きく見開かれる。
「…そうか。俺は、独りで戦っていたのではなかったのだ…」
彼は、冷たくなった張譲の手をそっと握りしめた。
「親父殿…じい…あんたたちは、ずっと教えてくれていたのだな。俺は独りで守ろうとして、独りで突っ走って、そして…あんたたちに、守られていただけだったのだ…!」
その瞬間、呂布の中で何かが音を立てて砕け、そして、何かが新たに生まれた。
個の「武」への絶対的な自信は砕け散り、仲間と共に立ち、その痛みと重責を分かち合う、真の「将」としての魂が産声を上げたのだ。
陳宮は、その一部始終を息を殺して見つめていた。慟哭し、そして静かに立ち上がろうとする主君の姿に、この痛みこそが彼を真の指導者へと変える試練であったと確信する。
そこへ張遼が駆け寄り、呂布の肩に手を置いた。「将軍…」
その時、前線から伝令が駆け込んできた。
「申し上げます! 敵軍、全軍に撤退命令! 袁紹軍は冀州へと敗走しております!」
その報告を聞いても、呂布は動かない。
兵たちの歓声も、敗走する敵の姿も、もはや彼の耳にも目にも届いていなかった。
彼は静かに立ち上がると、亡骸を抱え、絞り出すような声で、しかし揺るぎない威厳を込めて命じた。
「…追うな」
「全軍、撤退する。…爺を、故郷へ連れて帰るのだ」
その声には、勝利の昂揚など微塵もなかった。
ただ、かけがえのないものを失い、そして、それ以上に大きなものをその魂に得た男の、静かで重い決意だけが込められていた。
◇
その後、命からがら冀州へと敗走した袁紹軍の本拠地、鄴の広間は、重苦しい空気に支配されていた。
「馬鹿な…ありえん…! 我が五万の軍勢が、并州の田舎武者に…。顔良と文醜までもが、たった一人の男に討たれただと!?」
玉座に座る袁紹は、敗戦の報告書を持つ手をわなわなと震わせ、信じられないといった表情で叫んだ。
その前に膝をついた沮授が、沈痛な面持ちで進言する。
「殿。呂布はもはや我らが容易に手を出せる相手ではございません。その武は人の理を超えております。并州への侵攻は、今は諦めるべきかと…」
その言葉に、反論できる者はいなかった。
この敗北は、袁紹の心に「呂布」という名の、生涯消えることのない恐怖を刻み付けた。彼が再び并州に目を向けることは、この先、二度と無かった。
◇
一方、故郷へと帰る途上の呂布軍の陣営もまた、勝利の気配なく静まり返っていた。
その中心で、呂布は張譲の亡骸が納められた棺の前から片時も離れずにいる。
河北の地で得た勝利。その代償は、あまりにも、あまりにも大きかった。
この日、呂布は自らの武がもたらした栄光と、その過ちが招いた絶望の、両方を骨の髄まで味わった。
彼の心に刻まれたこの深い傷痕こそが、彼を次なる段階へと導く道標となる。
戦には勝った。だが、呂-布は何も得られなかった。いや、かけがえのないものを永遠に失ってしまった。
彼の、本当の意味での「将」としての戦いは、この深い絶望の底から、今、始まろうとしていた。




