第十九ノ二話:亀裂
第十九ノ二話:亀裂
「…以上が、斥候からの報告です。敵の布陣に、隙はございません」
陳宮が、緊張の面持ちで報告を終えると、本陣の幕舎は重い沈黙に包まれた。
彼は、地図を指し示しながら、己の策を述べ始めた。
「敵は大軍、我らは寡兵。正面からの決戦は、あまりにも危険です。ここは、砦に籠もり、持久戦に持ち込むべきかと。幸い、ここは我らの土地。地の利は我らにあります。敵の補給路は長く、いずれ必ず綻びが生じるはず。そこを、張遼殿の騎馬隊で叩くのです」
それは、兵法の常道に則った、最も堅実で、最も勝算の高い策であった。
だが、その言葉を聞いた呂布の心は、激しい焦燥感に駆られた。
(持久戦だと…?陳宮、貴様まで親父殿と同じことを言うのか…)
彼の脳裏に、ひび割れた大地と、飢えに苦しむ民の顔が浮かぶ。并州に、持久戦に耐える力など残されていない。それは、この数ヶ月、帳簿と格闘してきた自分が一番よく分かっていた。
(親父殿は、守りを固め、耐え忍ぶことで并州を守った。だが、そのやり方では、この乱世の速さにはついていけぬ!俺は、親父殿とは違うやり方で、この并州を守る。いや、守らねばならんのだ!)
「なりませぬ、奉先様!」
その時、張譲が悲痛な声を上げた。「黒狼族の時とは、訳が違います! 相手は、河北が誇る歴戦の名将! どうか、どうか陳宮殿の策をお聞き入れくだされ!」
張譲は、その場に膝をつき、額を地面にこすりつけるようにして、呂布に懇願した。
その姿に、呂布の心は苛立ちではなく、悲痛な想いで満たされた。
老将の姿が、今は亡き父・丁原の面影と、どうしようもなく重なって見える。その心配性の眼差し、慎重な物言いが、まるで天上の父に「お前には無理だ」「ワシの言う通りにしろ」と叱責されているかのように感じられたのだ。
「…じい」
呂布の声は、怒りよりも、むしろ子供が親に反発するような、悲しい響きを帯びていた。
「あんたの言うことは分かる。親父殿も、きっとそう言っただろう。だが、そのやり方ではもう駄目なんだ! 親父殿は、守りを固め、耐え忍ぶことで并州を守った。だが、その結果、民は疲弊し、国力は衰えた!俺は、親父殿とは違うやり方で、この并州を救う! 俺の武で、この戦を一刻も早く終わらせることこそが、民を救う唯一の道なのだ!なぜ、それが分からん!」
彼は、張譲の肩に手を置き、叫ぶように言った。
「親父殿はもういない!この并州の未来は、全て俺が背負っている!俺には俺のやり方がある!あんたたちが信じる親父殿のやり方では、もうこの乱世は生き抜けんのだ!」
彼の瞳には、誰にも理解されない孤独な領主の、涙さえ浮かんでいるように見えた。
「…頼むから、黙っていてくれ。俺を、親父殿と同じ秤で計るな…!」
呂布は、逃げるように幕舎を飛び出した。後に残されたのは、絶望的な沈黙だけだった。
張譲は、その場で力なく崩れ落ちた。老将の心は、主君に拒絶された悲しみと、その悲痛な覚悟を理解してやれなかった無力感で、引き裂かれていた。
陳宮は、深いため息をつくと、静かに立ち上がった。
(ああ、やはりこうなるか。だが、これがこのお方なのだ。この燃え盛る炎にこそ、私は賭けたのだからな…)
彼は、一人、呂布の幕舎へと向かう。この主君は、最も大事な戦いを前にして、最も信頼すべき味方の心を、自らの手で引き裂いてしまった。戦の勝敗は、刃を交えるよりもずっと前に、決していたのかもしれなかった。




