第二十話:飛将 vs 河北の猛将
第二十話:飛将 vs 河北の猛将
翌朝、夜明けと共に、呂布は誰の制止も聞かず、赤兎に跨って陣を出た。
燃えるような深紅の毛並みを持つ神馬・赤兎は、主の昂りを感じ取ったかのように天を衝くような鋭い嘶きを上げた。その蹄は大地を蹴るというより、まるで空間そのものを掴んで跳躍しているかのようだ。
ただ一騎、平原の中央へと進み出ると、呂布は敵陣に向かって大音声で叫んだ。
「袁紹軍に告ぐ! 我は并州の呂布奉先なり! 貴殿らの大将、顔良と一騎討ちを望む! 臆したか、河北の犬どもめ!」
その声は、五万の大軍が立てる物音をいともたやすく貫き、全ての兵士の鼓膜を震わせた。
この挑発に、袁紹軍は激しくどよめいた。
「呂布め、一人で来るとは死にたいらしい!」
「顔良様! あの男の首をはねてくだされ!」
やがて、袁紹軍の陣門が開き、一人の巨漢が馬を駆って現れた。その手には巨大な大刀が握られている。河北が誇る双璧の一、顔良その人であった。
「小僧が、よくも抜かしたな! その命、この顔良が貰い受ける!」
言葉を交わすのももどかしく、二人の猛将は戦場の中央で激突した。
ゴォォォンッ!
方天画戟と大刀がぶつかり合い、鼓膜を破らんばかりの金属音が平原に響き渡り、火花が滝のように散った。
顔良の斬撃は、山をも断つかのような重さと鋭さを兼ね備えていた。その一撃は空気そのものを切り裂き、唸りを上げて呂布に迫る。並の将であれば、一合打ち合っただけで武具ごと両断されていただろう。
(ほう、やるな…! これが河北の双璧か!)
呂布は、戟を通して伝わってくる凄まじい力に獰猛な笑みを浮かべた。これだ。これこそが、俺が求めていた戦いだ。魂が震える。
だが、呂布の武はそれをさらに上回る。
顔良が二の太刀を繰り出すよりも早く、赤兎が常人には理解不能な動きを見せる。その四肢はまるで浮いているかのように滑らかに横へスライドし、顔良の斬撃を紙一重で回避する。そして、呂布の方天画戟が予測不能な角度から、まるで生きている大蛇のように顔良の側面を襲った。
力では互角でも、速さと技の多彩さでは呂布に分があった。いや、次元が違った。
数十合に及ぶ、息もつかせぬ死闘。
それはもはや人の戦いではなかった。二つの天災が、互いの全てを賭してぶつかり合っているかのようだ。
互いの体から湯気が立ち上り、馬の呼吸も荒くなる。
顔良の額に、初めて焦りの汗が浮かんだ。(速い…! なんだこの速さは! 俺の太刀筋が、完全に見切られているというのか!)
その一瞬の焦りを、呂布は見逃さない。
(今だ…! この一撃で決める!)
彼の脳裏に、晋陽の痩せた土地と民の疲弊した顔がよぎる。
(これ以上、戦を長引かせるわけにはいかん! 兵糧も、兵の命も無限ではないのだ! この戦を終わらせ、一日でも早く故郷へ…!)
それは単なる武人の闘争心ではない。領主として全てを背負う者の、悲痛なまでの決意だった。
呂布の方天画戟が、閃光のように宙を舞った。それはもはや武器の動きではない。天翔ける龍が、その顎で敵を喰らうかのような絶対的な軌道を描く。
月牙の刃が、顔良の屈強な鎧を熟れた果実を裂くかのようにたやすく切り裂き、その心臓を深く、そして容赦なく貫いた。
「ぐ…おぉ…」
顔良は、信じられないといった表情で自らの胸を見下ろし、その瞳から光が消え、そのままどっと音を立てて落馬した。
「か、顔良様が…討ち取られた!」
袁紹軍に絶望的な動揺が走る。
「見たか! これが俺の武だ!」
呂布は、戟に突き刺した顔良の亡骸を戦利品の旗のように高く掲げ、勝ち鬨を上げた。并州軍からは地鳴りのような歓声が上がる。
だが、その勝利の昂揚が呂布の視野を曇らせていた。
彼が敵軍の再編に気づかぬ、ほんのわずかな隙。
「兄者の仇ぃ!」
雷鳴のような声と共に、袁紹軍の側面から新たな一軍が猛然と突撃してきた。顔良の義弟、文醜である。その勢いは悲しみと怒りによって、まさに鬼神の如しであった。
「ちぃっ、次から次へと!」
呂布は我に返ると、顔良の亡骸を無造作に投げ捨て、単騎で文醜軍へと突入した。再び、血で血を洗う死闘が始まる。
文醜の槍は、兄・顔良にも劣らぬ凄まじさだった。荒々しく予測不能な突きが、嵐のように呂布を襲う。
だが、一度激戦をくぐり抜けた呂布はもはや冷静だった。その猛攻を戯れるかのように捌きながら、逆に文醜を追い詰めていく。
そしてついに、方天画戟が文醜の槍を絡め取り、宙へと弾き飛ばした。
武器を失い呆然とする文醜。その首を、呂布の戟が朝日を反射しながら、美しく、そして残酷な円弧を描いて胴から切り離した。
河北が誇る双璧が、たった一人の男の前に地に伏した瞬間であった。
呂布は、二人の猛将の亡骸を見下ろし、天に向かって咆哮した。
「これで、終わりだ!」
その声は、この常山の地にいる全ての生き物の魂を震わせた。
この勝利は、完全に自分一人の力で掴み取ったものだと、彼は信じて疑わなかった。
父の教えも軍師の懸念も、今の彼にとっては自らの武の輝きを曇らせる些細なことに過ぎなかった。
飛将の「覚悟」は、彼自身も気づかぬうちに、危険な「驕り」へとその姿を変えようとしていた。




