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幕間:老将の覚悟

幕間:老将の覚悟

呂布が怒声と共に幕舎を飛び出していく。その大きな背中を、張譲は、震える膝を必死で堪えながら、ただ見送ることしかできなかった。

床にこすりつけた額が、ひりひりと痛む。だが、それ以上に、老いた心が、ずきずきと痛んでいた。


(届かなかった…ワシの言葉も、もはや、あの御方には…)

いつからだろうか。

あの、曠野で拾った狼の子のような少年が、いつの間にか、誰の手にも負えぬ、天翔ける龍となってしまったのは。


脳裏に、今は亡き主君の、若かりし頃の姿が蘇る。まだやんちゃな奉先様の頭を、丁原様が大きな拳で殴りつけながら、「爺、こいつはワシがいなきゃただの暴れ馬だ。ワシに何かあったら、後を頼むぞ」と、困ったように笑っていた、あの日のことが。

その遺言を守らんと、必死で諫言した。

だが、返ってきたのは、心を抉るような、拒絶の言葉だった。

『親父殿はもういないのだ!』


そうだ、分かっている。丁原様は、もういない。

だからこそ、ワシのような老いぼれが、口うるさく、嫌われ役になってでも、あのお方を止めねばならなかったのだ。


(奉先様は、勘違いをしておられる…)

黒狼族との戦い。あれは、確かに見事な勝利であった。だが、あれは、奉先様お一人の力で勝てた戦ではない。

後方で、陳宮殿が必死に知恵を絞り、張遼殿や高順殿が、決死の覚悟で主君の背中を守った。そして、多くの兵士たちが、主君の武を信じ、自らの命を盾にした。

皆の力が一つになったからこそ、あの奇跡のような勝利があったのだ。

だが、今の奉先様には、そのことが見えていない。己の武への絶対的な自信が、その目を曇らせてしまっている。


(このままでは、あのお方は、いつか必ず、取り返しのつかない過ちを犯される…)

張譲は、ゆっくりと立ち上がった。

そして、壁に掛けられていた、長年使い古した自らの剣を、そっと手に取った。もう、この剣を振るうことはないと思っていた。だが、どうやら、まだ、この老いぼれにも、最後の役目が残されているらしい。


彼は、静かに幕舎を出ると、信頼する部下の一人、長年の腹心である李粛りしゅくを呼び寄せた。

「李粛よ、これを」

張譲が差し出したのは、彼が長年身につけていた、古びた革製の腕輪だった。

それは、かつて丁原から贈られた、ただ一つの品だった。

「もし、ワシに何かあったら…これを、奉先様にお渡ししてくれ。そして、伝えるのだ。『老いぼれの、最後の諫言にございます』と…」

李粛は、涙を堪え、震える手でそれを受け取った。


(丁原様…お許しくだされ)

(ワシは、あのお方を、言葉で止めることはできませんでした)

(なれば、この命を以て、あのお方の盾となりましょうぞ)

(そして、この身をもって、あのお方に、独りの力では決して勝てぬ戦があることを、お教えするのです)


その皺だらけの顔には、悲しみはなく、ただ、息子同然に育ててきた若者の未来を案じる、穏やかで、そして決死の覚悟に満ちた光が宿っていた。

老将は、己の死に場所を、確かに見定めていた。

それは、主君の過ちを正すための、最後の、そして最も忠義に満ちた戦場であった。

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